西郷が逆賊で終わらないためには、どうするべきだったか
www.youtube.com より引用
日本を変えたリーダーたち 西郷隆盛 (2012年)
Follow My Heartさんが、かってちゃぬさんのブログから引用したアボジの御言葉があります。
西郷隆盛について語ったものです。
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『西郷隆盛が忠臣ですか、逆賊ですか? おい、聞いているではないですか? 知らない? 知らなければ知らないと言わなきゃ。逆賊です。彼を忠臣だったのに逆に立て、自分の歴史を裏にしておいて正義の旗を掲げて、アジア圏で日本が一番だ!と。日本が一番だというのはが何ですか? 日本のものは韓国から渡って行きました。仏教も韓国から渡って行ったのです。文化も全部...。明治以前までは名前もなかった野蛮民族です。姓(苗字)もありません、姓。そう、明治天皇は写真を見ると、顔の一方の面しか写真がないという事実を知っていますか?日本の歴史の秘密を暴露すると、人ではありません。 人道主義世界では、共同墓地に生きたまま埋められなければならない輩たちです。』
(「文鮮明先生御言選集」455巻より)
『九州では、日本の有名な人物が出てきたのです。西郷隆盛も九州で生まれたのです。日本の有名人は、九州で生まれたのです。』
(「文鮮明先生御言選集」487巻より)
『だから広く考えて西郷隆盛が出てくることができたのです。その人は、政府の敵でしたが、日本民族の精神の中で悪いことを収拾するために忠臣ではなかった人を忠臣に装飾しようとして上野公園に銅像を立てて、日本民族が崇拝されるようになったのです。その内容を知って尊敬しなければなりません。』
(「文鮮明先生御言選集」453巻より)
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西郷は1万数千人の私塾生を何のために育てたのだろうか?
各地で士族が反乱していることを聴いて西郷は鹿児島の辺境の温泉地に身を潜めた。
当時の手紙には、
「今鹿児島に帰ると若者たちを刺激し、蜂起の旗頭にされる恐れがある。しばらくは自分の挙動は人に見せず、身を潜めていよう。」
ところが、思わぬ自体が起こった。
鹿児島の士族の動向をスパイするために政府は20人以上の斥候を鹿児島に派遣していた。私塾生は彼らを捉え、拷問しその目的が西郷の暗殺だと自白させた。
明治10年2月1日 私塾生 蜂起したことを西郷に告げる
西郷 「しまった」
「何故弾薬など盗んだのか?弾薬に何の用があるのか?」
決起5日前のことだった。
2月3日 西郷は急いで城下に戻る
私塾校の幹部は西郷に反政府の旗頭になることを希望した。
政府は各地に起こった士族の反乱を厳しく鎮圧していた。
私塾生は重罪に処せられるのは見えていた。
2月6日 私塾校の会議で
強硬派は西郷の暗殺まで企てた政府の罪を問う為挙兵すべきとした。
慎重派は私塾校の目的は内乱を起こすことではなく、日本を外国の侵略から守ることだとし、少人数で上京し政府に詰問すれば良いとした。
そこに、強硬派の一人がこう言った。
「おまえは死ぬことが怖くて今のような議論をするのか?」
この言葉に表されている薩摩の心意気を否定することができない空気が醸造され、
賛成の意見に沸いた。
西郷の決断を皆待った。
「おはんらにやった命、おいの体はさし上げもうそう」
以上は、西郷が立ち上がった背景を、Follow My Heartさんのブログで紹介されている番組で説明されている蜂起の背景だが、
私の考えでは、ここで西郷は判断ミスを犯したのだと思う。
西郷は自分が育てた1万三千の自分の子供のような侍の命を守るべきだった。
先に使いを都に送って、単身あるいはいくらかのお供をともなって、江戸に行き事の顛末を詰問して、もし咎めが私塾生に及ぶことが避けれれないと政府が言うなら、
その時こそ、政府に向かって、自分の刺客を打ち取り、自分を守るため弾薬を奪ったのであるから、私塾生の身代わりに
「おはんらにやった命、おいの体はさし上げもうそう」
とここで言うべきであった。
私塾生には蜂起するものは、一切わたしとは関係がないと言い放っておくことも必要だったろう。
逆賊にならない道は、まさに命も名もいらないこの道以外にないのではあるまいか?
西郷は、私塾生まで逆賊にしてしまった。
犬死させてしまった。
外国の脅威に対抗するための明日の日本の国を守る貴重な命を虚しく散らせてしまった。
彼の選択は大逆徒の道だった。
最後が問題なのだ。
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