原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

真の父母の三次の結婚式に参加し、同様の内容を相続する自分たちの三次の結婚式を経て、天の恵みの大きさに驚く毎日です

ペンシルベニアで真の父母様の三次の結婚式に参加する機会を得て、私たち夫婦は新しい段階に進んだことを実感します。

われわれがどうのということではなく、一方的な天の恵みが降りてきたというのが適切な表現でしょうか。

真の夫婦は、あたかも一卵性双生児のように一体となっていなければならないのでしょう。

この歳になって、こんなことがあるのかというように、夫婦が近くなっていくのがわかります。

夫婦というのは有り難いものです。

お互いの良いも悪いも知っていて、円満に付き合っていけるわけですから、

安心感があります。

しかし、それとは別に天からオーロラのカーテンのように妖しく美しい有様で押し寄せてきていることがわかります。

なんという懐かしさでしょう。

 

真の父母様の三次の御聖婚式こそが、あらゆる重要な式典の中で白眉の儀式であり、

そこの参席して生きた証人となる栄光に与ったわれわれはなんと幸せものでしょう。

 

さらに、御父母様と同様の栄光の三次聖婚をわれわれは相続することが出来ました。

霊界は押し寄せ、われわれは生まれ変わった者のように、顔と顔を見合わせて、今まで共に生活して来た夫婦とはまったく違った価値の世界に移籍して住むことになりました。

 

三大祝福をもし人格という観点で表現することが許されるなら、

個人路程の人格から、一心一体の夫婦という人格、一心一体の三代の家庭という人格というように言えるのかもしれません。

 

そのような永遠の理想を神は胸に抱かれ、復帰のもつれにもつれた道筋を孤独に歩まれてきたことを思うと、わたしたち夫婦、わたしたちの三代でその恨みをなんとしても晴らさないわけには生きた心地もなく、死を迎えることも出来ないわれわれです。

 

この偉大な恵みが世界を覆っていることを知っている一握りの私たちが

世の光となり御後に続いて行きたいものです。

家庭連合時代は理想の御言葉をお題目のように唱えるばかりで、自分とは突き放して歩んできたわたしですが、この恵みに応え、自ら証しする道を行かせてください。

 

個人で評価される時代はとっくに過ぎ去っています。

夫婦が如何に神と共にあるか、

三代の夫婦の代表たる、父と長子と長孫がどのように神とともにあるか、

アブラハム・イサク・ヤコブの神と

神が自らを名乗るのではなく、三代を一代のごとく見て、

人の信仰の証しを通して、自らを語り自らを現したように、

われわれもそれ以上の報恩を尋ね求めて行きたいものです。

 

昨日、ある方がおもむろにわたしに言いました。

「皆がわたしを馬鹿にしているんです。」

その方に時間がなかったので短く言いました。

「きっと皆はあなたを心配しているんじゃない?」

「わたしはあなたが大好きだから、何でも頼んでね。」

「あなたは優しいから、わたしの姿を見つけたら、挨拶してくれるでしょう。もし、街でわたしを見かけたら、声をかけてね。」

その方は、思えば毎回会う毎に、誰々に怒られたとポツリと言います。

もう何人になったでしょうか。

 

エス様は、隣に住む人を愛するのではなく、愛するという行為が先にあってその後にその人は隣人になると教えられました。

このたったひとつの御言葉がどれほど身につけるのに大変でしょうか?

 

再臨主文鮮明先生は、開拓伝道に行ったなら、その村の一番可愛そうなおばあさんを見つけて、その人の話を、自分がその人の話を聞くためにだけ生まれてきたというように聞いて差し上げなさいと語られました。

 

御父様が実際にそのようにされてこられた心情とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?

神様、どうかこのようなわたしにもその秘密のお心を見ることが出来るように

明日からの歩みに導きを与えてくださいますことを!

 


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