原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

キリスト教的正直を捨て 儒教的正直の文化をつくる家庭連合

ケント・ギルバートの本に「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」という本がある。

日本人も渋沢栄一のような論語を軸に経世済民に実績のある人もいる。

儒教の何がいけないというのだろうか?

 

 

この本の中で、論語の一節が紹介されている。

 

葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾(わ)が党に直躬(ちょくきゅう)なる者有り。其の父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証せり。孔子曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。

論語の講義』諸橋轍次著 大修館書店 P300

 これは次のような話です。葉という県の長官が、

「私の村の直躬という正直者は、父親が羊を盗んだのを知って、子供なのに訴え出ました」

 と孔子に話しました。すると孔子は、

「私の村での正直とは、この事例とは違います。父は子のためには罪を隠してかばい、子は父のために罪を隠してかばうものです。この罪を隠すことのなかにこそ、正直の精神があるのです。」

 と諭したというのです。

 中国では、孔子以前から祖先崇拝の精神が強く伝えられ、その家族愛や信義などを孔子が『論語』にまとめました。(正確には孔子の弟子たちが編集しましたが)。この精神は脈々と受け継がれ、中国大陸の十数回に及ぶ「易姓革命」や、封建的な伝統文化のすべてを悪と決め付け、破壊しようとした「文化革命」という逆風の中でも生き残ったのです。

 その一方で、「仁・義・礼・智・信」といった道徳心や倫理観は、文化大革命の影響で、最終的には完全に失われてしまったのです。

 先ほど述べた「公(おおやけ)」よりも家族愛を上に置く価値観を突き詰めていくと、結果的に「公」よりも「私(わたくし)」を重んじる方向へ向かいます。それは「私」や「一族」の利益のためなら、法律を犯すこともよしとする風潮へと変化していったのです。

 

ケント・ギルバート氏は弁護士なので、面白いところに目が止まるものだ。

中国ばかりか、韓流の時代劇では、一族の繁栄こそ善だという意識が朝鮮人には多分にあることが分かる。

王でさえも裏切ってでも一族の繁栄のため生き延びていくのが朝鮮のドラマに出て来るテーマである。

なるほど、孔子様もこのようなことを語っておられたのか?

実際、儒教の価値観では「孝」が最高価値であろうから、

「孝」より「孝」の方が上位の価値であるはずである。

そこからすれば、孔子のような考えが出てきて、儒教文化圏に大きな影響を与えてきたのかもしれない。

 

陸続きで小中華を目指してきた朝鮮とは違い、儒教の階級制度よりもそれが教える精神の普及のほうが少なくとも我が国においては重要視されてきた。

君子という為政者やそれを補佐する役人たち、国のリーダーに対する心構えや日常の態度を孔子は問いてきたが、日本においては寺子屋などで一般平民が人としてこぞって学ぶべき教えとして受け止められ普及してきた。

このことは儒教が歪められて伝えられたとも言えるかもしれないが、日本人の民度が大きく底上げされる契機となったことであろう。

今話題のナッツ姫や水かけ姫を見ていると、両班とそれが抱える奴婢の関係に、大韓国空の支配者と社員の関係の類似性を見る。

明心宝鑑には、人に接するに貴賎によって差別することなかれとある。

 

さて、家庭連合では、韓鶴子文鮮明再臨主の御言葉を改竄しまくり、天の父と真のアダムの文化を破壊し尽くしている。

そして、教会成長研究院は、韓鶴子オモニの罪を隠すことが正直者のすることだという体たらくを露呈して、儒教の誤りそっくりである。

もはや家庭連合にはユダヤキリスト教を継承する本流としての法意識が欠如している。

統一原理による善悪分別ができずにいる。

御父様はオモニの過ちを指摘しなければならないと語ってきた。

それ故に追放されたとしても、忠臣かどうかは死ななければわからないという天聖経の御言葉を実践したことになるので名誉なことである。

 

西洋のキリスト教文化圏の国々では、正義とは法による秩序の維持であるが、

我が国の歴史的な正義感は錦の御旗の言葉のごとく、誰に就いているか、誰に従っているかで決まる。

韓鶴子は歴史上最悪の犯罪者になった。

神が壮絶な苦労の末に得た祝福家庭を罪人に変換させてしまったからだ。

 

 


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