創造原理 創造本然の価値 と自己実現 フランクルの三つの価値と五嶋みどりに学ぶ
私が五嶋みどりが十代の時の、バーンスタインとの演奏中の突発的事故と遭遇した際に、環境変化に一瞬にして対応し、二度の渡る弦の切断という試練に、何事もなかったかのように無意識の判断で克服していく有様は、信仰する我々にとって益になること大である。
創造本然の価値の確認から、信仰的価値をフランクルの意味価値と態度価値を触媒にして考察し、五島みどりの絶対音楽に対する絶対対象性と絶対価値の決定に学び、信仰を考えていきたい。
フランクルは人生に三つの重要な価値を見出した。
今ここにある可能な仕事に意味を見出し創造性の限りを尽くして喜びを得る「創造価値」。
今ここにある可能な体験に身を委ねる喜びを得る「体験価値」。
今ここにある困難や試練に立ち向かう自由の喜びを得る「態度価値」
これら三つの価値は我々信仰をする者にとって、我々を取り巻く環境の中に起こってくる出来事に対する、信仰的捉え方としての「信仰的価値」に通じるものがある。
フランクルの価値を念頭にして、この信仰的価値を説明するとすれば、
我々が今置かれている環境で為し得る最良の体験に集中し、我々が人生で直面する人や環境による試練を、一旦自己の手から離して、愛の神が我々に与えた恩恵としての創造的意味を見出し、人や環境が我々の人生を決定するような原因であり主体であるとは受け取らず、かえって我々自身が原因であり主体であるという態度に価値を求めることを信仰的価値と言いたいと思うのである。
通常我々が「創造的意味」を事象に見出したり、或いは環境の試練に「積極的態度」をとる際には、ある程度の時間的余裕が与えられていることが多い。
瞬時に対応する必要に迫られることは少ない。
五嶋みどりは演奏が進行中の中で少しも騒がず、二度の試練と3/4のサイズの自己のヴァイオリンから普通サイズの物に代わり、同サイズでもヴァイオリンは一つ一つが本人に適してつくられたものであり、他人の物に対応して弾きこなすということは奇跡に近いことであるという。
それを難なく何事も起こらなかったかのようにこれらの多重の障害を見事にクリアしてしまうのである。
我々の信仰もかくありたいものである。
それは彼女が音楽の神ミューズに対する絶対対象の位置に立っているからであり、日常生活が非常時に現れてきたのであると思う。
文鮮明 恵父がダンバリーで綺麗に囚人達のナイフやフォークを必要以上に整然と並べられる毎日があって、やはり非常時に的確敏速に対応されてきたのであろうと考えさせられる動画である。
芸術は絶対的価値を求めている。それ故に演奏者は神を中心とする四位基台を造らなければならないのである。
創造本然の価値は4節であり、その後6節に無形実体世界や霊人体などが説明されているが、6節までの理解を前提に4節の内容を振り返ってみたいと思う。
私の関心は創造本然の絶対的価値が、如何にして我々の日常の信仰生活や、社会生活に浸透し顕現されうるのかということである。
原理講論では創造本然の価値は
一) 創造本然の価値の決定とその価値の基準
創造本然の価値はいかにして決定されるのだろうか。ある対象がもっている価値は、その対象が存在する目的と、それに対する人間主体の欲求との相対的関係によって決定されるというのが、我々の今まで考えてきた一般的な価値観であった。
しかし、ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものでなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定される。
したがって、ある対象が創造本然の価値をもつためには、それが人間主体との授受作用により合性一体化して、神の第三対象になり、創造本然の四位基台をつくらなければならない。では、創造本然の価値の基準はどこにあるのだろうか。
創造本然の価値は、ある対象と人間主体とが、神を中心として、創造本然の四位基台を完成するときに決定されるが、この四位基台の中心が絶対者であられる神であるから、この価値の基準も絶対者なる神である。それゆえに、絶対者であられる神を基準として、これに対して相対的に決定されるある対象の創造本然の価値もまた絶対的でないはずがない。
さて、人間は霊と肉からなる二重存在であった。
生心+霊体=霊人体
↓ + ↑
肉心+肉体=肉 身
統一思想では追求価値と実現価値を区別し次のように説明しているが、私はこれを無視して、日常生活で我々が実感する「追求」と「実現」にほぼ同じ意味で用いてみることにしている。その方が応用性や実践性が高いと思われるからである。
したがって、原理的な用語による原理的な理解とは全く異なる。
統一原理を契機に得た便宜的意匠であることをお断りしたいと思う。
参考までに、統一思想では
追求価値と実現価値
人間は、全体目的と個体目的の二重目的をもつ。そして全体目的を達成するための価値実現欲と個体目的を達成するための価値追求欲という二重欲望をもつ。価値実現欲に基づいて実現される価値が実現価値、価値追求欲に基づいて実現される価値が追求価値である。
生心は神が臨在され真善美を追求する性相的な心である。
これに対して、肉心は言うなれば自己保存心とでもいうようなものである。
「肉心とは肉体をして生存・繁殖・保護等のための生理的な機能を維持できるように導いてくれる作用部分をいう。」
価値という観点からみると
生心は神を中心とする絶対的価値である真美善を追求している。
ここで聖という価値が扱われないのは李相軒 先生によれば、創造本然の世界では全ての存在は聖なる存在であるから、あえて取り上げる必要がないということである。
個人に関して考えてみると、
宗教の世界では、先ず真理の理解(悟り)があるように、日常生活でも先ずある対象の五感による理解がある。
次に宗教で真理の体得があるように、日常生活でも、あることを習得する体得がある。
さらに宗教の世界では、単に個人に留まるのではなく、他人や社会に働きかける愛による表現があるように、日常生活でも理想形態に向かって表現するに至る。
最後に、宗教においても道を求める人々が授受作用(相互交流)する場としての教会などがあるように、日常生活にも多くの価値を中心とする交流の場がある。
自己実現には4つの段階があると見ることができる。
理解を得るという実現
体得するという実現
表現し具体的な形を表す実現
善の繁殖を為すための交流の実現
以上、理解→体得→表現→交流
の4つの自己実現の方法と段階である。
これらは各自そのまま自己実現の方法であり段階となっている。
肉心が追求する価値は、生心が求める精神的価値に対して衣食住性の物質的価値であるとされている。性とはここでは主に繁殖を指す。
第二祝福である「殖えよ」はそのまま繁殖価値をもたらす。
例えばタイで430家庭を祝福に導いた信徒が現れ、この証を受けてアメリカの教会長が個人では時間がかかるが各協会単位で430家庭の祝福を目標としようと決意することは繁殖価値と言える。
さて、物質的価値という表現では応用が難しいので、価値が物質の性質に関するものから、機能価値と表現したい。
また人間の同様な価値については技能価値と呼ぶことにする。
技能価値には理想価値と必要価値がある。
肉身生活を地上において為している我々は、地上に足をおいていながらも、本質的には無形実体世界の永遠にして絶対的な価値に憧れを抱いている。
生心が追求する真美善の絶対的価値が「この世に存在しないもの」という形で理想価値が求められたことに応じて、ある無形のサービスや有形の商品などが現れたり、一方、肉心が現実の関心や課題や問題に対する必要性の解としての価値が提示されたりすることがある。必要価値である。
マーケティングでは前者をウォンツといい、後者をニーズとして捉えている。
神が創造された被造世界をありのまま御覧になっても、神は刺激的な喜びを得ることができない、人間が神の創造物に手を加えることにより、今まで見ることができなかった付加価値を味わうときに始めて神は世界を満喫され、このことは人間にとっては神の創造に荷担して責任分担を果たし、そのことによって神の創造性を現し、創造主たる神の実子として認定されるからである。
価値のあることを求めていくという意味の、価値追求と
得た価値に実際の具体的な形を表現し与えるという意味の、価値実現
を自由と責任と実績に照らし合わせてみると以下のように整理される。
価値追求+価値実現=価値
(自由) (責任) (実績)
芸術は絶対的価値の表現である。
したがって有形実体世界に存在しないものを表現する方向に発展してきた。
例えばピカソなどの抽象画が現れてきたのは、肉身だけではなく霊人体も持つ我々人間が、無形実体世界の存在や存在様相を描くことに我知らず憧れてきたからである。
そこで、
画家は描くことができないものを描こうとし、
詩人は書き表すことのできないものを書こうとし、
音楽家は音で表現できない世界を表現しようとするのである。
表現し得ないものを表現する
それが芸術家たる所以である。
創造本然の世界は衣食住などの物質的環境問題は解決され
本質的な価値の探求と実現に人は生きるようになるという。
芸術とスポーツと科学技術こそが
人々の活躍する中心フィールドになることであろう。
そこでは神の心情から全てが出発しなければならない。
永遠にして絶対の価値表現だからである。
我々は何を知り、何を身につけ、何を表現し、どんな交流をしたいのか?
そこに自己実現の鍵がある。