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原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

人類始祖アダムとエバに与えられた「戒め」と絶対信仰・絶対「性」・絶対服従

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 このすべての万物はただ生じたのではありません。神様自身が絶対信仰をもって、創造されたというのです。神様が絶対信仰した上で、絶対信仰の上ですべての万物が生じたのです。それゆえ、絶対信仰を持たなければなりません。絶対に信じたので、絶対愛することができるのです。絶対一つになることのできる基盤があるので、絶対愛することができるのです。そのような基準で天地創造をしたのです。

 創造は遊び事ではありません。自分のすべてを投入するのです。自分のすべてのものを投入して絶対信仰、ここには何も介在できません。純潔、内外が完全に一つになって、投入したのであって、神様が遊び事をしたのではないのです。すべてそのようにつくったのです。

 それゆえ、万物自体にある雄、雌、プラス・マイナスは神様に抗議できないのです。また、神様自身がその存在を中心として、絶対服従するのです。・・・・・・

 それゆえ、すべての宗教者たちは絶対信仰の上に立っており、絶対愛と絶対一つにならなければならないというのです。服従がそれです。服従は従順とは異なります。従順という立場には自分の概念がありますが、服従という立場には自分の概念がありません。このような原理原則をみな知らなければなりません。そのような基準の上に立たなければならないというのです。

「祝福と霊界解放」 1995年8月23日 韓国・漢南洞公館で

 

 

絶対信仰・絶対「性」・絶対服従

 

神は未だ見えざるときに、人の本心を信じた。

その信仰は絶対であった。

それゆえ、人が堕落してからも

人の本心を信じるがゆえに、過去も現在も未来永劫に

われわれを信じ続けるのである。

 

神においては、アガペーはエロースであり

エロースはアガペーであり絶対であった。

それゆえ、人が愛と性を分離して蹂躙し続けても

神のうちにあるような絶対一致が、人の生活に現れるまで

われわれを愛し続けるのである。

 

神は天宙に原理を立てて、自らこれに絶対服従された

命じる者と命ぜられる者が神の中では一つであった。

それゆえ、天父が我が子である人に願われるのは

強いられる服従としてではなく、

自ら進んで願う愛の絶対服従である。

 

 

 

さて、信仰・希望・愛とはキリスト教の教えの核心であった。

パウロはコリント人への第一の手紙13章13節に、

いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、である。」

と書いている。

これは、成約時代の絶対信仰・絶対愛・絶対服従に対応しているかのようである。

信仰と愛は対応しているかもしれないけれども、

何故、「希望」が「絶対服従」と対応していると言えるのであろうか?

神は人類始祖アダムとエバに対して「戒め」を与え給い、これに絶対服従することを願われた。

だが、この戒めに対する絶対服従の要請の背景には、

神がくださった三大祝福の希望の響きがあった。

そこで、絶対服従は至福の希望に対応していると言えるのである。

 

:1)たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

:2)たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

:3)たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

:4)愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。

:5)不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

:6)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

:7)そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

:8)はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。

:9)なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。

:10)全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

:11)わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

:12)わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 :13)このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、である。

 コリント人への第一の手紙13章

 

 アダムとエバは、神から絶対基準で信じていただいていた。

だが、これを絶対不信してしまった。

アダムとエバは、神から絶対基準で愛されていた。

だが、これを絶対放棄してしまった。

アダムとエバは、神から絶対基準で服従した天地創造の精誠を受けた。

 だが、この御旨に対する服従を絶対無視した。

 

そこで人類始祖アダムとエバの後孫である我々は、

堕落の経路と逆の経路をたどる蕩減復帰の道を

天の御父の為に 何としても喜びのうちに行かざるを得ない。

 

すなわち、

あたかも神を信じることができない

絶体絶命の限界状況に立っても神を信じ、

あたかも神の愛を見出すことができない

見捨てられた立場においても神の愛を見出し、

あたかも神から希望を感じることができない

受け入れ難い環境の中にも恵みと感謝を見出し、

かえって神に励ましと希望を与えていく道を

行かざるを得ないのである。

 

天には真の父がおられるが

地に孝子の孝子は影さえ現れなかった。

ゆえに真の父は胸を叩いて我らに語りかける。

 

汝ら父子の因縁に平安を見出し

逆巻く人生の逆境と絶望の波に立つとも

信じ愛し服して 栄光の賜物を得よ! 

 


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