原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

松本さんの「中心批判禁止の理由」は独裁者を生む可能性がある考えである。

中心人物であっても神の御意からズレてしまったときには預言者が現れて、糾弾することがある。
中心人物とは神の御意を実行する者のことであり、個人であれ家庭であれ世界であれ中心とは神を表していることは、誰でも四位基台を通してご存知のはずだ。
中心人物が神の御意と一体になって進んでいるときはいいのだが、
そうでないときには批判しなければならない。
それでも悟らないときには、残念ながら別の道を行かなければならない。
批判すべきときは批判して良い。しかし、変わらないのにいつまでもぐじぐじ言っていても始まらない。知った者にこそ責任がある。わからないのだから分かる人がその責任を負うべきである。
批判の動機と内容が神の御意に根ざしてなら大いに聞く価値がある。
わたしもそうだが、誰もイエス様やお父様のようにはいかない。
そう在りたいと思い、努力をしても、この有り様である。
会長も例外ではない。


【中心批判禁止の理由】 私は今回、三大王権御来日で九州大会の実行委員長を務めさせていただきました。 そこで私たちの信仰の基本姿勢を実戦の歩みの中で再確認させていただきました。 それは「中心に絶対に従う」ということであり、そのとき「神様の保護と導きが可能になる」ということです。 二代王様は「お父様の前に完全に無」になり役事をしておられました。 また江利川会長はすべての行事や行動計画を二大王様に報告されて、承認や変更の指示を受けられ、そのようにされました。 江利川会長は「王様絶対の信仰」で見事に動いておられました。 そして我々は、会長から変更の指示があれば、ただちにその指示に従い予定していたことをキャンセルして(食事のキャンセル、見学場所のキャンセル、そして新しい予定の予約などなど)、その指示を達成するために全力で動きました。 そこには「この方が合理的だけど」というような個人の考えなど全く通用しません。 二代王様のご意向が絶対です。 もちろん王様は私たちが準備したことで「良し」とされることも沢山ありました。 しかし一度変更となるとそれに向かって会長以下全員が動きました。 そこで痛感したのは、【中心に絶対に従う】ということが我々が「神様に保護される信仰の生命線である」ということです、 王様はお父様の前に後継者、相続者、代身者として「完全に無」になっておられます。 江利川会長は「王様絶対」でした。 あとは我々が江利川会長と一つになれば神様が導かれるのです。 家庭連合の妨害も跳ね除け、動員目標400名も勝利しました。 今、朝のみ言で「モーセ路程についてのお父様のみ言」をお伝えしています。 神様の願いに必死で歩むモーセですが、イスラエル民族は、自分勝手に考え行動してモーセと一つになれずに荒野で倒れていきます。 エジプトが良かったと言う者、勝手に金の子牛をつくりモーセと違う考えをイスラエル民族に信じさせる者、カナン攻撃を躊躇する者、信仰を示す者様々です。 信仰が崩れていきます。 ポイントは「従うべき絶対中心が誰か分からなくなった」ただこの一点です。 その始まりは「モーセ批判」です。 「中心者批判」です。 モーセと民族を引き離すのです。 それが【サタンの策略】です。 我々に戻って考えるならば、王様に絶対信仰で歩んでおられる日本の中心は江利川会長です。 この会長を批判し、会長から我々を引き離そうとすることが、サタンの策略なのです。 また会長の任命を受けて、会長を支えて歩むものを批判することも同じことです。 私は伝道復興委員会委員長として、この三つのラインでは絶対に「中心批判の投稿は許さない」と決意しました。 神様と三大王権が認めた中心と一つになって歩むことのみが、大した力もない我々が勝利できる唯一の道なのです。 その時、万軍の主、神様の保護と導きが我らを勝利させてくださるのです。 伝道復興委員会では中心者批判は許しません。 しかし、発展的提案は大歓迎いたします。 宜しくお願いいたします。 2022年7月28日 伝道復興委員会委員長 松本昌昭

日本聖殿はグローバリストがやっている検閲を昔からやってきている。

批判を許さないで思い出すのは、カトリック魔女狩り人民裁判である。
異端審問。
正統か異端か、異端なら処刑、現代では追放。
こうした悪習はカトリックだけではなく、家庭連合にも伝統的にあった。
これはお父様の思想にはない。
三男は側近がやりたい放題にしていることを問題にした。
お父様もご存知だ。
では何故悪党たちを抱え込まなければならないのか?
それはお父様が排斥したところから地獄ができるからだ。
天国を作るべきメシアがどうして地獄を作ろうか?
悪を包容しながら変えて行くしかないのだ。
子女様たちが側近を自然屈服させる道が天に望まれていた。

カトリックにも立派な方がおられて異端者を処刑することに反対してもいる。

あるときわたしは数人と話して澤田さんに退会のお願いをしたことがあった。
これもいいことではない。
本人の意思も尊重しているので排斥とは言わないまでもできる限り避けるべき対応であった。

自由主義社会とは自分の意見と他人の意見が違っても誤謬がない限りは、相手の考えに同意はしなくても、そういう考えなのですなと理解は示すべきである。

江利川会長は日本聖殿の中心者としての責任は果たしているかもしれないが、
日本全体ではそうとも言えない面もある。
例えば大陸会議の内容を日本聖殿のメンバーにしか伝えていない。
したがって、この点日本のサンクチュアリ全体の責任者としては機能していない。
また、二世の祝福についても日本聖殿内でのみマッチングされたり父母の集会参加が許され、
その他のメンバーを排斥している。
これは前述のように日本聖殿が正統な信仰であり他がそうでないとある意味で異端視していることにも理由があると思われる。
おかしな信仰を持った父母や信仰的ではない子女と祝福を受けることは望まれることとは言えないからかもしれない。
しかし、それでも排斥はいけない。

少なくとも王様の御言葉は総会長であるなら自分に止めてはならない。
王様は集権的ではなく分権的であることを望まれているが、会長はずっと中央集権的スタイルを貫いてきた。家庭連合には分権的な伝統はなかったので、御本人にはこの中央集権的やり方以外に責任を全うする方法はなく、またそれを支持して集まってきた信徒に支えられて御旨に応えてきた。
王様は中央集権には反対だが、自由と責任でそれを選ぶことを禁じてはいない。
日本聖殿その時その時の点の願いには答えられても、残念ながら天一国の分権的伝統を築くことはできない。
したがってこの部分は他の者たちが責任を負うべきである。

また、日本の情勢判断も正しく把握されておらず、

岸田政権にはサタンがべっとり入って日本を崩壊に向かわせてしまっている。

ゼラとペレツの方針が正しいならどうしてこれほど見たことがないほど自民党政権はおかしくなったのだろうか?

日本聖殿の日本情勢の分析判断が大きくズレていたからである。

 

最後に、そもそも中心者とは誰か?

あなたは毎日祈りの終わりに何と言って締めくくっているだろうか?

祝福の中心家庭である。

この中心家庭の連合が本来の家庭連合の姿であったが失敗したのだ。

日本聖殿も同じ失敗で終わるかもしれない。

自分が決めた道だからしょうがない。

 

私が主人であり、私の家庭は祝福の中心家庭だという意識、

これが欠如してしまえばどうなるというのであろうか?

とほほ・・・