原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

あまりにも初歩的なことだが、教会長はアベルの立場です お父様のみ言葉を引用

6 アベルとしての牧会者の使命

 これから先、蕩減復帰をしなければなりません。蕩減復帰でなければならないのです。蕩減の道は誰が行かなければならないのですか。アベルが行くのです。それでは、教会責任者と新しく入った人を見たとき、誰がアベルですか? (教会責任者です)。それではカインが蕩減の道を行くことができますか、できませんか。答えてみなさい。そういうことがありますか、ありませんか? ないというのです。蕩減の道はアベルが行くのです。統一教会の責任者たちはこれを知りません。忘れてしまったというのです。これを知らなければなりません。ここに今いる各国の代表者たちも、それを知らなければなりません。蕩減の道は誰が行くのですか。カインが行くのではありません。アベルが行かなければなりません。涙を流すのも、まず最初に流さなければならないし、おなかがすくのも先におなかがすかなければならないし、悪口を言われるのも先に言われなければならないし、殴られるのも先に殴られなければならないのです。それが、蕩減の道を行ってあげるということです。既に一人が入ってきたとすれば、その人の話を聞き、その人の過去の話をすべて聞いてあげ、お父さんと同じ立場で相談してあげ、涙を流してあげ、祈祷をして、こういうことをしてあげなければなりません。

「牧会者の道」より

 

ある女性が「教会長はアベルではない」というので驚きました。

一体どうしてそのような突拍子もない事をいうのでしょうか?

 

アベルカインの説明には、詳しく書かないと誤解される怖れがありますが、

とにかく誰もが知っているように、教会長やその他の聖職者は下位の役職や信徒のアベルです。

これは家庭連合もサンクチュアリも変わりありません。

アベルカインは自分の心の中に葛藤があると正しく理解することができません。

それはどなたも経験したことがあるのではないでしょうか。

 

アベルがいなければ、私の堕落性をどうやって脱ぐことができるでしょうか?

アベルに替わるものがあるのでしょうか?

 

その女性は、おそらく以下のようなみ言葉のことがいいたいのではないかと思います。

 

今日、統一教会の皆さんは行くや否や「えっへん。先生が何々教区長、何々教域長をさせたから、私はアベルだ」と言うのです。アベルになったのではありません。アベルの使命を果たしなさいといって送ったのです。ところが、アベルの使命をすべてすることができないで「私に仕えろ。私の命令を聞け」と言うのです。親が子供に仕事を言いつける時、自分は座っていながら言いつける親は、義理の親というのです。分かりましたか? 義理の親、本当の親は連れて出かけて仕事をするのです。教えてあげながら仕事をします。そうではないですか? そうでしょう? (はい)。それが本当の親です。

「牧会者の道」

 

つまり、本当のアベルは「自分は座っていながら言いつける」のではなく、

江利川会長のように、自ら指示事項を率先垂範しなければならないということです。

 アベルの使命をアベルは果たさなければなりません。

アベルは何をしましたか?

捧げ物でした。

実績に責任を持つ人がアベルです。

 

簡単ですが、先ずはお父様のみ言葉を引用しました。

 

 

 


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