原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

今日12月14日は十字架の聖ヨハネが聖和された日 

http://hushiginomedai.holy.jp/st%20joannes%20de%20cruce%20c%20d%20e.htm

より引用

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十字架の聖ヨハネ司祭教会博士  St. Joannes de Cruce C., D. E.  記念日 12月 14日

 16世紀は読者も知る通り、いわゆる宗教改革者達が種々の異端説を唱道して人心を惑わし、為に信仰の堅からぬ者が数多真の聖教を捨て去った悲しむべき時代であったが、その一方に喜ぶべきは、やがて真の改革者なる聖人方が多数輩出し、聖会内部の刷新に着手すると共に、熱心に布教して一時衰えた教勢をたちまち快復した事であった。本日記念する十字架の聖ヨハネの如き、中でも偉大な聖人であり神秘家である。
 彼は1542年6月24日スペインのカスチリア州のフォンチベロスという町に呱々の声を挙げた。祖先は名門の貴族であったが、零落して彼の生まれた頃は家も甚だ貧しかった。その受洗の折りヨハネと名付けられたのは、誕生日があたかも洗礼者聖ヨハネの祝日に当たっていた事によるのである。しかも後年彼がその保護の聖者に彷彿する使命を成就した事実を見ればそれはまた天主の思し召しであったのであろう。
 父は彼が母の胎内にある内に黄泉へ旅立った。それで母は襲い来る様々の艱難にとうとうその町に居られなくなり、ヨハネを連れてメディナに移り、彼をまず大工の、次に仕立屋の徒弟に出し、最後に彫刻家の弟子に住み込ませたが、天主の召し出しはなお他にあると見え、それらの手業は何一つものにならなかった。それからヨハネメディナ病院の創立者なる篤信の一資産家の好意で、同病院の看護人となる事を許され、毎日休憩時間を利用してイエズス会の神学校へ勉強に遣られた。かくて彼は将来その病院就き司祭になるつもりであったのに、天主の御摂理は神学校卒業後、彼を導いてカルメル会に入らしめたのである。彼が「十字架のヨハネ」という霊名を授けられたのは、その着衣式の時であったが、それからの彼の生涯は、正しくゴルゴダへの十字架の道を思わせるものであった。
 当時のカルメル会は頽廃した時代精神の悪影響を受けて、修道者達も完徳への情熱を失い、修院内の綱紀また弛緩の傾向があった。之を憂える聖女テレジアは、まずその属するカルメル修道女会の改革に乗り出したが、十字架の聖ヨハネの高徳に感じその指導援助を願い、且つ彼に勧めるに男子修道院の廓清刷新を以てした。
 ここに於いてヨハネは志を同じうするアントニオという修士と共に、極めて貧しい修道院に立て籠もり、厳しい禁欲克己の苦行生活を始めた。彼等の狭い部屋は腰を伸ばして立つ事も出来ぬほど天井が低く、屋根は破れて雨雪の入るに任せるといった有り様、それでも二人は嬉々として感謝しつつ裸足のまま町々村々を廻り、昔の洗者ヨハネをさながらに、人々に悔悛をすすめ罪悪は遠慮なく糾弾した。されば、その聖なる日常と道に対する熱心とに驚嘆した人々の中には、彼等の許に来つて福音的生活を共にしようと望む者も少なからず、しかもそういう志願者の数は日増しに多きを加えたのである。ヨハネは喜んで彼等を迎え、自らその修練に当たり、修道に最も大切な祈りと犠牲との精神を鼓吹するよう努めた。
 しかし他方冷淡遊惰に慣れたカルメル会修士達はヨハネ等の一言一行に良心の呵責を感じ、自分の非は棚に上げてひたすら彼等を怨み、さまざまの手段を執って之を苦しめた。十字架のヨハネは自分の著した神秘書「カルメル山を登る」や「霊魂の暗闇」の中に、そういう外部から受けた苦痛を始め、天主が特別な思し召しにより与えられた霊的試練、即ち天主にも人にも捨てられたようなはてしなき孤独感に就いて記しているが、かような悩みはまだまだ彼の歩んだ茨棘の道の、ほんの第一歩に過ぎなかった。カルメル会の総会が開かれるや、彼は自分を誤解している総長の厳命により、トレドの修道院の穴倉同然な地下室に禁足され、あらん限りの侮辱と酷遇を受けた。それでも彼は黙々と一切を耐え忍び、嘗て無情な兄弟達に口答えをしたことはなく、却って彼等を切磋琢磨の恩人の如く考えたのである。
 これほど優れた聖徳の光が、長く人の目に隠れている筈はない。間もなくヨハネの罪なきことは明らかとなり、教皇ピオ5世並びにグレゴリオ13世は、彼の理想を奉じて修道に専念する弟子達の会を、特殊なカルメル会として公認批准され、以て彼に対する人々の誤解を一掃された。同会が思うさま発展隆昌の一路を辿る事が出来るようになったのは、この時からである。
 さて謙遜なヨハネは人々の熱烈な要望にも拘わらず、カルメル会総長の任に就かず、1579年から二年間はバエザ神学校校長、グラナダ修道院院長等を勧め、己を律するに厳、他を俟つに寛、その傍ら病者を見舞い手ずから看護し、罪人の憐れむべき霊魂の状態を道破し之を改心せしめたことは数えるに遑もないほどであった。従って世人の彼に対する信望は一方でなく、その教示を仰ぎに来る者は引きも切らず、聖人が静居に憧れ淋しい深山の奥に隠れた時でさえ、やがて見つけ出しその忠告代祷慰藉激励を願いに行くという熱心さであった。
 とはいえヨハネゴルゴダの犠牲は、なお終わった訳ではなかった。1588年に開かれたカルメル会総会の席上、会員の或る者は改革後の厳密な規律に耐えかねて之を多少寛和しようと企てた。もちろんヨハネは決してかかる惰弱を許さなかった。為に彼はそうした徒輩からの非難を蒙ったのみならず、目上の命令によりアメリカに赴く途中熱病に罹り、ウベダという町の修道院に留まったが、その院長に種々の試練を受け、その上病状も思わしからず、全身腫物におおわれ、高熱に悩まされて殆ど火に焼かれているような苦痛をさえ覚えた。彼は驚くべき忍耐を以てその病苦と戦うこと4ヶ月、ついに1591年12月14日安らかに大往生を遂げた。
 生前主と共に十字架の道を歩んだヨハネは、死後も主と共に十字架の光栄を楽しみ、1675年福者、1726年聖人の列に加えられ、その神学、殊に神秘神学の名著に開眼した深い超自然の故に、教会博士と尊称されている。

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我が国にも素晴らしい信仰者がいた。

原忠美である。

忘れ去られようとしているクリスチャンではあるが。

彼もまた貧困と病苦の中で、信仰を深めていかれた。

 

地上はこの世の神、サタンが支配しているものしかない。

神さまはとっくに身ぐるみ剥がされて牢獄に閉じ込められている。

したがって、イエス様であれ他の求道者であれ、その語る言葉は

自ずと逆説的な表現になっていく。

この世にない世界に神が在す故である。

 

この世は転倒した価値の世界。

そこでポセイドン・アドベンチャーの映画のように

救いの道はデッキのある船の上に向かうのではなく

船底に向かわなければならない。

 

限界状況の真っ只中に突き落とされ死にきったなら

目を閉じてうっすらと微笑んでいる自分を感じながら

死体を抜けた霊魂だけが立ち上がる

聖者たちはそのような道を行かれたのである。

 

 

原忠美牧師著「神人合一」に学ぶキリスト教信仰の基礎 上 - 原理講論を読む

 

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