原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

内村鑑三は1919年から1920年にわたり再臨の兆しが最も鮮やかと預言し 1920年に再臨主 文鮮明師が誕生し預言は成就した!

統一原理の観点からすれば、内村鑑三のキリストの再臨に関する預言の説かれている文章で、最も重要であると考えることができるものは、聖書の研究第242号と243号に掲載された1920年の9月10日と20日の「基督再臨の兆(しるし)」であると思われる。

 

内村はキリストの再臨運動を展開して基督教会から批判と迫害を受けたが、統一協会文鮮明恵師が再臨主であるとしてやはり同様に批判され迫害を受けてきたのである。

 

核心の文章はここである。

 

キリストは未だ来たり給わない、世の終わりはさう早く来るものではない、然れども「彼の来る兆(しるし)」は年毎に益々明白に現れつつある、聖書は幾回か繰返してキリストの再臨を予言すると同時に明に再来の兆を示して居る、而して人類の歴史は聖書の明示に楯ひ其道程を進めつつある、而して昨年より今年(1919年~1920年)に渉(わた)りて再臨の兆は最も鮮やか世界歴史の上に現れた、余輩は其の多くに就いて語らない、其最も顕著なる三つに就いて語る、即ち民主主義の発達である教会の腐敗堕落であるユダ国の再建である

内村鑑三全集25 P546 基督再臨の兆(しるし)

聖書にイエス様が語られた言葉がある。

32 いちじくの木から、この譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。

33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

マタイによる福音書24章32節~33節

内村もイエス様の教えを忠実に歴史や社会現象に実践して再臨の兆候を知るべく努めたのであろう。それが再臨の時を見る三つのポイントであるという。

1,民主主義の発達

2,(基督)教会の腐敗堕落

3,ユダ(イスラエル)国の再建

民主主義の発達がどうして兆になるのか、わかりにくいと思われるので本人の文章をもう少し記したい。

言う迄もなく民主主義の発達は過去三年間の著しき現象である、対独世界戦争は民主主義の現(権)化なる北米合衆国の参戦に由り全然此主義の勝利に終わったのである、「世界をして民主主義に適合せしめん為」とは米国人の戦声であった、而して彼らは美事に其目的を達した、世界と人類とは此大戦に由て民主化せられた、是れ人類の大進歩であると言ふ、進歩か否か余輩は知らない、然れども聖書の予言の大実現なる事は明白である。民主政治が人類最後の政治なる事は聖書の明らかに示す所である、試にダニエル書第二章を見んや、其示したるや誤らないのである、即ち過激主義(ボルシェビズム)の出現を見たのである、民主主義を其極端にまで持ち運びし者が過激主義である、王なし、首長なし、人は相互の同輩であるの他に何等の指導拘束を認めずと云ふのが此主義である、・・・・ウイルソン大統領の目的は達せられ過ぎでて民主主義は過激主義にまで進化したのである、然し乍ら驚くに及ばない、神に反きし人類は其往くべき所にまで往きつつあるのである、斯くなりてこそ神の預言は実現されつつあるのである、キリストは未だ臨らない、然し乍ら臨らんとする前兆は過激主義の実現に照らして見ても明らかである。

同書P546

イエス様が十字架に磔にされた際、左右に泥棒がやはり磔られていた。

右側の泥棒が民主主義世界(右翼)を指し、左側の泥棒が共産主義世界(左翼)を象徴していた。中央のキリストが携えてきたのは神主義であり頭翼思想である。

これを再臨主である文鮮明が解き明かされるために降臨されたのである。

神は公的な方であり為に生きる愛の方である。

失楽園と言うときに、人類始祖アダムとエバがエデンの園を追放されたと言うことになっている。堕落した天使長ルーシェルがサタンとなってエバと不倫なる淫行関係をなし、時が来てもいないのに堕落したエバがアダムを淫行関係で堕落させ、その子カインは殺人者となった。

その結果聖なる善なる神様は、エデンの園をお造りになったにもかかわらず、これをサタンと堕落人間に強盗されてしまった。神の相対できぬ地獄の園に化したエデンにもはや神は住むことができなくなり、枕するところを失ってしまわれたのである。

その堕落した人類始祖の後孫によって造られた民主主義も共産主義も結局の所、泥棒主義に他ならないのである。

第二の教会の堕落について内村は厳しい。

而して今の教会の能力は何か、信仰に非ず、聖霊に非ず、金である、今の教会、殊に米国の教会より金を取除いて何が残るか、若し米国又は英国にして財政的に破綻せんか、其主なる教会は精神的にも破産するを免れない、・・・・今の教会を称して「世を汚す大淫婦」と云うならば彼らは大に怒るであろう、然し乍ら羅馬天主教が一時は大淫婦となりて世を汚せし事は人の能く知る所である、而して多くのプロテスタント教会が世と淫を行ひつつあるは是れ亦否認すべからざる事実である、「淫」とは正当なる夫を離れて他男と親しむ事である、教会が神を離れて此世と親しむ時に姦淫を行うのである、デモクラシーを高唱し、国際連盟を強調し、此世の政治家実業家等に倣ふて事を為し業を遂げんとする時に彼らは淫を行うのである、之に反し世を詰責し、世と対抗して闘ふ時に世は潔められて教会の恩恵に与るのである。・・・・教会今日の堕落は実に嘆ずべきである、然れども是れキリスト再臨の前兆であって万物復興の予微である。

同書P549~P550

 本来のキリスト教の価値観とは相容れぬこの世的価値観や事業に走り信仰が形骸化することを非難し憂えている。

第三のユダ国の再建についての説明は「再臨の兆」には書かれていないが、シオニズムのことであることは誰にも分かる。神が最も愛したユダヤ民族であったが、彼らに使わされたメシアであるイエス・キリストを受け入れなかったばかりか、十字架の道に追い込んでしまった。

神が最も愛した民族が最も恩讐の民族になってしまった。

それ故、異邦人が祝福され伝道はそちらに急展開していったが、最後に救われるであろう民族がユダヤ民族になってしまったと考えることができる。

そこでこのユダヤによるイスラエル国家の建設運動が始まることは国を持つことができずに流浪の民であったユダヤ民族と神の和解が成立したと見ることができる。

そこで再臨の日は近しということになるのであろう。

以上

民主主義が腐敗堕落してついには神を否定する唯物共産主義という化け物を生み出し、教会も形骸化しこの世的価値観に浸食され、流浪の民ユダヤ人が神に許され建国の祝福を受けたとき、いよいよ終末の兆候が顕著になって現れたとして、内村は再臨の主を待ち望んだのである。

内村の再臨観と統一原理の再臨論は近いものもあればそうでないものもある。

また何時の日か、研究者の成果を踏まえて比較できたらと思う。