篠原常一郎という元日本共産党員がこういった話をしたと言う。
その起源は日本共産党にあったのだと詳しく話されたそうだ。
わたしは韓国系山口聖殿やそこに結集する日本人も何かそれに似ていると感じている。
韓国系聖殿が日本にあってもいい。
だったら韓国人を伝道しろ!
だったら民団を伝道しろ!
何故、そうではなく日本人なのか?
日本人を奴隷にするためか?
我々日本はどれほどただ王と王国のために忠誠を捧げたことだろうか。
我が国の忠誠は身を滅ぼそう家庭を壊そうが王と王国を立てる。
だが、彼の国は王と王国よりも一族の繁栄を望む。
一族の繁栄を保証し利益が見込める王であれば支持し支えるが、
そうでない王だとわかれば自分たちに都合のいい王にすげ替える。
我が国とは忠誠の意味が違う。
彼らには神が愛する「血統を重んじる伝統」がある。
だから、一族を何よりも愛した。
だが、本然の世界では一族の血統ではなく、
神の血統を尊ぶ、神の血統を受け継ぐ方がメシアであり、
その方の血統を重んじる訓練として一族を愛してきたのだ。
ところがこの転換ができず、堕落世界の伝統を丸呑みして、堕落の血統を愛し、
家庭連合は内部から滅びた。
一体どの子女様が後継者になったら自分に優位になるだろうと考える日本人がいるだろうか?見たことも聞いたこともない。
彼らは堕落の血統は重んじたが、神の血統は軽んじた。
王様が新しい清平を築いていく。
韓国のそれはソロモン王の神殿のように崩れるだろう。
堕落した韓国と日本が一体化すればサタンが入る。
本来の位置と役割から逸脱した韓国教会と一体化すればサタンが入る!
浦川がザビエルを語り山口に最初の教会が建てられたと持ち上げた。
かってわたしの学生教会ではザビエルが兄弟に降りて語り始めたことがあった。
彼は多くの人を伝導したが本当の心情関係を結べたのは二人だけだったといい、
その後孫だからわたしはこうして協助することができるのだと言った。
その天下のザビエルは自分は天国にはいないと言った。
薄暗い夕方のような霊界に住んでいると語った。
待合室だよ。
宗教改革は実質的にはルターのときだった。
1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会、ヴィッテンベルクの城内に95ヶ条の論題を打ちつけた。これが、一般に宗教改革の始まりとされる。この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。この批判はグーテンベルクの活版印刷術によりまたたくまに各地に拡大し、ローマ教皇に嫌悪を抱いていた周辺の諸侯、騎士、市民、農民を巻き込んでドイツ社会に影響を与える(これよりルネサンスと宗教革命が大きくかかわっていたことが分かる)。
当初ルターに新宗派を創設する意思はなく、あくまでもカトリック教会内部の改革を望んでいたのだが、対立は先鋭化し、1520年には教皇レオ10世はルターが自説の41か条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒絶。1520年12月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼いた。
これを受けて1521年にルターは破門され、ここでルターはカトリックと完全に絶縁し、新しい宗派を立てることとなった。1521年4月、皇帝カール5世はルターをヴォルムス帝国議会への召喚を行ったが、ルターはここでも自説の撤回を拒否し、両派の分裂は決定的なものとなった。このとき「我ここにたつ」と言ったことで有名である。こことは聖書のことであくまで聖書中心主義だという姿勢を揺るがなかった。
同年5月25日に発布されたヴォルムス勅令により、ルターは法の保護外(帝国追放)、つまり何をされても法によって守られることがない状況に陥ったが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世にかくまわれ、ヴァルトブルク城で1年余りを過ごすことになる。ここでルターは新約聖書のドイツ語訳を完成させ、このルター聖書は、後のドイツ語の発達に大きな影響を与えたとされるほど広く読まれることとなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9
復帰原理の基本を知らずに講義することはできない。
宗教改革以後、
カトリックはカインでサタン側である。
では、ザビエルはいつ日本に来たのか?
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した[注釈 4]。
一行は明の上川島(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
ほとんど溺愛に近いほどだ。
何故だろう?
ルターを中心にプロテスタントとカトリックが決定的な分裂に至った1531年4月から30年後山口をザビエルが布教に来ている。
山口聖殿は現代の大道寺だと浦川は絶賛したわけだ。
呆れて物が言えない。
有難がっているならなお摩訶不思議だ。
聖霊を口にする人にはよく注意すべきだ。
韓氏オモニに日本を捧げるかもしれない。
ザビエルが日本を聖母マリアに捧げたように。
ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった[注釈 6]。ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。
これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師ロレンソ了斎となった。
一郎さんは何故、横浜バンドや熊本バンドや札幌バンドを話すのか?
日本のキリスト教会はこの三大バンドから出発したからだ。
横浜バンド(長老改革派)
熊本バンド(組合派)
札幌バンド(メソジスト派)
熊本には新島襄の相手がいる。
その人はカトリックの悪霊界を九州から追い出さないといけない。
1859年10月、アメリカ長老派教会のジェームス・カーティス・ヘボン夫妻と1859年11月にアメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ロビンス・ブラウンが神奈川に、同じくオランダ改革派の1861年11月にジェームス・ハミルトン・バラが横浜に着いた。しかし、キリスト教が禁止されていたために表だった伝道はできなかったので、日本語を習得して塾を開き、日本人青年を教育した。
ブラウン門下からは島田三郎・植村正久・押川方義・井深梶之助・本多庸一・熊野雄七・山本秀煌・奥野昌綱などキリスト教会で活躍した人材を輩出した。1864年にバラに日本語を教えていた矢野元隆が洗礼を受けた。
1871年年末から翌年第1週にかけて、横浜在住の外国人が福音同盟会の提唱する初週祈祷会を開き、1872年最初のプロテスタント教会が横浜に設立された。
同じ日に押川方義、篠崎桂之助ら9人がバラ宣教師から洗礼を受けた。この9名と以前に洗礼を受けていた2名の会員11人で、バラを仮牧師として教会は始まった。この日本初のプロテスタントの教会を日本基督公会といい、この集まりは横浜バンドと呼ばれる。この公会は純粋な福音信仰に立ち、無教派主義をとったとされているが、まったくの無教派であったわけではなく、改革派教会と長老派教会の合同した教会である。このプロテスタントの精神は後に加わった植村正久によって受け継がれた[1]。またこれは公会主義として日本の合同教会で理想化されることになった。
私はヘボンの流れと背景を持つ者だ。
今やカトリック、イエズス会の謀略を多くの保守系日本人が知ることになった。
日本人をヨーロッパに連れて行って人身売買した。
そうしたことに憤る日本の保守にザビエルがどうのと言ってみろ。
「この反日野郎!」と言われるだろう。
だから、原理を自由自在に応用できないといけない。
そして、
「悪党のカトリックと戦ってきたのがプロテスタントで、その流れに現れたのが、
われわれサンクチュアリです。」とはっきり神とサタンを分別して言ってやれ!
魂を売った兄弟たちよ!!!日本人って韓国所属 - morison30000のブログ