原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

霊界に負債を持たず 霊界に負債を与える歩み 十字架の聖ヨハネの言葉を添えて

エス様が御言葉を語り真の愛で弟子たちを愛したにも関わらず、イエス様を見捨ててしまい、イエス様は十字架の道を行かざるを得ませんでした。

天国が近づいたはずでしたが、その御旨は挫折してしまいます。

お父様が興南刑務所で歩まれた時には、イエス様当時、御言葉を与えられながらも去っていってしまった弟子たちを復帰するため、一切御言葉を語らずして伝道する蕩減復帰の道を行かれました。

皆さんご存知のことです。

「神様が感動で胸しめつけられる」歩みをお父様は常に歩まれました。

霊界に負債を持たず、かえって霊界に負債を与える歩みでした。

何よりも先に条件を立てることをお父様は重要視されました。

 

それでは、カトリックの教会博士である十字架の聖ヨハネにおいても、霊的な恩恵に対してどのような捉え方をなさっておられたのでしょうか?

ヴィジョン(示現) というようなことについても、なにか考えがあるのでしょうか?

 

 自然的、超自然的なすべてのものを問題にせず、これらのものから離脱しないかぎり、全く魂が変容されて、神の霊をうけとることはできない。

カルメル山登攀

 

日常に遭遇するような、内的な心の中に起こってくるような現象から、心の外に起こってくる現象、さらには超常現象のようなものまでを含めて、それらにとらわれたり、頼ったりしている以上は、ほんとうの意味においては自分の霊が清浄化されて、神の霊を受け取ることができないと、聖ヨハネは語ります。

 

 悪魔は、人が啓示を受けることを望んだり、その方に心が傾いているのをみると非常に喜ぶ。そのようなときにこそ、錯覚をしのびこませたり、信仰を骨抜きにする折りと手がかりをつかむことができるからである。

カルメル山登攀

 

自分を特別視したり、高慢になったりして、本来の神の道具としての謙遜な在り方を、うっかり忘れるように誘導され、気がついた時には大きく神の御心から離れてしまって、取り返しのつかないことにもなりかねません。

 

亨進様がアメリカに移り住まれた頃、山の中で「やれ36家庭だ、やれ一世だ、二世だ」というように、特別意識を持って、他の人と区別することが嫌いだというようなことを、動画の中で語られていました。

最近は探しても出てこないようです。

 

サタンは、仏教で説く執着に倣えば、神でないものに執着させようとします。

神以外のものであればなんでもその執着の対象にしようとして、われわれに働きかけます。

神の子としての主体性と自由を奪うために試練をしてきます。

国家メシア、分封王、36双、3000双、サンクチュアリ協会長、教会長、祝祷、この世の学歴、経歴・・・・

「あなたは特別です」

とサタンはささやきます。

われわれはこれを主管しなければなりません。

心情文化にこれらは一切関係ないものだからです。

 

もう一つのサタンの武器は、亨進様や国進様が警告される、神でないものに委ねる「依存」です。

あなたが何かに依存しているなら、それはあなたの主人になります。

そしてあなたの方は依存している主人の奴隷になってしまいます。

それをあなたは選ぶことになります。

もしも麻薬に手を出してしまい、これに依存している状態から抜け出せなくなってしまったなら、あなたは麻薬を主人に選んだ奴隷の身分を選んだのだということになるでしょう。

 

私が執着しているものがあれば、それはまさに私の主人です。

私は彼の奴隷です。

私が依存しているものがあれば、それはまさに私の主人です。

私は彼の奴隷です。

 

あなたの主人は誰ですか?

こだわる心、頼る心から解き放たれて

神の与えて下さる自由を得ませんか?

 

 

この世の権力に憧れているものは、神との一致において得られる真の精神の自由に達することはないであろう。なぜなら隷属とは、自由と全く関わりのないものであり、欲望にしばられた奴隷の心の中には、自由は留まることはできないからである。それは、神の子の自由な心の中にだけ宿るものである。

 

 人並みはずれた、償いのための苦業や、その他、たくさんの修業を自分からつくり出して、そうした修業だけで神の英知と一致するのに十分なものであると思い込み、欲望をなくすことに、いっこうつとめようとしない人々の無知たるや、まことに嘆かわしい。

カルメル山登攀

 

お母様は権力の奴隷になられてしまわれました。

統一原理によってイエス様がサタンから受けた三大試練の内容を理解していたなら、どうして権能を表す杖をもって、聖和時にお父様に服することなく、信徒の前に現れることができたことでしょうか?

 

礼拝に依存し、修練会に依存し、桁違いの条件に依存する。

それは否定されることではないかもしれないが、

これではたして私の心には平安が訪れるのでしょうか?

財や地位や名誉や享楽に対する欲望をなくすことができなければ

聖霊の恵みに与ることはできないことでしょう。

 

さて、しばしば我々は誰かにヴィジョン(示現)や啓示などが与えられることを知るが、

ヨハネはこのような霊的現象について、どのように語っているのでしょうか?

 

 ヴィジョン(示現)や感覚的な知覚は、神との間に全くつり合わないものであるから、一致のための手がかりとはなり得ない。

 

 澄んでいて慎重で素直で率直で、また謙虚な霊魂は、啓示やその他の示現に対して、それがなにか、とても危うい誘惑であるかのように、非常な力と用心をもって抗らわねばならない。

 

 天的なヴィジョン(示現)や啓示や感情、その他自分で考え出すようなことはすべて、謙遜の最小の行為ほどの価値もない。

 

 神が、ある画像を通じて、他の画像によるよりもいっそう多くの不思議をなしたもうたり、恵みを与えたもうならば、それは人がその画像を他のものよりいっそう高く評価しているからというのではなく、その画像の新鮮さが眠っている信心と感情を祈りによびさますためである。

カルメル山登攀

 

ヨハネは、示現や啓示さえ、それにとらわれてはならないと教えています。

我々の主人としてふさわしくありません。

また、我々の人生の本質的な目的は神との一致です。

それ以外のものは邪魔でさえあることをかれはおそらく多くの経験上話しているのでしょう。

では聖ヨハネは我々に対して具体的にはどのような忠告をくださるのでしょうか?

それは、聖テレサの詩に通じるものでありました。

 

 次のように常に心がけること

よりたやすいことよりも、よりむつかしいことに、

より快いことよりも、より不快なことのほうに、

より味わいのあることよりも、むしろ、より味気のないことに、

休息ではなくて、骨の折れることに、

慰めになることよりも、むしろ慰めのないことに、

より大いなることよりも、より小さなことに、

より高く、より貴重とみえるものより、

よりいやしく、ないがしろにされるものへと、

なにかを求めるのではなくて、何ものも求めないように、

この世のよりよいものではなく、より悪いものを探し求め、

そして、キリストのために、この世にあるすべてのことから全く裸になり、

虚しく、心貧しくなるように。

カルメル山登攀

 

何故、霊界に負債を持たず、かえって霊界に負債を与える歩みにつきたいでしょうか?

ヨハネはこんなことを言っています。

 

 霊魂は、神が送られる内的外的苦しみをきわめて高く評価しなければならない。そして、これほどの高い段階に達するために、苦難によって完成させられ、恩恵を受けるのにふさわしくなる者が、きわめて少ないことを理解すべきである。

「愛の生ける炎」

 では、聖ヨハネはそのような霊的現象に遭遇した際には、具体的にどのように対したのでしょうか?

カルメル修道会はこのように兄のフランシスコに弟の聖ヨハネはが打ち明けたことを記述しています。

 

 

フランシスコは、ヨハネと同様、非常に聖なる人で、英雄的徳の持ち主であった。二人は、何時間も共に過ごした。

「私は、神と関係のあることについて、あなたに話したいのです。」とヨハネ神父は、あるとき、彼に言った。「この修道院には、一つの十字架上のキリスト像がありました。」彼は続けた。「ある日、その十字架像の前にいたとき、この十字架は、外部聖堂に安置した方がはるかに良いと、私には思われたのです。この十字架上のキリスト像が、ただカルメル会士によってではなく、是非、一般の人々からも崇められて欲しいと心から思いました。そこで、私は、これを実行に移したのです。出来るだけ相応しく、それを外部聖堂に安置した後、ある日、私が、その前で祈っていましたら、キリストは、私に、次のように言われました。ヨハネ修士よ、欲しいものを私に願いなさい。私にしてくれたこの奉仕に対するお礼として、私は、それをあなたに与えよう』と。そこで、私は答えました。「主よ、あなたにお願いしたいのは、あなたのために苦しむこと、そして、軽蔑され、無価値な者と、見なされることです」と。

 

あなたが霊界に対して負債を持たず、

霊界を感動させることができ、

天にその宝を積むならば、

天はあなたが危機の中にあるときに、

お父様の時のように

あなたに道を示されることでしょう。

 


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