原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

聖霊や霊性について語る時には

統一原理では中心は何か?ということを重視しています。

歴史的には主流は何か?という話になります。

旧約聖書の時代では勿論ユダヤ教が主流です。

新約聖書の時代に移るとキリスト教が主流に替わっていきます。

エス様が十字架の道を行かれてからはペテロから始まるカトリックが主流になりました。

ところが、ルターが現れて宗教改革が行われ、カトリックからプロテスタントに主流がとってかわりました。

再臨主文鮮明先生をキリスト教会が受け入れなかったので、やむを得ず統一教会が作られることになり、プロテスタントからやはり主流が移行しました。

 

心霊と真理が漸次高められてきたということですから、

旧約時代の御言葉 ⇒ 新約時代の御言葉 ⇒ 成約時代の御言葉

に対応して、それぞれの御言葉を理解し得る心霊に、心霊の側も発展して来たということでした。

旧約の心霊 ⇒ 新約の心霊 ⇒ 成約の心霊

 

ところで、サンクチュアリの信徒には隠れキリシタンに関心が深い方が結構おられるようです。

特に指導者の方に多いようです。

自分の故郷の歴史や日本のキリスト教の歴史に関心をもつことは悪いことではありません。

しかしながら注意も必要です。

われわれがその霊界にははまってしまわないためにです。

 

カトリックプロテスタントに比べると律法的な色彩が強いので、旧約に近い側面があるように思われます。

儀式や形式を重んじます。

隠れキリシタンカトリックの信仰が変質した、キリスト教とは関係がないものとされてきます。

母性的な神を求めた遠藤周作の「沈黙」という作品がありました。

いわば日本教によって変質したキリスト教です。

カトリックによって公認されている信徒は潜伏キリシタンと呼ばれ区別されています。

いずれにせよ、キリスト教歴史の主流が現在ではプロテスタントということですが、

ウェスレーが聖霊体験をして、救いが善行の積み重ねからではなく、キリストを受け入れることによってなされるという確信を得ます。

これを彼の日記などから賀川豊彦なぞが相続して、翻訳され、日本キリスト教会に普及していったのではないかと思います。

心霊は行義から信義の時代に移行しました。

キリストによって照らし出される「私」を意識し問題視する生活ですから、神やキリストによる導きによる悔い改めと感謝の生活がそこにあります。

清らかな生活です。

ホーリネス教会などは、「聖化」ということが信仰生活の中心です。

確か「ローマ人への手紙」に由来したかと思います。

大雑把に言って、

パウロ ⇒ ルター ⇒ ウェスレー ⇒ 福音派やウェスレー教会など

という風にキリスト教の心霊と言いましょうか。

その伝承がありました。

一方スウェーデンボルグは、キリスト教の霊性を探求したようです。

鈴木大拙は40の時に神智学に傾倒していたベアトリス・レインという女性と結婚していますが、おそらく日本的霊性を考えるきっかけになったのでしょう。

 

さて、われわれ統一食口が先ず学ぶべきは、隠れキリシタンではありません。

われわれが神の復帰摂理上の後継者であるためには、特に新約の信仰に現れてきた心霊を学び相続することが何よりも重要になってきます。

主流や本流以外に求めても何もならないからです。

特に家庭連合では新約の信仰の理解が欠落してきました。

ですからわれわれは一旦新約の信仰を振り返って見る必要がありました。

本流の信仰を相続してさらに成約の信仰に進むためでした。

実際にはこれが充分にはなされませんでした。

 

ポルトガルなどの宣教師によって日本は伝導され、セミナリオが建立され、そこで教育を受けました。

カトリックには聖母マリア信仰があります。

エス様はマリアと共に描かれる時は、マリアによって抱かれる力ない存在として表現されるかのようです。

日本では観音信仰がありました。

観音様がマリア観音に成り代わりました。

遠藤周作の「沈黙」は母のような女性神像を神に求めています。

異教の信仰でした。

 

われわれは同じ道を歩むことはできません。

既に本流で亡くなったカトリックやそのカトリックからもずれているキリシタンの信仰に傾倒することはできません。

ただ、時代的恵沢の恩恵に与ることができなかった中で、彼らが果たされた信仰姿勢には学ぶべきものもあるでしょう。

だが、信仰観はまったく異質の世界であることを肝に銘じなければならないことでしょう。

 

聖霊についても、本来は必要がありませんでした。

エス様が子羊の婚礼をすれば、イエス様の妻が聖霊に実体になるはずでした。

それができなくなったので、やむなく聖霊というような、霊的な存在でイエス様の相対として、人々を罪の籬から生み変えて蘇生する存在が必要となりました。

そういうわけで、聖霊の役割は再臨主の相対者が誕生するまでとなります。

韓鶴子オモニが失敗して、ヨナ様が真の母として延長路程を歩んでおられます。

 

聖霊という時には、

神であられる天の父の神聖な霊や真の父の神聖な霊なのか?

エス様の相対として再臨主が降臨されるまで歩んでいた霊なのか?

まあ厳密には今もクリスチャンには働かれているかもしれませんが、

基本的にはどちらのことを指して語っているのか定義をはっきりしないといけないことでしょう?

 

率直に言って、後者の意味では現在我々にはさほど意味が無いように思われます。

キリシタン好きの食口がカトリックに無意識的回帰をするのも、

プロテスタントに関心がある食口が度々聖霊を口にしてプロテスタントを回帰するのも、主体対象関係が逆転しないように注意する必要がありそうです。

 

 


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