原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

サンクチュアリに異端者が生じても処罰や追放してはならない

魔女狩り人民裁判とはカトリックの悪しき因習である。

たとえ兄弟が間違った教えを広めようとしても、悪意からではなくその兄弟が本当にそう信じて語っているなら、意見の相違を議論するのはどんどんすればいいが、

如何に奇妙な教義の理解をしていても追い出してはならない。

異端審問をカトリックはしてきた歴史があるが、

家庭連合でも霊的集団として追い出してきた。

信仰観が違うなら追い出さず、避けるべきである。

行政的な手続きで追い出してはならない。

我々の立場では十字架信仰、イエス様は万民の罪に贖いのため

十字架にかかりに来たというのは異端である。

だからといってクリスチャンに胸襟を開かないわけではない。

律法学者はイエス様にとって異端であり、洗礼ヨハネも一旦は主を証したが別行動を取った異端者であった。

我々自体もお父様のみ言葉を表層的に理解して満足していたが、年月を経て様々な経験をして再び同じ御言葉に出会うと、はじめの理解とは違い自分の心霊が低く低次元にしか受け取れなかったのだと驚くこともしばしばである。

異端、違う考えというものはどこにも現れる。

追い出すということは、その人の存在を否定することに等しい。

やわらかな死刑執行である。

神の子たちが振る舞うべきことではない。

 

24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25 ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。
26 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。
27 それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
28 主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦(それら)を抜き集めましょうか。』
29 しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
30 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。
マタイの福音書13章24~30節  新改訳2017