原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

統一教を韓国教が変質させ、韓国信徒は血統転換できず、同様に韓鶴子オモニを堕落させた

山本七平は、日本には日本教と呼ぶべきものがあり、外来の宗教や思想が日本に入ってきても、その如くには根付かないで、変質してしまうのだと語られました。

その日本教の特徴の中には、神中心ではなく人間中心だというものがあり、

また、原理原則よりも情況を重んじる節操のないところがあると言うようなものでした。

仏教においても、日本では大乗仏教が中心です。

ところでこの日本的な仏教と、ブッダが説かれた仏教では、かなり内容が違っています。大乗仏教では仏性という言葉が重視されます。如来蔵と関係がある言葉ではないかと言われています。

ブッダは縁起を説かれましたが、仏性は原始仏教には見ることができません。

カトリックもその教義からずれていって信仰している信徒は隠れキリシタンと呼び、

いっぽうカトリックの信仰を維持して密かに生活していた信徒を「潜伏キリシタン」

と呼んで区別している。

我々が隠れキリシタンと通常呼んでいる方は、後者のことです。

 

サンクチュアリの信徒にも「隠れサンクチュアリアン」を自称し誇っておられる方がいるが、これも日本教によって変質した信仰を持っている気配を感じることがあります。

本当の隠れキリシタンは、隠れたくないのに隠れざるを得なかった人たちであり、もし隠れないですむのであれば、直ちに表に姿を現しキリシタンであることを表明したい人たちのことです。

決して隠れることを好む人ではなく、強いられているから止むを得ず、隠れていざるを得なかった人たちです。

隠れるのが屈辱であった人達なのです。

 

長崎「信徒発見」から150年、待ち望むローマ法王来日 | nippon.com から引用

 

大浦天主堂の管理者・諸岡清美氏によると、「信徒発見」の経緯は次のようなことだ。

「キリシタン信徒が、禁教令による250年の迫害の中で、組織的にカトリックの信仰を守り続けたのは長崎だけだった。明治維新前の1858年に米、仏など5カ国との修好通商条約が締結され鎖国が終わると、フランスのプティジャン神父が、大浦天主堂建設のため来日し、1865年2月に天主堂の献堂式(完成式)を行った」

「浦上のキリシタン信徒がこの話を聞いて、天主堂をのぞきに行ったのは1か月後の3月17日。禁教令が続いていたので、信徒は徳川幕府の“罠”だと疑ったが、イザベリナ杉本さんら信徒10数人は『殺されてもいいから』と出かけ、プティジャン神父に会った。女性らは神父を質問攻めにし、最後はマリア様の御像を見て、本物の神父だと確信、自分たちが隠れキリシタンであることを告白した好奇心と信仰心の強い女性たちが中心だったからできた」

 進んで隠れたいサンクチュアリアンと、進んで現れたいキリシタンとでは、信仰観にかなりの隔たりがあります。

マグロとイルカほどに違うのです。

隠れることを誇ってどうするというのでしょうか?

 

さて、日本教に対比して考えられる韓国教というものは、一体何なのでしょうか?

その前に韓民族が選民たる所以の気質とは何でしょうか?

それは、血統を重んじる民族だということでしょう。

我が国は血統を重んじる面はありますが、それ以上にお家を重んじます

お家の安泰のためには、上杉鷹山のように養子を得て、お家の発展を求めることがあります。

人類始祖の堕落が非原理的な相手と血縁関係をもって堕落するという血統問題がそこにありました。

すなわち淫行関係によって神の血統が汚され、反対にサタンの血統を受け継いでしまいました。

そこで、韓民族は血統を重んじる神の期待される民族として形成されました。

 

ところが、この「血統重視」というのは、再臨主が降臨する前には、

「一族繁栄主義」という自己中心的な氏族エゴイズムが中心でした。

両国の時代劇を比較すると、

主従関係が韓国ではかなり契約的色彩が強いもののように感じられます。

率直に言って、自分の一族の繁栄に役に立つからこの人を王として擁立し仕えるという、日本人には理解し難い「利害関係と契約」により結ばれた主従関係であり、王と家臣であるように見受けられます。

したがって、我が一族の繁栄にとって益なしと判断すれば、別の人物をいくらでも立てれば良いということになります。

一族の繁栄のためなら、嘘をつこうが騙そうが、人を殺そうがお構いなしになります。

お母様も名家になりなさいと言われます。

 

「韓国がタブーにする 日韓併合の真実」を書いた韓国がタブーにするを書いた崔基鎬

氏は言う。

 

 

韓国がタブーにする日韓併合の真実

韓国がタブーにする日韓併合の真実

 

 

 李朝時代を通じて、多くの小説が著された。これらの小説を読むと、主人公は正義の人であっても、つねに高い官職家門の栄達を求めて生きている。あの時代だから、李氏朝鮮でも、日本でも勧善懲悪の物語になるが、日本の代表的作品である忠臣蔵のように、公のために家や個人が犠牲になったという物語が一つもない

 李氏朝鮮では、国とか、国王のためといっても、実をともなわない美辞でしかなかった。

 韓国では、今日でも蔑もうとする時に、「一族を滅ぼすやつ」(イルチョクウルミヨルハンノム)というのが、相手を罵倒する最大級の言葉となっている。

・・・・「族譜から抜かれた奴」(ジョクプエソバジンノム)という言葉も、人間として値打ちがない、屑のような奴だと、決めつける悪口だ。

 

 

本来であれば、韓国人の長所である「血統を重んじる」気質は、再臨主が神の精子、真のアダムの精子をもって降臨された、真の父を中心とする一つの血族になるために準備されなければならなかったのです。

そのためには、血統を一族繁栄至上主義から脱却して、真の父の血統に血統転換しなければならなかったのです。

ところが、依然として、自分の一族にポジションを優遇し、職を斡旋し、金が落ちるようにする、堕落世界の一族の利害に奔走する信徒が続出し、数十年に渡るおびただしい愚行は、韓国信徒の伝統として確立させてしまったのです。

 

選ばれし韓民族の天理と天運を破壊する行為はもはやどうあっても償うことができない所まで来てしまっている。

すなわち、韓国信徒は血統転換と心情転換に失敗したのです。

残された希望は、在日の同胞やアメリカなどの同胞が伝統を確立することでしかない。

 

最終的様相を表したのが、お母様による「独生女」と「韓氏を誇る」一族繁栄至上主義でした。

お母様も、金孝南堕落訓母の口車に乗ってしまい、

文氏の血統・血族と韓氏の血統・血族を天秤にかけ量って

我が血族こそはメシアである私を生んだ最も偉大な一族だと考えるに至ったのです。

 

これが、統一教が韓国教によって歪められ

お父様の権威よりお母様の権威の方が上であるという

主管性転倒がありとあらゆるところで起こった。

 

そこで、お父様の権威に戻るための祝福が必要になったのです。

 

お父様の血統に転換されることを信じなかった多くの韓国信徒。

それ故、心情転換できなかった付けが

家庭連合をあらゆる点で呪縛しているのです。

 

 


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