原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 相対思考 変化と不変を意識して考える生活習慣 天一国憲法の制定を巡って

天一憲法がいよいよ制定されたようである。

私自身は天一憲法の核心は家庭盟誓にありと、ずっと思ってきたので前文の後に記載されていることは本当に嬉しい。

しかしながら、私も含めて現在地上で生活している信徒の中に、原理講論を纏められた劉孝元先生や、統一思想や勝共理論を纏められた李想憲先生の基準で、文鮮明恵父が明らかにされた天来の御言葉を私心なく正確に表せる人物が存在しないことが、悲しい問題となっているように思えてならない。

編集に関わった委員の方々のご尽力には真心から感謝する次第である。しかし、一方、天の父母様と天地人真の父母様にお捧げするには十分であるとは到底言えないであろう。

歴史的な発表であるから名文であることが望ましい。原理講論の総序に比べると格調の高さはどうであろうか?

私は文豪のような名文を書けと言っているのではない。いやしくも文鮮明恵父の弟子である以上、そこに現れた文章は平易なものであろうと弟子としての信仰告白として結実しなければならない。惜しまれて止まないのである。

創造本然の天法を記すときに、堕落があったことを暗示するような表現は適切ではないと私は考える。復帰摂理でさえ堕落の事実を思い出す。主が新しい靴を用意して履きなさいと言うときに、どうして古い履き物で歩き続けることができようか?前文には創造本然の世界を予想される表現が相応しい。

現在、この天一憲法を批判しているのは、悪意のある反対派の人や顕進様を後継者と信奉する方々が多いようである。

後者の批判の列挙をいくつも読んでみたが、今のところそれほど重要とは思われない。いちいち反論する必要もなかろうと思うので具体的なことはここでは述べない。

大切なことは

1,天地人真の父母様が公認されたと言うこと。

2,家庭盟誓が筆頭に記されていること。

3,霊的な中心人物(直系)と肉的な中心人物の表示

4,文鮮明恵父の思想が一貫して統一されて表現されている、浸透されていること。

等であろうかと考える。

1については

仮に表現上の不備や組織上あるいはその運営上の不具合が多く見つかり、50、いや100といった数にあがったとしても、それらは取るに足らないことである。

立派な憲法であることは望ましいが、その事によって価値が賦与されるのではなく、真の父母の承認によって永遠絶対の価値が現れるのである。既に承認されていると言うことを重んじなければならない。

2については、

物事には変化(可変)と不変がある。

「かわる」と「かわらない」

「かえれる」と「かえれない」

天一憲法においても二つの部分があると見て問題はないであろう。

人間に霊人体と肉身があるように、霊と肉とかんがえてもよいであろう。

日本国憲法も改正か否かでずっと煮え切らない議論が続いてきている。米国の憲法は何度も修正されて今日に至っている。

天一憲法はどうであろうか?

変えてはならぬもの以外は変更可能である。

文 鮮明 恵父が自ら定めた内的規範が家庭盟誓である。これは永遠不変の基準で定められたものであって、何人も変える事はできないのである。文 鮮明 恵父が実際に生涯を通して神に捧げられた絶対心情の表現であるからである。

天地人真の父母様を原型として、祝福家庭が家庭盟誓の実体となり、善の繁殖を為していくことによって地上天国は実現するのである。

私見ではこの家庭盟誓の本義を良く理解するためには、霊界におられる文氏一族の解放の儀式をされた際の、祈祷文が非常に重要であろうかと考えている。

随分捜してみたが、残念ながら見つからないので、おおざっぱではあるが記憶を辿ってみる。

 

神のため一身奉献、

神のため一家奉献、

神のため一氏族奉献、

神のため一民族奉献・・・・・

 

こういった内容であったように思う。

かって山本七平氏が統一原理はキリスト教というより、儒教的であるといった趣旨のことをかたっていたが、詳細は知ることができなかった。

おそらく三大祝福の事を指しているのであろうと当時は考えた。三大祝福:神を中心とする理想人格の完成→神を中心とする理想家庭の完成→神を中心とする環境世界の完成

個人→家庭→世界 というように天国を築いていく姿は、修身→斉家→治国→平天下に似ていると考えられたのであろう。

実は以前に、似て非なるものと、似ずに本質的には同じものという視点を私に著書を通して教えて下さったのは山本七平氏であった。

ここでは氏より教えていただいた、似て非なるものという視点で説明したいと考える。

儒教では地上天国が実現していく過程は統一原理に比べると静的である。では統一原理はどの様に動的なのであろうか?

上記の祈祷や信徒であれば誰でも知っている文 鮮明恵父の思想

「個人は家庭のため、家庭は氏族のため、氏族は民族のため、民族は国家のため、国家は世界のため、世界は神のため」

神が創られた天宙は、幾重もの階層が有機的に連体して存在している。私見では下位の存在は上位の存在に対して、奉仕性と奉献性の関係を持ち、より高い価値の追求と実現に向かって、融和統一され、自らの価値を高め昇価していく特徴が顕著に表れる。

このように究極の価値に向かって、天宙の主人公たる人間も、個人のレベルから奉仕性と奉献性をもって、昇価していく事が天命なのである。そこでついには神的価値に至り神の子と称されうるのである。

3については、

本来人類始祖のアダムとエバが堕落しなかったとすれば、アダムとエバという真の父母から全人類は生まれてきたのである。そこで真の父母様の御家庭と祝福家庭という区別は生じてこなかったのである。

しかしながら、我々祝福家庭は少なくとも3代以上を経て神に対する忠誠の伝統を立てずには、天地人真の父母様の血統に参画することはできない。血統は心情を現す、その心情を完全に取り戻さなければならないからである。

そこで直系の王統の存在が不可欠である。そこに権力が集中されなければならないのである。

さて、私は法律でしばしば登場する権利という言葉に違和感がある。

文 鮮明 恵父が権利の行使をされるとき、それは神と人類の至福の実現のために権利を主張し行使されるのが常である。そこには私心や自己の利益という概念は微塵も見あたらない。

またそうした権利の主張や行使は義務でもあるかのようである。言い換えるならば、神や人類の至福の実現を義務として受け入れ、それがそのまま権利として行使されるところに、文 鮮明 恵父の生涯は光を放って止まないのである。

本然の世界では一つのものが、堕落世界では二つに引き裂かれ、分離分裂して二つであるかのように振る舞っているものだが、本来の一つの姿を訪ね求めて行く思考を、私は統一思考と呼んでいる。

権利という言葉自体が天一憲法に相応しくないと考えることは、考えすぎというものであろうか?より高い次元の存在に昇価するために、神性人は身も心も捧げて生きていくにもかかわらず、権利という自分の利の為に主張するという事が不可能な世界を、文 鮮明 恵父は我々堕落人間に教え諭され、身をもって示され続けたのである。

つまり、天一憲法というのは堕落観念の一切無い。清浄無垢な世界で発布されたであろう内容をもって、神すなわち天の御父母様の御前に奉じられるべきものなのでは無かろうか?

また権利であり義務でもある、権利でもなく義務でもない。権務とでも言うべき概念があるのかも知れない。

4については、

かっての「私の誓い」が今や「家庭盟誓」となった。

正分合作用を知れば

正:神

分:善男 善女(夫婦)

合:分神(夫婦が完熟して合一した姿)

となるはずだと推測できる。分神というのはとりあえずの表現である。

 

女性と男性が霊界に行くようになれば、一つの体になって神様に似ていくのです。のちには神様化するのです。神様に似なければならないのです。神様は二性性相だといったでしょう。二性性相は何から出発したかといえば、愛から出発しました。愛の結実によって、本然の神様に似て帰ってくるのです。「人間の生と霊魂の世界P89」

 少なくとも夫婦として結ばれて初めて神の似姿となることができるのである。

となれば天一国最高委員会の委員は当然夫婦が期待されて然るべき事である。

文 鮮明 恵父の思想の核心である「家庭盟誓」を唱和していれば、極自然に夫婦は一つの人格であることが実感されるところである。

例えば上記のように恵師の思想が隅々の表現にも浸透しきっていることが望ましいと考えるのである。

最後に、どの様な完全無欠の憲法を作ることができたとしても、人間が神から離れればその努力は水泡に帰するであろう。

堕落世界の憲法では、国家権力の暴走を防ぐために国民が歯止めをかけてきたが、天一憲法において、堕落人間が権力の暴走には向かわず、むしろ公益に至誠を尽くすよう命令し要請する「家庭盟誓」を中心に据えたことが誇らしい業績である。

13名の委員の中には小山田先生がおられる。

個人的には、小山田先生と、それ以上に小山田夫人に強く強く期待するものである。