原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 原因と結果を意識する生活習慣 ②

NHKの宇宙の創世に関する「コズミック フロント」という番組を見ていた。ホーキングの考察がベースになって展開している。神の存在が不必要であるという立場で考察を進めて現在の考えに至っている。そのような立ち位置で物事を考えることは結構ではあるが、統一原理に立脚すれば一面的な考察であるように思われる。

文鮮明 恵父も若き日に考察をされたことを述べた事がある。神主義を提唱したこの方は神が存在するという立場でのみ考えてきたのではない。自分自身の存在を確信する以上に神の存在を確信される御方ではあるが、もし神が存在しないとしたらという立場でも徹底して考察された果てに、どうしても存在しないわけにはいかないと結論づけられたのである。

ホーキングも反対にもし神が存在しているとしたらという立ち位置から、宇宙の創世の考察を進めていたら、違った道が開かれたかも知れない。残念なことである。仮にそのようにしてやはり神の存在が前提では都合が悪いことがありすぎるという結論に至ったとしても、両面思考をした結果であるので信憑性が高められることになるであろう。

ホーキングのような天才的物理学者の考えた宇宙の成り立ちの出発点も、最終的にはわれわれのような物理に疎いものでも理解可能な、あるイメージ可能な考え方の枠組みによって基本的内容をくみ取ることができる。

ここまで来るとわれわれのような一般人も是非を判定する仲間に加わることができそうな思いがする。

あるAという考えに至ったとしても、何故AではなくBやCというように、それ以外の様相ではなかったのか。われわれ信仰を持つものには疑問が生じる。そこで科学者は究極の答えが得られたと満足して留まれるとすれば、ずいぶん欲のないことであると思われる。

以前にお話しした、原因にはWHY(理由)とHOW(如何にして)の二つがあり、HOWの問題が解決しても以前としてWHYの問題が残ることをお話ししてきた。

NHKの科学番組に共通することではあるが、科学=無神論ということを前提とした番組作りをしているように思われる。インテリジェント デザイン理論のような番組も作成して反証可能性を与えることが科学的な態度ではなかろうか?

ヨハネ・パウロ二世が1985年にホーキングなどの科学者の前で、宇宙の仕組みを研究することはかまわないが、宇宙の起源は神の領域であるので研究すべきではないと語ったようである。

ご都合主義で神を擁護しようとする誤った配慮が、かえって優秀な科学者が神から背を向けるようにし向けてしまっているのである。ヒエラルキーのどの位置にいようが、神即ち創造主の存在を信じるか否かをどの時代の人も問われている。神が世界一の科学者であるという理解が何故ごく自然に為されないのか、私には不思議に思える。

ローマ法王フランシスコは2013年7月28日に同性愛者の聖職者で性的行為は行わない神を求める者に対しては積極的には罰することをしないと言った発言をした。

 

http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323670304578636883741167180.html?dsk=y

女を見て情欲を抱く者は心の中で姦淫したのと同じであると主張する、イエス・キリストの信仰観と相容れるのであろうか?

相対的にユダヤ教が行為を重んじてきたことに対して、キリスト教は内面や動機に注目してきた。イエス様の言葉に沿って考えれば心の中で同性を愛することは罪である、この自覚が大切である。しかし罪の意識だけではなくその罪に陥った状態から解放されたいと切に思い努力しているかも同様に重要である。そう言う人間には教会は救いの手を差し伸べるべきである。ただし、聖職者、すなわち信徒の羊飼いとして信仰の道を導く事はできない。職は辞させるべきである。そうでなければキリスト教の闇の歴史にピリオドを打つことはできないであろう。キリスト教だけではなく仏教においても同性愛の問題は独身生活を基本とする時代にはしばしば見られたようである。このことは宗教に限らず、私の級友から昔聞いた話で、男子ばかりの商船学校は同性愛の巣窟であったと聞いて驚いた記憶がある。カトリックでは堕落した神父による少年愛の問題が後を絶たない。ローマ法王の判断は正しいのであろうか?プロテスタントに比べると信仰の解釈はやや律法的に感じられる。

かって故久保木会長が文鮮明恵父と、多くの群衆に囲まれるローマ法王をご覧になった際に、メシアとして来られた御方がかえって多くの人に迎えられていないことに、お寂しかろうと思っていたところ真の父母である文鮮明 恵師がおっしゃるには「ローマ法王はかわいそうだね。」という言葉であった。えっ?どうしてかわいそうなのであろう?聞き違えか?・・・ところが恵父は続けられたのである。「ローマ法王は世界中の多くの人々から愛され尽くされている、万一その使命が果たせなかったとしたら大変なことになる。」だから気の毒であるというのである。

イエス様も文鮮明 再臨主も、人々に仕えるために私は来たという思想と行動は一致している。この伝統を我々は継承していかなければならない。

ローマ法王は現代の洗礼ヨハネ、すなわち主の道を直にするものである。メシアに人々を繋げるのが一番の仕事である。自分の地位や名誉をいつでも主のために捨てる覚悟がある人物でなければ大役を果たすことはできない。多く期待するものである。ローマ法王こそキリスト教界の原因である。

さてホーキングは心の作用をコンピューターのソフトとハードの関係をもって比喩的に説明しようとしていた。ライフ・ゲームに見られる簡単なルールの設定から複雑なパターンが発生することから、説明が可能ではないかという示唆である。

wikiライフゲーム説明は以下

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0

これは間違えである。われわれはコンピューターといえばソフトが組み込まれた機械そのものを思い浮かべるが、その本質は人間の五感にまつわる機能の代替や延長である。コンピューターの中に主体としてのソフトと対象としてのハードがあるように、コンピューター自体も対象としてそれを使う人間を主体として存在している。意思の主体である人間の存在を無視してはコンピューターの存在意義は成立しない。

どんなに簡単なルールであれそれはコンピューターの自体内に存在していたのではなく、外部の人間という意思の主体によって組み込まれたものであると言うことは、むしろハードである構造とソフトである機能が作用するために外部の意識の主体の存在が予想されるといって然るべきところである。

統一原理では人間は時空間の肉身と時空を超越した霊人体の二重体として理解している。肉身には自己保存や恒常性を司る肉心があり、霊人体にも価値の追求と実現を司る生心がある。生心と肉心の授受作用によって心の作用が生じるが、生心があくまで主体であり、肉心が対象であるので本質的には意思の主体は生心に関わる問題である。

今後は人間の脳以外に意思を想定して科学は研究の道を求めるべきであろう。哲学者のポパーが脳の研究でノーベル賞を受賞したエックルズとの交流を通して新しい枠組みを提案したように、宗教者や哲学者が物理学者と協力していくことがさらに要請される時代となることであろう。