原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

9.23御聖婚儀式以降について

この道は真剣勝負の道です。

ひとたび誤れば血しぶきをあげ、永遠の命を失うことになります。

韓鶴子オモニの堕落と反乱によってアボジは別居状態になり、

いつから離婚状態になったのかわれわれには判然としませんでした。

 

だが、三次目の御成婚が完成されたことによって、今まで曖昧にされ、執行猶予のようになっていた恩赦がタイムリミットになることでしょう。

お父様が韓氏オモニを切り捨てたことで明確になりました。

したがって韓氏オモニの家庭連合に主体者や相対者が残されている場合は

どのような道をゆくべきか明確になりました。

自由と責任によって決めることではありですが、

天運の中にいるか、天運から外れていくか

決することになるでしょう。

お父様は再婚されて真の夫婦と真の父母を勝利されました。

聖酒を主体者や相対者がまだ飲んでいないとか、お父様の権威に戻る儀式をどちらかが受けていないとか、規定の手続きが完了されていない人は、お父様の行かれた道が見本となることでしょう。

天の父の御心を行うものが夫婦です。

そうでなければ堕落圏に留まります。

お父様は前に進みました。

 

絶対「性愛」とは噛み砕いて言えば、

先ず第一に神の血統を絶対視することでした。

これに合致すれば善し、そうでなければ悪し。

次に純潔の絶対視でした。

純潔は夫婦が一致して初めて成立します。

第三には公的の絶対視です。

 

絶対血統・絶対純潔・絶対公益

 

夫婦の両人が正統な神の血統を絶対視していなければアウトです。

したがって家庭連合とサンクチュアリにまたがって成立することが出来ません。

 

純潔は説明がいらないでしょう。

 

公的と言うのはタマルを見ればわかりますね。

絶対公的の感覚が重要です。

絶対公益!

 

自分の妻、自分の夫と見ればアウトです。

亨進様圏の存在と韓氏オモニ圏の存在とは両立しません。

今回の儀式で決定的となりました。

我々が夫婦になる条件は一つの神一つのキリスト一つのみ旨が一致した場合のみです。

 

家庭連合に潜伏キリシタンのように潜んでいることができる時代は過ぎました。

審判の時が来ました。

十分に時は与えられました。

鎌を持った者が来る前に覚悟を決めなければならないことでしょう。

 

我々の判断の基準はお父様にあります。

お父様の御言葉と行動にあります。

 

わたしは常に思うのですが

何らかの律法的な決まりごとに従って進むという感覚ではなく

お父様がどのような御心情でどのようにどんな道を行かれたのかを

慕い求めた結果、自分もその道を行ってみたら、

原理原則にもかなっていたというような感覚が

本筋であるように思われます。

must ではなく want 

強いられるのではなく、誰に言われるわけでもなく、そうしたい

なぜなら、お父様が行かれた道だから

というような感覚であるかと思うのです。

 

妻に聞いてみる。

「もしあなたが精誠を尽くしたにも関わらず、依然としてわたしが家庭連合に残っていたら、あなたは離婚してあなたと同様に、神や真の父を愛する人と再婚するか?」

妻は言う。

「わたしには夫婦がふたつの道を行く事こと自体を想像することが出来ません。それだけわたしたちは近い関係だから。だからその問いには答えることもできません。」

わたしは言う。

「もし仮に反対に、わたしが家庭連合にいる妻に精誠を尽くしても報われず、ご父母様が三次の祝福聖婚に進まれたなら、わたしは迷わずに離婚し再婚するだろう。なぜならそれが絶対『性』だからだ。」

 

 


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