原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

イエス様の十字架と泥棒たちの十字架 

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http://www.bible101.org/nomura/cruelcross.htm

より引用

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 《十字架という処刑方法に就いて》

 

★  この文章は2000年4月23日の週報「ベタニヤつうしん」に掲載したものです。

今年春になって米国で映画「パッション」が上映され、わが国でも5月になって各地

で上映されることになりました。  映画をご覧になる方も多いと思いますのでこの際

改めてここに再度ご紹介致します。

 

 

十字架はローマ帝国領土内僻地で、奴隷や身分の低い者、或は非ローマ市民で重大な

犯罪を犯した者に課せられた残忍な処刑方法だったと聞いています。

 

  紐で十字架に死刑囚を縛りつけたまま、或は手足を釘で刺してぶら下げたまま放置

し、餓死させたとも聞いています。  死に絶えるまで群衆の目に晒す目的で街の外の

小高い丘の上が選ばれる事が多かったようですが、そこは同時に、上昇気流の激しい

場所でもあり、脱水状態に陥り、喉がカラカラに乾き切るような状態で餓死するよう

に仕向けたようです。  時として、苦痛を倍加させながら同時に死を早める為に脚の

骨を折る事もあったようで、ヨハネ伝19章31節以下にそのような言及があります。

 

  十字架型以外にもT字架もあったようですし、後になるとX字架型も使われたそう

です。  清里の清泉寮のはX型で十字架を斜めにした形です。  使徒アンデレが架け

られた形だと言われています。  『主イエスさまと同じ形では申し訳がないし、使徒

ペテロは同じ理由から逆さまに貼り付けられたのだから、自分は斜め横型の十字架に

してくれ』とアンデレが申し出た…とされています。  参考迄にですが、英国国旗は

主イエスの十字架とアンデレのX型十字架の二つを重ねたものだそうです。

 

  次に、十字架の処刑史ですが、ざっと調べたところでは、アッシリヤ、ペルシャ

カルタゴ(フェニキヤ)エジプトなど、主としてセム族系の国で用いられた死刑執行

の残忍な方法であったようで、最初は棒杭・棒柱から始まったと言われています。

 

  主柱となる杭は、私たち日本人には一辺が約40糎程の太さで長さが4米前後の頑丈

な材質の大黒柱のような棒杭とでもいえば分かり易いのかも知れません。  この柱に

革紐で囚人を縛りつけて刑の執行をしたようです。  また、主柱には体を休める為の

一種の鞍のような木片がついていたという学説もありますが、足を支える小さな木の

台があったのかどうかに関しては疑問視する学者もあるようです。

  固い地面には主柱を立てる為の1米前後の深い穴が杭のサイズに合わせて予め掘っ

てあったとも聞いていますから、同じ柱を何度も何度も使ったものと推定します。

 

  それですから、死刑囚は自分が刑を受けるその主柱に組み合わせる横木だけを自ら

運ばされたようです。  運ばされたと言っても、両手で脇に抱えて運んだというより

は、両手首を横棒の両端に縛りつけられたまま、横棒を首の後ろの肩に乗せたままの

姿で運ばされたのだと思います。  この不安定な姿勢で引きずり歩くだけでも相当な

苦痛だったのでしょう。  前のめりに倒れても自分を支えるものは何もありません。

 

  横棒と簡単に言ってしまいましたが、主柱の長さと太さから考えてみても、また、

東洋人よりも腕の長いコーカサス系やセム系の男が広げる両腕の長さから考えてみま

しても、或はまた囚人の全体重を支える為の釘の太さから考えてみましても、横棒は

一辺25糎から35糎四方の重い頑丈な角材でなくてはならない筈ですし、長さは少なく

とも2米から2米50糎前後はあったものと思います。  腕の短い東洋人の男でも両手

の幅は一間、即ち 180糎前後はあります。  この角材に両腕を縛られたままで処刑場

まで運ぶ厳しい刑罰です。(尤も、主柱は処刑の後に焼却したという説もあります)

 

  もしこれが処刑囚が受ける刑罰の一部だとしますと、マタイ伝27章32節、マルコ伝

15章21節、ルカ伝23章26節で描写されていますように、主イエスだけが重い十字架を

自ら背負わさせられ、長い道のりを歩かさせられたという事になりますので、イエス

にだけ特別に余分な苛酷な肉体的疲労を与える為に、また、侮辱から来る余計精神的

苦痛を科す目的があったのではないのかな…と、そんな事を私は推測しています。

 

  道中で囚人を鞭打つ革鞭には多くスパイクがはめ込まれており、囚人を鞭打つ度に

鞭が囚人の体に巻きつき、スパイクが肉体に食い込みます。  その鞭を引き戻す時に

肉体に食い込んだスパイクが鋸の刃のように囚人の体を廻って深く切り裂くのです。

 

  さて、十字架に囚人を架けて殺すという処刑方法は、その残忍性から古い時代から

用いられて来たと既に述べましたが、更に具体的に考えてみましょう。  出来るだけ

囚人を苦しめる事と目撃者たちに強い印象を与える事を目的としたのでしょうから、

まず地面に倒して置かれた主柱に囚人が担いで来た横棒を組み合わせて十字なりT型

を作ります。  そしてその十字架に囚人を押えつけて乗せ、両腕を横棒に革紐で縛り

つけるのです。  処刑中にもし雨が降ってその後で再び太陽が出て来ると革紐は乾燥

し始め、引き締まり、結果的に囚人の手首に食い込むようになるのです。

 

  主イエスの場合には、恐らく紐で手首を縛った上で、太くて長い鉄製の釘を手首に

打ち込まれたのでしょう。  横棒に両腕を縛りつける時、左右に腕をピンと伸ばした

儘で縛りつけるのではなく、両腕が上下に少し動くような余裕を持たせた上で、刑の

執行人たちは手首の柔らかい所を狙って太い釘を打ち込んだのです。

 

  その場合にも、左右に二組に別れた執行人たちが両腕に釘を同時に打ち込むのでは

なく、囚人の苦痛を増す為に、見物人への見せしめ目的もあって、どちらかの手首に

釘を先ず打ち込んだ後で、今度は反対側の手首を貫通して太い頑丈な主柱へと鉄釘を

打ち込んだのです。  麻酔は使いませんから激痛で気絶してもおかしくありません。

  (あなたの創造力を全部使って主イエスのお苦しみを想像してみて下さい。)

  釘を打ち込まれた囚人が痛みでもがき絶叫する中で十字架が太いロープで引き上げ

られ、十字架の下の部分が予め掘られた穴の中にドスンと落とされるのです。  その

時の衝撃はそのまま囚人の手首の傷に伝わります。  手首だけで全体重を支えている

のですから手首の傷は次第に大きく開いて行きます。  想像するだけでも残酷です。

 

  十字架を使った処刑方法を良く考えてみなかった時には、地面の上に寝かせてあっ

た十字架に、何人かの死刑執行人たちが囚人を力ずくで押しつけ、両手と両足に釘を

打ちこんでから、ロープを使って十字架を立て揚げるのだと思っていました。

 

  然し、十字架の刑を調べて行く内に、両手と両足を同時に釘付けするのではないと

気付いたのです。  先ず最初に、両手の甲か両手首を釘付けした状態で十字架を所定

の位置に立てるのだと解りました。  その方が囚人に痛みを余計に加える事が出来る

からなのです。  両手首に打ち込まれた釘だけで囚人は自分の体重を支えるのです。

身体全体の重さを裂かれた両手首の傷だけで支えなければならないのですから、これ

は激痛どころではありません。  自分の重みで自分自身が下に垂れ下がりますから、

傷口の筋肉は無理に下にと引っ張られ、傷口は益々大きく長く開く筈です。

 

  次に執行人たちは囚人の左足の上に右足を重ね、両足の甲羅に太い釘を打ち込むの

です。  私の推測では釘の長さは少なくとも40糎から50糎なければ両甲羅を突き刺し

て主柱に打ち込めないと思いますし、太い釘でなければ激しい痛みで暴れてのたうち

回る囚人の体重を支えられないでしょう。  両膝の部分は縛りつけてないので自由に

動けるようにわざとしてあります。  こうして囚人は十字架へ架けられたのです。

 

  後は、想像を絶する苦痛の中でジリジリと囚人が弱り、遂に死に到るのを待つのみ

です。  これだけを考えただけでも私たちには耐え難い事の筈です。

 

  釘付けされた囚人の両手首の傷には彼の体重の総てが掛って来ます。  そして体は

下の方に少しずつ垂れ下がります。  激痛を越えた痛みが手首に加えられます。

痛いので暴れますから傷口は益々拡大し、身体は下にと垂れ下がります。  激痛は彼

の全身を走り、脳に達し気絶を招きます。  然し、体重が身体を下に引きずり落とし

ますから両手首に掛る激痛で再び正気に戻ります。  身体中の神経を走る激痛で麻酔

なしの身体はのた打ち回るのです。  その動きが肉を裂き、更なる激痛を招きます。

 

  両膝を縛らない理由がここにあります。  身体を動かせるようにしておいて囚人に

暴れる折りを与え、それによって更なる激痛を加える目的があるのです。  中枢神経

に激痛が走りどおしです。  両手首と両足を釘付けにされた身体は腰の辺りの自由な

部分を中心にして十字架の上で海老のように踊るのです。  気絶と正気との間の往復

が繰り返され、ジワジワと、そして急速に体力を喪失させる残酷な処刑方法です。

 

  極度の、焼けつく炎のような激痛が指先から手首に、そして両腕に、更に脳神経へ

と走ります。  両手首を貫通している太い釘とその傷口は絶え間なく中枢神経を刺激

し続け、正中動脈や静脈の働きを妨害します。  身体の重みで垂れ下がる自分自身と

それから来る激痛から自分を救う為に無意識に囚人は身体を上に持ち上げようとしま

す。  それをする為には、釘が突き刺さったままの両甲羅で自分自身の身体を上へと

押し上げながら、同じように釘が突き刺さったままの両手首で身体を引き上げるしか

方法がないのです。  破られ砕かれた甲羅と手首の中を走る神経に激痛が走ります。

  体力を殆ど使い果たしている囚人には身体を上に引き上げる力は残っていません。

  気絶も出来ない程の激痛です。  やがて両腕は疲れ果て、痙攣が総ての筋肉を襲い

ます。  休む事のない激痛が次から次へと津波のように波打ちながら続きます。

こうして麻痺した筋肉は垂れ下がる身体全体を上に持ち上げる事をしなくなります。

 

  両手首だけで万歳の姿勢で垂れ下がってしまって、自分の身体を上に持ち上げる事

がもはや出来なくなったという事は、空気を吸入する事が出来ても吐き出す事が出来

なくなるという事です。  つまり呼吸する事が出来なくなるという事なのです。

 

  このような状態に陥った囚人は殆ど意識を失いつつあるでしょう。  それでも全身

の力を振り絞って、無意識にでも、自分の身体を上に持ち上げて肺に空気をもう一度

でも吸入し、そして最後の力を出して、肺から空気を吐き出そうとするでしょう。

 

  そのような状態が続くに従い、肺や血流の中には二酸化炭素、即ち炭酸ガスが溜り

始め、これが痙攣を多少は抑圧する事になります。  断続的な痙攣の中にあっても、

殆ど意識を失いかけている囚人は、それでも何とかして身体を上に持ち上げて新鮮な

酸素を吸おうともがくのです。

 

  終わりなく続く激痛に身体をくねらせたり、撥ねたり、もがいたりし、それら一連

の激しい動きが更なる痛みを招き、それがまた身体各所に絶え間のない痙攣を生じ、

そして気絶と仮死状態へと誘い込み、突き刺されて、ずたずたに切り裂かれた手首か

ら肩にかけての筋肉は、それでも固い頑丈な十字架の主柱の上で狂ったように身体を

揺り動かすのです。  絶え間のない上昇気流は囚人の身体の脱水状態を加速します。

 

  急速に身体から多量の水分や血潮が抜け去り、そして最後に近い状態を招きます。

それでも別の新たな苦痛が無意識状態に近い囚人を襲うのです。  垂れ下がった身体

は呼吸困難を呼び、心臓や肺臓に過度の負担を掛け、心嚢には徐々にリンパ液が溜り

始め、それが心臓を圧迫するので肺臓にも深い痛みをもたらすのだそうです。

 

  圧迫されてしまった肺臓と心臓はそれでも何とかもがいて呼吸をし、のろのろで

あっても血液を体内に送り込もうとポンプ・アップを試みるものだそうです。

  極限状態に置かれて今まさに崩れ去らんとする肺臓は、それでも狂気じみた努力を

して、少しでも新鮮な酸素を呼吸しようと最後まで努力をするものだそうです。

  空気を吸い込む時のガーッというような断末魔の音が不気味に響きます。

 

  然し、ずたずたに切り裂かれた肉体に入って来るのはもはや新鮮な空気ではなく、

あの恐ろしい、冷たい死が引き裂かれた肉体の繊維の中に潜り込んで来ているのを感

じるだけなのです。  こうして遂に囚人は死に己を委ねるのです。

 

  朝9時から午後3時までかかってイエスを処刑したとマルコ伝15章25節から37節は

証言しています。  9時に十字架に架けるには、主イエスを朝5時か6時に起こして

準備をさせないと、処刑時間の9時には間に合わないでしょう。

 

  然し、囚人としてのイエスさまは処刑前夜をぐっすりとお休みになったのでしょう

か?  熟睡になれたのでしょうか?  聖書はイエスさまが処刑前夜に熟睡なさったな

どと語っていません。  常識から考えて見ても、また、マルコ伝14章~15章の記録を

読んで見ても、イエスさまが処刑前夜に熟睡されたなどとは到底考えられません。

 

  そうなりますと、朝9時の処刑開始の頃のイエスさまは、もう相当にお疲れであっ

た筈に相違ありません。  そして既に説明しましたような激痛だらけの残酷な処刑が

午後3時に到る迄の6時間に亙って延々と主イエスさまを苦しめ続けたのです。

本当にむごい処刑方法でした。

 

  聖書はこれらの事実を淡々と述べます。  マルコ伝15章24節には『彼らはイエス

十字架につけた』とあり、コリント前書15章3節は『キリストは私の罪の為に死なれ

た』と書きます。  ロマ書5章の中にもキリストの贖罪の死が説明されています。

 

  このように残忍な処刑方法は、盗賊や殺人犯や暴行魔にだけ適用されていたものと

言われています。  それなのに、盗賊ではなくむしろ愛を与え続けたイエスさまが、

殺人犯でもなくむしろ人を生かすお仕事をされたイエスさまが、私たちの身代わりと

なって引き受けて下さったのです。  二人の極悪囚人の間に立てられた十字架の上で

私たちの罪の執り成しをしながら贖罪の死を遂げて下さったのです。

 

  十字架の上で示された主イエスの愛は、何と素晴らしいものなのでしょうか?

それに引き替え、私たちは主イエスの苦悩を理解せず、十字架の痛みなどは想像だに

した事がないというのです。  何と恐ろしく身勝手な私たちなのでしょう。

 

  主の聖餐に与る時、もう一度、この主の十字架の上でのお苦しみを深く黙想してみ

る必要があるでしょう。  主のみ頭の先からみ足の先までを走る激痛を覚えながら、

それが私の罪がなした業だと学ぶ必要があります。  悔い改める必要があります。

 

  黒人霊歌の中に Were you there when they crucified my Lord ? という曲があり

ます。  『君もそこにいたのか』です。  讚美歌II-177  聖歌 400  そうなんです、

あなたと私がそこに居たのです。  そしてあなたと私の罪が、私の手が、あなたの手

が、主イエスの両手首と両足の甲羅にあの太い釘を打ち込んだのです。  何と言って

主にお詫びをしたら良いのでしょうか?  唯ただ罪を悔い改める以外にありません。

 

  『あなたが口でイエスを主と告白し、あなたの心で神さまがイエスを死者の中から

よみがえらせて下さったと信じるならば、あなたは救われる…』とロマ書10章9節は

勧めています。  イエスさまを救い主として心の中にお招きする必要があります。

 

      讚美歌 136聖歌 155、 437 の歌詞を噛み締めながら讚美しましょう。

 

  なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか?  復活されました!  ルカ24:5-6

                          感謝です!  讚美歌  146

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マリアを崇拝するのはうんざりです

肉的十字架だけを見てイエス様を慕うのもうんざりです

エス様の魂の痛みに目を向けたいものです

 

 

我が痛みは肉にあらず霊の痛みならば

 

婦人よ 誰が我が受難を知り得よう?

独り子として生まれ 独り子として逝く人の子

我が悲しみは死を迎えるほどに積もる

それは 何ゆえか?

 

幾千年のみ旨は閉ざされ 神の国はかき消されようとしている

すべてが行き詰まった中で 血の涙を流して祈るゲッセマネ

流浪の道に疲労困憊する弟子たちは眠り

ただ独り 道なき道を尋ねて身悶える

 

父よ 願わくはこの苦杯を過ぎ去らせ給え

ただ御身の悲願の御国が泡と消えぬ為に

 

婦人よ 誰が私の受難を知り得よう?

子羊の婚姻は過ぎ去り 燔祭の羊さえもない

聞け! 我が痛みは肉にあらず

それは 何ゆえか?

 

我が肉は鞭に削ぎ散り 神の威信は地に墜ちた 

捧げるべき何物もない掌は 血の懺悔を流して裂ける

荊棘の王冠に流れ去る血統と ゆがむ顔に隠された

我が魂が裂ける痛みは 人々に見えなかった

 

一つに溶け合っていた魂から 御父が剥ぎ取られゆく痛み

み旨が 音を立てて崩れていく悲しみ

 

我が痛みは肉にあらず霊の痛みならば

肉の痛みは 左右に並ぶ罪人のもの

霊の痛みは父と子の痛み 竜骨よ裂けよ!

人よ 我が霊が父と引き裂かれる音を聞け!

 

我が痛みは肉にあらず霊の痛みならば

 

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 17 誓い
作詞: Yun Young Yang 作曲: Yun Young Yang

1、土より劣る身、汚れ果てし我を
  捨て給わず赦し、死より蘇かし給う
  いたわり育て血の汗流して
  説き給う御言、今ぞ心に奉る


2、知恵なく弱き身、御跡慕いて行き
  つまずき倒るれば、顧み呼び給う
  嶮しき荊の血に染みし主の道
  われ今誓い行く、父の居ます御国に


3、眠りより覚めて、真の御旨知り
  心ただ一つに、御旨の為に生き
  御旨の為死なん、勝利の日来るまで
  御旨受け戦う、共に戦い行かん

 

 


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