私たち人間は神の似姿として造られました。
神様は被造世界に対して、性相的男性格主体だといいます。
だとすれば、人間は環境世界に対して、性相的主体性を持つべきでしょう。
20年以上前でしたでしょうか。
スティーブン・R・コヴィーという人が「7つの習慣」という本を書きました。
この本の中で、一つの持つべき習慣というのが、創造原理を連想させたので、印象に残りました。それは「インサイド・アウト」というマインド・セットです。
創造原理では、一部分を抜き取ってみるとこんな箇所がありました。
さらに、我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。
「その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。」
「内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。」
以上のような文を読んで、生活の中に応用してこれを落とし込もうとしても、創意工夫を試行錯誤してきた食口ですとできましょうが、なかなか一般の食口の方には、難しいかもしれません。
ところが「インサイド・アウト」という言葉にこれを変換してみますと、かなりわかりやすくなるのではないかと思われます。
私たちの外側に起こってくる事は、一見環境が大きな原因となっていて、その状況を変え難いと感じやすいものです。
ところで、お父様は全くそのような発想が微塵もございませんでした。
お父様は常に自分の内側に原因があり、お父様のマインド・セットが原因となり、神の視点で既成の諸条件を活用すれば、外側の情況は変革し得るとお考えでした。
私たちは、過去の教育や体験や先入観や暗黙の了解事項などによって、ものごとに対する考え方の枠組みが既に形成されていて、これを通して外側の世界を判断しようとします。これをマインド・セットと呼んでいます。
このことは、現状維持の姿勢をもたらしがちになります。
この時、私を取り巻く人や環境の現状打破を図るとするならば、
私の外側のことから着手するのではなく、私の内側のマインド・セットを変革しなければならないことになります。
イノベーティブな思考からイノベーティブな行動が導き出されます。
「内から外に」です。
オールクリアしてゼロから考えよとよく言いますが、「インサイド・アウト」が原則だからです。
さてこの「インサイド・アウト」する主体の心的力から見てみます。
すると、主体性というものがあります。
この主体性を大きく3つに分類して考えてみましょう。
1,自律性(自分で自分を管理・成長できている)⇐⇒ 依存性(固執執着している)
2,主管性(自分で環境を管理・変革できている)⇐⇒ 従属性(操られている)
3,創造性(価値を創造し善の繁殖ができている)⇐⇒ 模倣性(既存に囚われる)
1タラントというのは、 一説に6000デナリと言われています。
1デナリは1日働いた賃金分に相当すると言いますから、日当10000円とすれば
1タラントは6000万円ということです。
ついでに、1ミナは100デナリに相当するとのことですから、100万円ということになります。
さて、タラントの喩え話ですが、この話の直前にイエス様が、語っているのが、10人の花嫁の話です。
主の花嫁の心情と主の妻の心情を対象格位で、主に女性信徒が勝利すべき内容のお話が為された後に、僕の話が出てくるのです。
これは、主人の代わりに主体として御旨に携わって行く、男性信徒を対象に勝利すべき内容を語っているものと思われます。
ルカによる福音書には類似の話が、タラントではなくミナで書かれていますが、僕の数は10人です。
ちょうど花嫁の10人に対応しています。
つまり、女性信徒には、花嫁として主を待ち望む心情と、主の妻としての心情一致を保つ信仰を望まれているのに対して、男性信徒には、僕すなわち家臣として忠誠を期待されていることが伺い知れます。
全ては主の花嫁が決定しないことには、真の父母としてメシアが現れることができないからでしょうか?
キリスト教は女性信仰に関心を持ちすぎてきたきらいがあります。
これは、カトリック内部の深刻な同性愛や神父の少年愛という堕落したサタン文化を築くことと関係があったように思われます。
男性が主の花嫁としての心情を追求すれば、そのような結果をもたらすことは、容易に想像ができます。
イエス様の喩え話には、僕がしばしば登場します。
そこからわれわれは、神の国への忠誠をもっと読み取るべきだったのではないでしょうか?
:14)また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
:15)すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
:16)五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。
:17)二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
:18)しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
:19)だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。
:20)すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。
:21)主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
:22)二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。
:23)主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
:24)一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 :25)そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
:26)すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
:27)それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
:28)さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
:29)おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
:30)この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
マタイによる福音書25章
主人が旅に出るので、僕を呼んで、その能力に応じて、財産の運用管理を任せるというという話です。
人を用いる時には、その人の持っている持ち味をよく知り、その活かしどころを与えよというわけです。
能力と機会をマッチングさせなさいと。
貴重な財産を任せるのだから、そこには僕の裁量、すなわち自由度 というものが生じてきます。こうしなさい、ああしなさいと言われたままに実行するなら、作業に過ぎないが、自分の5%の責任分担があるということです。ですから、作業ではなく仕事です。
自由という言葉を主体性という言葉に置き換えてお話したことがありました。
1,原理に対する主体性(原理のない自由はない)
2,責任に対する主体性(責任のない自由はない)
3,実績に対する主体性(実績のない自由はない)
この話では、主体性の放棄を「怠惰」という風に表現していますから、その反対に主体性があるということは「勤勉」だということでしょう。向上心とそれに見合った努力のことですね。
第一に、原理のない自由は無いと言いますが、詰まるところこの原理というのは一言で言えばどういうことなのでしょうか?
私は原理というのは、神と私の父子関係・父子の因縁だと思います。
イエス様は結婚なされなかった。
ですから、この主人をイエス様だとすれば、信徒との関係は、
主人と僕あるいは師と弟子の主従関係になります。
すなわち忠誠に対する主体性が一番目に問われていると考えられます。
僕は、自律性と主管性と創造性という主体性を発揮して、家臣的忠心から家族的孝心に心情を高め、僕から解放されなければなりません。主人として敬う心情から、父として慕う心情に転換して行くべきでしょう。
お父様は、イエス様の教えられた真理(原理)についてこう語りました。
天聖経から一つ引用してみましょう。
イエス様がこの地上に来て教えられた真理は、簡単です。「天地を創造した神様は、私の父だ。私は、その息子だ。あなた方は、私を信じればその息子になれる。私の父であると同時に、あなた方の父だ」と言いました。その次には、私たちに子女の道理を教えてくれると同時に、自分の父を教えてくれました。それから、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言いました。これは何でしょうか。神様を中心として家庭を築くのに必要な条件を、イエス様が来られて初めて叫ばれたのです。聖書がそうです。ほかのものは必要ありません。
天一国主人の生活 第2章 天国と真の家庭 4)天国の基盤は真の家庭から
二番目は責任感です。
この責任感はある指示が出された時に、僕がどう反応したか、実際には反応速度の問題があります。
5タラントの者は「すぐに行って」商売を始めたわけです。
2タラントの者も「同様に」したとあります。
責任感は反応速度に現れてきます。
笛吹けど踊らずではいけないでしょう。
我々の世代は、「責任心情」という言葉で教育されてきました。
三番目は実績です。
イエス様のこの話も実績のない自由はないという考えが根底にあるようです。
ところで、私にはよくわからないことが2つあります。
1タラントが1タラント(同様に期待されていたものとする)
2タラントが2タラント
5タラントが5タラント
これは、元手を100%とすれば、皆200%です。2倍化です。
喩えですからあまり複雑にならないことが必要でしょう。
ですが、2タラントが3や4タラントではいけないのかと。
5タラントが10や15タラントではいけないのかと不思議に思います。
意地悪い考えかもしれませんが、効率は同じですから、10タラントの者ではなく、4タラントの者に分け与えても変わらないことになります。
タラントを金銭的価値と捉えるのではなく、人材だと考えてみましょうか。
神様もイエス様も商人の商売のように、金銭を設けるために事業を為されないでしょうから、事業を伝道だとすれば人材復帰ということなのかもしれません。
伝道や師弟関係が一対一の関係が基本であるとすれば、「一人が一人を伝道する」ということだと考えてみると、2倍化ということなのかもしれません。
2タラントは2人の人材、5タラントは5人の人材ということになります。
あなたには協力者を2人、あなたには5人つかせましょう。
さて、もう一つわかりにくいのが、
あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。
1タラントを6000万円とすると、2タラントは1億2000万円になり、5タラントは3億円になります。
わずかのものとは、一般の人にとっては言えないでしょう。
これは一体何故でしょう。
神の財産、嗣業とは神の所有する一切のもののことです。
神様はわれわれにすべてのものを与え、相続させ、喜びの価値創造に同参させ、王の中の王である神と同位権を与えたいと胸に描いておられます。
僕の心情しか無いわれわれに対しても、その心を主人の心として、象徴的に語られます。
神様が与えたいものは、数えられるタラントではありません。
天宙の相続権です。
真の愛によって神が支配する王国を、われわれは正しく十分に理解できていません。
本来なら、分けられるはずがない神の財産を、切り崩して与えざるを得ない神の悲しみと痛みがあります。
「多くのものを管理させ」たい主人や父の心があります。
タラントが増えていく話ではなく、すべてを与えたい心があります。
与え尽くして、忘れてしまう心が。命令するのはそのためでした。
さて、同様の喩え話がルカにもあります。
こちらの方では、私の考えのような成果と同じです。
:11)人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである。
:12)それで言われた、「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。
:13)そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。
:14)ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。
:15)さて、彼が王位を受けて帰ってきたとき、だれがどんなもうけをしたかを知ろうとして、金を渡しておいた僕たちを呼んでこさせた。
:16)最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。
:17)主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。
:18)次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。
:19)そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った。
:20)それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。
:21)あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。
:22)彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。
:23)では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。
:24)そして、そばに立っていた人々に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナを持っている者に与えなさい』と言った。
:25)彼らは言った、『ご主人様、あの人は既に十ミナを持っています』。
:26)『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。
:27)しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ』」。
:28)イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。
ルカによる福音書19章
この喩え話では、10人の僕に1ミナずつ預けています。
ですから、タラントの話とは性格が違います。
また、僕によって成果の上昇率は違っています。
われわれに当てはめてみると、1ミナずつとは、「祝福」が平等に与えられたことを想い出します。
われわれ祝福家庭には、能力や功労の差が考慮されることなくなく、一律に祝福を授けていただきました。
そこからどのようにお父様の祝福する心に叶ったわれわれ、祝福の中心家庭になったことでしょうか?
先ず、御旨の指示があります。
『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。
それに対して、忠実な僕と不忠実なしもべとこの方が王になることを望まず、憎んでいる国民があります。不忠な国民です。
サンクチュアリの中に、忠実な僕と忠実でない僕の二種類が出てこないようにと警告しています。
王に対する不敬の民とは、家庭連合の兄弟に対する警告と受け取るべき喩えです。
この話はイエス様を想定しているかと思いますが、亨進様の歩みにも似ていますね。
「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。」
身分が高いというのが御子女様、イエス様がエルサレムに十字架路程を行かれるように、亨進様もペンシルバニアで気が狂いそうなほどの心情の十字架路程を行かれました。おふたりとも勝利されて復活し弟子たちを集められます。
王として再び顕れることになります。
「ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。」
家庭連合の民たちは亨進様を憎みました。
また、第二代王になることを拒否しました。
しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ』」。
怨讐を愛せよと語ってこられたイエス様がどうしてこのように厳しい発言をされるのでしょうか?
それは、
神が復帰摂理を導いてこられた目的がメシアの降臨なのに、神の国を建設される王であるメシアを憎み、追い出してしまったからです。
家庭連合が同様の罪を犯しています。
救いようのない人達です。
主人が僕達にある責任分担を指示したが、忠実に実行した僕と、実行せず不忠実な僕と王様を憎んで追い出した国民の3種類の人達が出てきました。
われわれはいずれに当たるのでしょうか?
わたしはこれらの物語を読むと、蕩減条件を思い浮かべます。
蕩減条件
1,中心人物(僕)
2,目的(忠臣になるため、何タラント・何ミナ)
3,条件物(タラントやミナで商売をしなさい)
3,期間(主人が戻るまで)
仕事には納期があります。
蕩減条件もある期間内に達成しなければ流れ去っていきます。
私が、何の目的で、どのような目標を立て、いつまでに、何をするのか
それができなければ、条件は流れ去り、天運が離れてしまいます。
最後に、「主体性」という視点で読み取って書いた、わたしの文章の不足を、天聖経のお父様の御言葉で補いたいと思います。
皆さん自身において、自主性をもたない人は、霊界に入れません。霊界にも霊界なりの世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「そこで絶対的に必要な存在だ」ということができる自主性がなくては入れない所が、天国です。
家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、やはり「自分が絶対に必要だ」と言うことができる、そのような自主性がなければなりません。そこで自分が絶対的に必要だという自主性があってこそ、行くことができる所が天国です。
地上生活と霊界 第2章 死と霊界 2)死に対する理解 ⑩ 霊界に入るとき イ、死が差し迫ったとき
考えてばかりいてそのことを行わなければ、考えていない人よりも悪いのです。そのような人は、本当にどろぼうです。それがもし思った通りにならなければ、盗みしかできないのです。
真の孝の生活 第3章 忠孝の道理 2)相手の心を読んで真の愛を施す真の忠孝
正義の道をはっきり知って、分別していくのが忠孝の道理です。
真の孝の生活 第6章 忠孝と真の愛の有無は天国行きと地獄行きの尺度 1)忠孝と真の愛の有無は天国行きと地獄行きの尺度
真の忠臣ならば、自らの事情を見せたりはしません。自らの心の奥深くにしみ込ませるだけであって、表に出して泣くことはできないのです。
真の孝の生活 第3章 忠孝の道理 3)無条件に服従し、代価を要求しない真の孝子
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天一国主人の生活 第2章 天国と真の家庭 3)天国の民の教育は真の家庭で
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