原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

自由と秩序 自由と責任

堕落世界では、二項対立のように見えるものが、創造本然の世界では一つに円和され統一されていることが語られてきました。

自由と秩序もそうです。

 

「原理を離れた自由はない」 と言います。

平たく言えば、原理とは法による秩序体系のことです。

多くの人は「自由」を論理的な表現で説明しようとしてきました。

ああでもない、こうでもないと、のたうち回るかのように模索してきました。

だが、血が流れる生身の人間の我々にとって自由とは、概念ではなく実感として存在してこそ意味があります。

 

秩序の中に生きていて自由を実感し謳歌することを

神は創造の中に願われました。

人間がサッカーならサッカーの、野球なら野球のルールを決めて

競い合うように、秩序の中の自由を楽しもうとされました。

 

したがって「自由」とは、全体を貫く「法」の中で個の「法」を立てることです。

言い換えると、「連体感覚」のことです。

平たく言えば、

「原理を離れた自由はない」(連体責任)or(秩序責任)

 

存在は二重目的を持つ連体である。性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係を持っている。それ故に、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。従って、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯し合っている一つの広大な有機体なのである。

 

 これを、鈴木大拙は「肘曲がらず」で悟りました。

 

 存在は二重目的を持つ連体である。性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにある

 

個人の氏族メシア活動は、自体の目的ですから全体目的に対して対象的なものとなります。

上記の文章を素直に読めばそうなります。

 

私は2015年のはじめに清平で企画された「神氏族メシヤ修練会」に参加をしました。家庭連合で氏族的メシヤ摂理を本部が主催して力を入れるということで、内容にも関心をもって、楽しみにして参加をしました。

その中で、どうしても違和感を感じ、納得できない内容が下の図にある構図でした。
その研修会のために作成したテキストの41ページのところです。

IMG_3457.jpg


本部、教会を主体とし、祝福家庭、家庭教会を対象と位置づけています。
そして、本部や教会の摂理は天一国創建として全体目的で、祝福家庭の氏族メシヤ活動は個体目的としていました。

 

家庭聖殿拡大連絡会(サンクチュアリ大分)

 

納得がいかなかった時になぜ聞かなかったのでしょう。

それでは、講義をした方は説明も反論もできません。

本人もフラストレーションがたまった状態で何年も来られたようですし・・・

 

家庭連合の問題は神の認識がずれているということです。

神意がわからないということです。

中心がわからないのです。

 

私は阿南さんの今までの主張を見て、何かに似ているなあと思うようになりました。

なんだろう?

独性女神学の発想に似ていると思いました。

韓鶴子オモニは、アボジに対する強い怨みを持っていました。

この怨みから何が出てきたかというと、女性上位神学である独性女神学です。

怨みから主管性転倒に向かいました。

 

阿南さんも家庭連合時代の強烈な怨みが蓄積された状態なのだと思います。

根底に深い怨みがあるように感じます。

中心者や中央の上位性を周辺者や地方の上位性に変えたいと

執拗に働く主管性転倒の性格があると思います。

 

怨みによる主管性転倒です。

そうでなくては何故、摂理が対象で氏族メシア活動が主体だという危険な発想が

出てくるのか理解できません。

これは教義を根本から覆す主張のように聞こえます。

 

 

 

氏族は民族のため、民族は国家のため、国家は世界のためが我々の思想です。

 

一番初めに皆さんがお金をもうけて皆さんの教会のために使ったとすると、その次に教会で本部を助け、本部は国を助け、国は世界を助け、世界は天を助け、こうして上っていくのです。全部上っていくのです。

 

何故縦的な関係性があるのに、エリアがあって横的な関係性も必要なのか?

 

しかし、神経系を通して伝達される縦的な基準でのみ関係を結んでいけば、一時的に感じられるかもしれませんが、継続して感じることはできません。私たちの体の骨の組織について見るとき、それは秩序正しく縦横に連結されています。

 

 

お父様は組織の「三段階体制」「三段階原則」が創造原理的組織論だと語られました。

 

先生は三段階体制です。分かりますか? 三段階体制、これが天の国の組織型です。この組織が何の組織ですか? (行動組織)。行動組織です。管理組織ではありません。管理組織だったらそのまま後ろに従ってきつつやればいいですが、行動組織は戦闘的でなければなりません。・・・・これを前後にして拡大させていくのが、創造原理を中心にした組織編成観だというのです。

 

 

これが三段階原則に従って相互関係を結ばなければなりません。上下・前後・左右関係をいつも備えてこそ、存在圏がそのままそっくり存続するということを皆さんは知らなければならないのです。それが原理の教えではありませんか? そうでしょう?(はい)。

 

お父様が語られた「三段階体制・三段階原則の組織」とは、

正分合作用であり四位基台のことです。

 

神のすべての実体対象に備えられている主体と対象において、その対象の中心がその主体にあるので、主体と対象の合性体の中心も、やはりその主体にある。しかるに、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三対象が相対基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三対象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。したがって、四位基台の究極的な中心は神である。このように、四位基台を完成した各個の被造物を個性真理体という。

 

「 責任のない自由はない」(行動責任)

これはどういうことでしょう?

原理講論では「原理を離れた自由はない」のところで、

自由は自由意志と自由行動によってなっていることが書かれている。

神のみ旨を完成させる責任が原理的に与えられている人間は

神の御心やみ旨を自分を取り巻く状況の中で、自由意志により主体的に状況判断し、

行動を起こさなければならない。

「知っているものには責任がある」

そこで自由意志による自由な行動で神のみ旨が前進する行動責任がある。

わたしは、「責任のない自由はない」とは、平たく言えば行動責任のことだと思います。

ですから、批判ばかりではだめだということです。

自由意志で正しい判断をしているというなら、その判断にともなう神の国の建設的行動が伴わなければならないということになります。

責任分担完遂のための自由だからです。

 

 「実績のない自由はない」(成果責任)

神の創造は喜びの創造です。

被造世界は人を喜ばせるためにお造りになられました。

人は神が手掛けた被造物に、自分の個性的働きを加えて万物を主管します。

その主管は愛による主管でした。

全能の神はご自分が造ったそのままのものを見て喜ぶのではなく、

神の子女として造られた人間が作るものによって感動と喜びを得ようとされました。 

 

一)自由の原理的意義
 自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というものも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない。したがって、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである。
 第二に、責任のない自由はあり得ない。原理によって創造された人間は、それ自身の自由意志をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成する(前編第一章第五節(二)(2))。したがって、創造目的を追求していく人間は、常に自由意志をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はあり得ないのである。
 第三に、実績のない自由はない。人間が、自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績を上げようとするところにある。したがって、自由は常に実績を追求するがゆえに、実績のない自由はあり得ないのである。

 

今回は、原理講論にある有名な自由の定義をそれぞれ責任に対応して

解説してみました。

どうしてそのようにしたかといいますと、

自由と責任は単独では存在できない、表裏の関係を持った一つの内容だと考えるからです。

 

サンクチュアリ内に発生した暴徒たちは、「自由と責任」という言葉を使いますが、

責任については述べません。

神と人の信が信仰で、人と人の信は信頼です。

エデンの園で蛇は神とエバの信をゆるがすような偽りの言葉をささやきました。

「信なくば立たず」と言います。

 

神は法による支配ではなく、愛の実体法による支配を抱かれ天地創造をなさいました。

それゆえ、神による堕落人間の復帰摂理は、法ではなく中心人物によってなされてきました。

から騒ぎ人たちによってかき回されてきました。

協約は分権的になっています。

組織も家庭連合のような中央集権ではありません。

わたしは一概に中央集権を否定するものではありません。

目的をよりよく達成できる方法が中央集権ならそれでいいと思います。

 

今回、約束事が必要なほど跳梁跋扈する輩が出てきたのは嘆かわしいことですが、

それ以上に「信」によって成り立っていた兄弟姉妹の関係性が「法」によって

とって変わったことのほうが悲しいです。

しかも、騒ぎを起こした張本人たちは出ていってあっけらかんとしている始末です。

 

イスラエル民族がモーセの言葉を尊重せず、十二支派七十長老たちが全部自分勝手にやったので十戒を下すようになったのです。この十戒イスラエルを滅ぼすようにしたのです。それを知らなければなりません。そのために滅びたのです。そのためにイスラエルは滅びたというのです。その法を立てたので、直接指導できないのです。直接指導から離れたというのです。何のことか分かりますか? 十戒を立てたので、直接それを行えない人は神様が対することができなくなったというのです。ですからイスラエル民族は大きな被害を被ったということを知らなければなりません。神様が十戒の後ろに立つようになったというのです。十戒が垣根になったということです。垣根になったというのです。
それを知らなければなりません。法は荒野で作るのではありません。カナンの地へ入って、神様が法を作らないといけないのです。

 

わたしはこの協約がどんなに遅くとも今年中、できれば11月中にはできあがることを最優先に考えてきました。

12月は今年の反省と来年の抱負を整理しつつ、み旨を携わることが寛容だと考え、

来年まで持ち越すべきではないと思いました。

皆様の検討期間が短すぎるという指摘には頭が下がりますが、

この世の会議にも立ちながらするものがあるように、

圧縮して検討することは案外いい意見が浮かんでくるものだとも思います。

今月で収束していく様子を見ると、これでまあボーダーラインはクリアしたかと思っています。

 

5人の提案のうちで原田さんと私の案は採用されませんでした。

ですから、作成する側に立っているからといって、どうこうできるものではありません。

原田さんの意見にある価値観は加えたらどうかというのが私の意見でした。

 

今思うと、かんたんな信徒の約束事だけ先ず作って皆さんに決めてもらうべきだったと思います。

ですが、一週間もかけてたたき台を造られてきた方がいました。

その精誠を鑑みれば、そこから多くの信徒の意見をもって作ってみても良いと思い、

皆さんが知る形となりました。

一年動かしてみれば、いいところも悪いところもわかるでしょう。

もう机上の意見交換は十分だと思います。

われわれの力不足は、申し訳ございませんでした。

今後とも信徒の皆様とともに

より納得がいくものに作り上げてまいりましょう。

 

<自由と責任と秩序>

「原理を離れた自由はない」(連体責任) or(秩序責任)

任のない自由はない」(行動責任)

 「実績のない自由はない」(成果責任)

 

 


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