いったい私たちはどこで永遠不変の真の愛でお父様から愛されてきた負債をお返しすることができるというのでありましょうか?
いったい私たちはどのようにして私たちが蘇生するために完全投入なされた御父の心情にご恩返しをすることができるというのでありましょうか?
考えれば考えるほど不可能であります。
うすのろぼんくらの類のわれわれに何ができるというのでありましょうか?
メシアに真に侍り、お父様が誰にも言うことができないでおられるが、何よりも心残りのことがあるとすれば、そのお心を察して有り余る忠誠で、言葉なき心、声なき心を受け止めて大恩に応える道を、誰が阻もうと、何が待ち受けようと行きたいと思うのが、創造本然の父子の因縁ではないでしょうか?
公的な真の父母を離れて、私的な父の立場にかえるとき、
父親として最も幸せなときが、その子女の婚礼の場であることを思うときに
ご子女様の中で未だ祝福を受けられず、御結婚されてはいない方がおられることは
祝福家庭が解決すべき中心問題ではないのでしょうか?
うすのろまぬけの私たちカインの子女が先に祝福を受けて
結婚し家庭をもって子女を得て幸せに暮らすことは
針の筵に座って生きるようなものではないと誰が言えましょうか?
人としてどうして黙っていられるというのでありましょうか?
今も栄進様はお一人でいらっしゃるのではないでしょうか?
でも、多くの食口はこう言うことでしょう。
「栄進様のことは霊界におられるお父様がなされるでしょう」と。
それは至極真っ当な考えではございます。
お前が考えるくらいのことはとうにお父様が考えられておられるくらいのことがわからないのか、この戯け!
だが、たとえお父様が既に霊界で霊界におられる女性を相対者として選んでおいであったとしても、どうしても納得がいかない思いがございます。
霊界の相対者さえ無きことにして、地上にいる女性と祝福結婚なされることを
強く願う思いが帆船の白帆のように胸を膨らませてやみません。
いったいそれはどうしたことでしょうか?
イエス様が聖和された先の霊界で何故相対者を決定されなかったというのでありましょうか?
何故2000年間再臨主を求めてみ旨の道を歩まれてきたというのでありましょうか?
肉身がなければ家庭を築くことはできません。
肉身生活の意義がここにあるというのです。
聖和されて霊界に行かれたお父様は、何故霊界の女性を相対者に立てて真の母とすることができないというのでしょうか?
お父様は康堅実オモニと何故御聖婚をなされなければならないというのでありましょうか?
お父様にしてもそうではなければならない理由があるというのです。
興進様はどうだったのでしょうか?
興進様はお父様のために身代わりになって天にいくことには全く未練はないが
相対者がいないのは少し寂しいとのことでした。
そこに薫淑様が現れました。
お父様はすべての人に負債のない人生を歩まれました。
だが、薫淑様には頭が上がらないとおっしゃいました。
お父様が負債を感じておられる人がもし地上にいるとすれば
その人は薫淑様でありましょう。
親は自分の祝福より子供の祝福をより一層喜ぶからです。
聖和された孝行息子の興進様に幸せをもたらしてくれたからです。
現在薫淑様はあちらに在籍されておられますが、
お父様はこの借りをお返しすべくお救いになられることでしょう。
それが心情の原理だからです。
お父様の生活信条は真の愛で神や人々に負債を与えることでした。
そしてご自分が負債を与えられた人には何倍もお返しになられました。
さて、わたしたちはどれほど負債を抱いていることでしょうか?
この莫大な生涯かけても返すことができない負債を
どのようにして返すことができるというのでありましょうか?
それともごっつぁんですとほおっておくのでしょうか?
わたしたち罪人はご子女様の幸せに責任を持たずほったらかしにしてきたというのです。
われわれはカインの子女です。
「栄進様の相対者が必要だ」と
お父様やロイヤルファミリーに先に言わせていいのでしょうか?
霊界にいる兄と結婚したいと思う女性は手を上げてくださいと言わせるというのでしょうか?
むしろたとえ思っていても言い出しにくい話ではありませんか。
われわれカインの子女から、両親と娘が一心になって、ぜひ僭越ながら相対者として
ご考慮いただけませんでしょうか?
とお願い申し上げるのが筋というものでしょう。
あなたがロイヤルファミリーの立場で、霊界にいる方の相対者になってくれませんかと娘さんやご両親に言うことができるでしょうか?
だからこそ、われわれカインの子女の側からご提案申し上げたいというのです。
心情の境で主に会う。
それがお父様が教えてくださった道だからです。
まず両親がそのような心情圏に立たなければ始まりません。
さらに娘さんもその心情圏に立たなければ始まりません。
私たち夫婦もそこに立ちます。
娘はずっと遠いところにありますがね。
できるかできないかなど、どうでもいいことです。
とにかく娘さんを見たら、自分の娘であろうが
人様の娘であろうがお構いなしに、
「栄進様の相対者にどうですか?」
と聞かずにはおられないというのです。
栄進様はご存知のように訓母が推薦したという女性が問題を抱えた有名な女性であったようですが、その方を受け入れられ、お父様に一緒に許しを請おうと言われたと聞きます。
栄進様が精誠を尽くされて踏みにじられた心情を越えて有り余る心情で
花嫁をご用意したいと思いたいじゃありませんか?
そうでなくして、どうして栄進様の恨を解いて差し上げることができ、
お父様に対するご恩返しができましょうか?
自分なんか到底無理だろうと思っていたヨナ様が候補の中から亨進様の相対者に選ばれました。
隠された花嫁がサンクチュアリにおられるはずです。
その方が現れるための呼び水のようにして
すべてのサンクチュアリの家庭は行動して不思議はないとわたしは考えます。
かぐや姫の両親のような失敗を我々は決してしないでしょう。
国進様が栄進様ほどの人格者はいないと語られました。
その栄進様が亡くなられる前に国進様は亨進君のことを頼むよと願われました。
栄進様の死を迎えて、国進様はトイレで泣き崩れているところに亨進様はばったり出会いました。
三人の兄弟は一つなのです。
その感覚を知らなければならないというのです。
三人の幸せが訪れないかぎり個々の幸せも本当の意味ではないというのです。
霊界におられるイエス様も地上の女性を必要として、お父様に祝福されました。
霊界におられる興進様も地上の薫淑さまと祝福されました。
霊界におられるお父様も康堅実様と祝福をされました。
どうして栄進様だけが霊人と祝福を受けなければならないという原理があるというのでしょうか?
今こそ我々はお父様の前に悔い改めて、いままでなおざりになっていたご子女様の祝福に、カインの子女であるからこそ責任をもっていこうではありませんか!
ペンシルベニアの教会でさっそく声をかけました。
「あなたの娘さんはどうなの?」
聞けば一人娘だという。
ここから先は言わなかったことだけれど。
追い詰めちゃいけないしね。
自発的でないとね。
「運がいいじゃないか。イサク献祭だよ。アブラハムは失敗してイサク献祭だったが、あんたは無傷の献祭だよ。羨ましいね。アブラハムと勝負だよ。一本だね。」
「アブラハムは3日も悩んだそうだよ。あんたは一瞬も悩まず捧げたら、さぞかし神様も感動されることだろうよ。有り難い話じゃないか。正に神は愛なりだね。」
「子供がなんだって?子供はおそらく国進様から養子に来るだろうね。あんたは幸せものだね。ご子女様のお子さんを育てられるんだから。正に神は愛なりだね。」
「朴先生が先駆けられたので、教訓にしてその先を行こうよ。深妙な顔なんかせずに、明るく行かなくちゃね。当たり前でしょ。地上人同士の祝福よりももっともっと喜んで感謝して受けるんだよ。」
「お父様も興進様を天に捧げるときには、地上で息子が結婚式を迎えた日の喜びの心情以上に感謝して送られたことを思い起こして、娘さんを捧げてすっからかんになればいい。正に神は愛なりだね。」
まあ、なんて嫌味な男だろうね。
こんなやつとは話したくも付き合うのも御免被りたいね。
でも自分だから仕方がないか。
我ながら呆れるね。
でも本心だから仕方がないよ。
全世界の娘を持たれる一世のご夫婦とその娘さんに
神の御心が降りますように!
そしてすべての食口がお父様の御言葉の如く
神様を感動で胸しめつける者となさせ給えと
祈れますように!
アージュ。
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