堕落論 第四節 自由と堕落 ルターに学ぶ 統一信徒の自由とキリスト教徒の自由
ルター著作選集の「キリスト者の自由について」を参考に考えを巡らしていきます。
1520年に書かれた「キリスト者の自由について」は30の考察によって表題の意味を解き明かそうとする試みである。30というのだから、さすが哲学の国ドイツのルターだと感心させられる。我々凡人には思いもよらない数です。
だが、残念なことに、目次のようなピラミッド・ストラクチャーになっていないので、現代人の私たちにはひとかたまりずつは理解しやすいが、全体の関連性が一目瞭然というわけにはいかない。
少々失礼な言い方になるかも知れないので、北森嘉蔵の「愛における自由の問題」という本の「15 『キリスト者の自由』の内容」に弁護して貰うと以下のようになるので、読まれる方は参考にすると良いかも知れない。
私自身はそのように深く意識して読んだわけではないが、やはり第一と第二に心が止まった。恐らく多くの人がそうなのでしょう。
これは全部で30節からなっています。それは次のように分けられます。
まず第1と第2節とは、総論であります。最後の第30節は結論であります。中に本論がはさまっているわけです。つまり、第3節から第20節までが本論です。
この本論がまた明瞭に2つの部分に分かれます。先ず第3節から第18節までは、この書物の題のとおり「キリスト者の自由」について述べております。次に第19節から第29節までは、明らかに第2の部分になりますが、これはむしろ「奉仕」について述べています。
30節は結論です。
ルターは言う。
「キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。キリスト者は信仰によって自分自身を超えて神の中に至り、愛によって再び神から出て自分自身の下にまで至り、しかも常に神と神の愛のうちに留まりつづける。」
つまりイエス様が律法の中で一番大切なことを、
神を愛することと隣人を愛することの2つに要約されたことを受けて考察されているわけです。
愛神愛人です。前者を信仰、後者を愛と対比させることがあります。
ここでは前者を信仰(動機が神であり信じて義とされる信仰)、後者を奉仕(行って義とされる律法)としているわけです。
さて、ここでは基本的な主張の文章のみを拾い上げて、キリスト者の信仰が旧約時代の信仰とどのような相違があるのか押さえていきたいと思います。
ではどのような文章から始まるのでしょうか?
第一、キリスト者とはなんであるのか、また、キリストがこれに獲得して与えてくださった自由とは、どのようなものであるか、これについて聖パウロは多くのことを書いているが、私たちもこれを根底から理解できるように、私は次の二つの命題を掲げてみたい。
キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない
キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する
この二つの命題は明らかに、聖パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰ 第9章[19節]
に「私はすべてのことにおいて自由であるが、すべての人の僕になった」と言っており、同じく、ローマの信徒への手紙13章[8節]に「お互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても負い目を負ってはならない」といっているとおりである。ところで、愛とは、愛している者に仕えて、それに服するものである。それはキリスト者についても同様であって、ガラテヤの信徒への手紙4章[4節]に、「神はみ子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになった」とあるとおりである。
太字の部分が主人意識やサーバント・リーダーシップに関わるルターとパウロ主張です。真のお父様はこれを「父母の心情、僕の体」と表現されました。
自由について考える前に、ここでは別の重要な事が説かれていますので、少しだけそのと事についてお話ししたいと思います。その部分とは、
ローマの信徒への手紙13章[8節]に「お互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても負い目を負ってはならない」といっているとおりである。
わたしがここに注目するのは、正しい判断をしなければならない時に、自分に尽くしてくれた人に人間的な情に流されやすいからです。すると天的な立場、全体の立場で物事を見ずらくなります。無意識に尽くしてくれた人に有利な立場で見てしまいがちです。これが問題だと思うのです。
真の御父母様、真の御家庭、真の御子女様・・・
こうした方々から尽くされることは大変な栄光です。
しかし、そのことによってわれわれ未熟な者が父の御心によって判断することを、知らず知らずに離れてしまうことがあるのです。
これが問題です。
そこでわたしは、直接お父様に侍られる人ほど、真の御家庭に愛の負債を持たないよう気をつけるに越したことはないと思います。
孝進様の御家庭に縁があり尽くされた者はそこに立つでしょう。
顕進様や亨進様あるいは善進様の場合も同様でしょう。
するとこのような栄光がかえって父の心に立てない障害となることがあると思うのです。
お母様にたいへん愛されてきたヨナ様がアメリカに来られたお母様にお会いしてご挨拶がしたくても、天の愛で愛する時には会っていけないときもあるのです。
永遠にして絶対なる愛で愛する為なのです。
ですから還暦に日にお母様にプレゼントされた時計を久保木会長にあげようとされたお父様のように自分の祝福に止めておかないで、祝福に相応しい功績を上げるであろう者に差し上げてしまい、愛の負債をもたないことが一番なのです。お父様においてさえそうです。一度心情を受けとめ味わったものが、素晴らしいものであればあるほど、すべての食口と味わいたい、公的にして全体に善の繁殖、喜びの繁殖をしたいという父の御心があるのです。
受け取った贈り物を失った父であるのに、心情が湧き上がるように
久保木は日本の代表なんだねと言われて贈り物を受け取った会長だけでなく
実際には受け取らなかったのに、受け取ることができましたと
心情が湧き上がる者は幸いなのです。
國進様が弟の亨進様が父にこよなく愛されているのを見て、自分に対する父の愛を見出され感謝される心情がそれです。
最も尊く価値のあるものを無償で差し上げたいという押さえがたい衝動が心情だからです。これならあげてもいいだろうというようなこの世の天秤にかけられることがありません。
心情というのは何ものによっても拘束されることがなく、振り回されることがありません。絶対主体に立っているからです。
自分が何かによって影響を受けると言うことは、それを主体にして私は対象ですと言っているようなものです。これではいけない、これでは不自由だとお父様は全生涯をもって我々に訴えかけてこられるのです。
そのような観点に立って考えてみる時に、
本然の自由とは何ものにも拘束されない性質のものです。
つまり、至福という絶対価値を追求し実現する押さえがたい絶対主体としての意志が自由です。
肉に捕らわれません。
霊さえも捕らわれません。
何故なら神の子たる人間は霊的存在である天使以上の心情的存在だからです。
ですから霊を超えられなければ、霊的存在である天使を主管する事ができないのです。
この点を胸に納めてルターの言葉を見ていきましょう。
第二、自由と奉仕とについての、互いに相反するこれらの命題を理解するために、私たちは、全てのキリスト者が霊的と身体的という二種類の性質を持っていることを記憶しておかなければならない。魂の面では彼は、霊的な新しい内的な人と呼ばれ、血肉の面では、身体的な古い外的な人と呼ばれる。この区別のゆえに、私がいま自由と奉仕とについて語ったような、はっきり相反することが、聖書においてキリスト者について言われているのである。
説明は不用でしょうから、ざっくりまとめて、成約の対応するものを書くと
旧約時代 肉 律法 行い(奉仕)
新約時代 霊 福音 信仰
成約時代 心情 血統 孝侍(孝心をもって侍ること)
血統とは勿論神の血統です。これによって実質人は神と親子関係になるからです。
肉というのは最高の動物レベル(霊人体を持たない完全肉身)
霊というのは最高の天使レベル(天使長レベルの霊性)
心情というのは神の実子レベル(神の血統と心情の継承者)
養子というのは僕と実子の間です。
別の言葉で言うと、イエス様は神の祝福を得た婚約期間にあったのかも知れません。
それが養子という表現に当たるのかも知れません。
機会があれば別の時に考えてみたいと思います。
若い頃に伝道した人がありました。
その方は正直な人だったので、自分が良い行いをするように努力したけれども、行い事態は正しいことなのに、その行いに心が必ずしもついていけない自分を知りました。ある時そのような自分はもしかしたら偽善者ではないかと思うこともあり大変悩みました。そこで私という人間は信仰には向かないのだと思うようになったと言います。
行いは正しいのに、依然として心の動機は清まらないのです。
律法を頭で理解すると、「Must」という声が頭の中で聞こえます。
~すべきです、~しなければならない。
あれもこれもみんなこうすべき、こうしなければならない。
心が張り裂けそうです。
ところが、キリストが他ならぬ私のために十字架にかかって血の代価を流して贖罪して下さったと、情的に了解すると、その愛が深く感じられれば感じられるほど、御心に報いたいと、強制的・隷属的にではなく、自発的に「Want」という声が心の中で起こります。
~したい。
これが自由です。
律法というのは法則です。冷たい血の通わないもので、自然界の法則と本質的には変わりありません。
パウロは律法に対して契約とか約束という言葉を新約に用いています。
法が強制的であるように、神と人の関係は主従関係で、主人と僕です。
ところが約束というのは人格的な関係です。
そこで、強いるというのではなく、神によって愛されることに応えて自発的に愛に報いたいと願い、それを表現するに相応しい行為をすることになります。これが奉仕です。
そこでわたしは堕落性本性をさらに細分化していろんな例を挙げて実行しようとしても無駄だというのです。
頭で信仰し律法に生きようとするので限界が来るのです。
堕落性本性ですら神の立場のみに集中した方が克服しやすいと思うのです。一心です。
年輪に喩えると、幹の外輪に律法があり、内輪に契約(約束)がありました。ところがよく見ると契約のさらに内側にもう一つ芯がありました。これが血統です。
律法は肉に対応し
契約は霊に対応し
血統は心情に対応しています。
パウロもルターも肉を捨てて霊を得る。
あるいは霊によって肉を得るという立場です。
しかし、我々は違います。
霊さえも捨てて心情を得る。
あるいは心情によって霊肉を得るという立場です。
お父様の家系を振り返ってみましょう。
有名な文潤國という方がおじいさまのご兄弟におられます。
この方はどのような方だったでしょうか?
日本に併合されていた祖国を解放し独立するために歩まれた方でしたが、自分の私財はおろか家族や氏族の財産を盗んで国家の光復のため捧げられた方でした。そのことは語られなかったので、親戚中から大悪人として誹謗中傷を受け、名誉も何もあったものではなく罪人の頭のように認められ、活動の中野ざらしに息絶えた方です。
他人から盗んだのではなく、血が繋がる氏族に同じ心で祖国復興のため身を削ってほしいとの一心で、外的には非道の輩として身を隠されたのです。誰よりも国を愛する思いを持ちながら、墓に眠ることすらできず奔走された国士でした。
身を捨てて、極悪人として霊さえも捨てて、祖国に心情を捧げられたのです。赤の他人に犯罪者扱いされることも生きた心地のしない道であるのに、血を分けた氏族に犯罪者扱いされる道を選んで、彼ら一族が功労を積み福が与えられるようにされたのです。
盗んだ事情を話せば、彼らが危険にさらされることを思ってそれを回避するために、ご自分は天下の大悪人として生きる道を歩まれたのです。
地位も名誉も財産も何もいらないどころか、
犯罪者として葬り去られ晒し者として野に果てていく。
このように霊を超えて心情に生きる文家の代表的精神は
お父様を誕生させました。
ダンべリーに罪人として身を隠されて
アメリカの将来に福を与えられ心情の境を証されたのです。
先日、このブログ記事の「四位基台の破壊と四位基台の奪還」という記事を御覧になったKimie様よりあるご質問を受けた。
その時、ずっと頭の片隅にあった「キリスト者の自由」が動き始めた。
そこで、上記の質問の回答の中で、
異端者・爆破者と受け取られかねない情況の中で、敢えて全信徒の前に身を晒して、
お父様の書かれた色紙の同文ともう一つ、「真の父母様、私が異端者・爆破者であるなら、どうぞ裁定してください」などと書かれた色紙を一緒に首にぶら下げて帰ってくれば良かったのですと言いました。
私は心情というのは、自分が絶体絶命の窮地に立った時に、保身の道を行くのではなく、むしろかえって窮地のただ中に進んでいく時に湧き出るものだと思うからなのです。
だから、お父様は天宙復帰を神さまに誓った公的な身でありながら、そんなこととは夢にも知らないでいる通りすがりの食口のために見捨てることもできず、見過ごすことともできずそこで為し得る限りの至誠を尽くされます。
ダンべリーに行く時も、私が罪人であるというなら私を打ってみなさい。そのことによってかえってアメリカを神の祝福に導いてあげるからと、罪状を首にぶら下げて行かれたのでした。
天の父がそのような道を許諾されるなら、天父と一心で参りますといって行かれるのです。
お母様に米を買いにいくといったはずなのに、妻に一言も理由を語らず、ただちに天の父と共に北韓に行かれるのです。
一瞬の躊躇も迷いもありません。
神の命令に服するということが強いられたことではなく、御心であるから自分も父の御心の中で一心に生きたいと思われるのです。
そこでお父様はきっぱりと顕進様にも何故ここに来ていないのかとコジャックで言われ、父の元に帰ってきなさいと言うとができます。
米を買いに行くといって出ていった夫が帰って来ない。
そうすれば妻子はどのような試練を受けることになることでしょうか?
窮地の只中に強いられず、自らの思いから進んでいく道を行けば
仲の良い夫婦は別々の道を行くことになるかも知れません。
仲の良い子供たちはバラバラに暮らさなければならないかも知れません。
それは本当に正しいことでしょうか?
それなのにそのような苛酷な道を行かなければならない理由があるというのでしょうか?
あるのです。
ヨブにはそれがわかりませんでした。
ヨブの他にこれ以上に信仰のあるものはないと天の父が認めうる人がヨブです。
奇跡の信仰者です。
そのヨブは財産も失い、体も打たれ、生きていくことが拷問のような有様になり、愛する妻からも神を呪って死になさいと言われ、親友からも信仰を否定されます。
こうして霊肉ともに打たれて暗黒と絶望の恐怖に突き落とされます。
神はヨブをこよなく愛しておられました。
表現する術がないほど愛しておられました。
だがヨブにはそれがわかりませんでした。
ヨブは偉大でしたが、善なる僕の立場で、義なる神さまを主人として愛したに過ぎませんでした。
自分は被造物だが神さまは創造主であられるというその事しかわかりませんでした。
何故なら心情がわからなかったからです。
我々はこのような奇跡の信仰を持つ信仰者さえ知ることができなかった
神の尊く切ない心情を知ることが許されました。
真のお父様が生涯を捧げ尽くして復帰して下さった御言葉を賜ったからです。
そしてお父様の御生涯によって御言葉は実体として証されました。
ルターはパウロの教示をしっかり受けとめて「霊と肉」によって新約と旧訳の違いを理解しました。
ウェスレーはルターからこれを学びました。
賀川豊彦はウェスレーからこれを学びというように、
キリスト教信仰は継承されてきました。
肉は旧約時代 律法を表し 律法を行うことをもって義とする 行義信仰
霊は新約時代 福音(あるいは約束だが、約束の場合は旧約にたいする新約) 福音(良き知らせ 具体的にはイエス様は私と人類の罪を十字架によって贖って下さったキリストだということ)を信じることによって義とされる 信義信仰
では成約は?
モーセは肉的十字架、イエス様は霊的十字架、お父様は心情の十字架。
心情とは何か?
お父様は心情は肉を超え、霊を超えたところにあるとおっしゃられているのです。
侍は肉を切らせて骨を斬るといいます。
キリスト教徒は肉を捨てて霊に生きる者のことです。
これに準えて言えば
成約の聖徒は肉を捨て霊を捨てても心情に生きる者のことだと言えるでしょう。
霊肉を捨て、霊肉を超えることがどうして神の心情に生きることになるのでしょうか?
率直に言えば、
神自らが先駆けてそのような道を歩まれたからです。
神のお姿、本性相と本形状。
神の似姿に心も体も造られて誕生したのが
アダムとエバでした。
アダムとエバが神さまと共に暮らす環境世界が与えられました。
神の心に似せて造られた見えない世界が無形実体世界すなわち霊界でした。
神の体に似せて造られた見える世界が有形実体世界すなわち宇宙でした。
これを天宙と呼んでいます。
ここに降りたって住まわれる日を待ち望んでこられました。
インマヌエルです。
神 人と共にあり。
神さまは被造世界で生活されるために、アダムとエバの心と体に住まわれて共に至福を享受されるおつもりでした。
これが人類始祖アダムとエバの霊と肉からなる堕落にによって蹂躙されてしまいました。
神さまの心の拠り所、神さまの生活の拠り所であるはずのアダムとエバを失いました。
神さまは肉を打たれ肉を失いました。
神さまは霊を打たれ霊を失いました。
霊的世界の無形実体世界も肉的世界の有形実体世界も奪われ失い追放されてしまいました。
全知全能の神と崇められながら、手足を縛られ口を塞がれ足かせをはめられ頸木までつけられ地獄の牢獄に繋がれてしまいました。
そのことをたったひとり知った真のお父様 文鮮明 恵父は何よりも神さまの解放とに釈放に心血を注がれました。
神さまの肉身と霊人体が生きることさえ否定された天宙の外の果てで、
神さまの中に、それでも何ものも押し止めることのできない衝動が何かを湧き溢らせて止みませんでした。
それが心情です。
何もない暗黒の恐怖のただ中で、裏切っていったすべての存在を、
裏切る以前にも増していっそう愛し祝福し至福に満たしてあげたいという一心こそ、
お父様が色紙を書かれるお姿です。
お父様は50代の威風堂々たる面影はもはやございませんでした。
しかし、それをボケただの認知症だの言うとしたら、父の心を知らないからでしょう。
イエス様が姦淫の女を許すのと何ら変わりがないのです。
罪を問うのではなく、救いを与えられるのが救世主です。
われわれの至らなさは充分にご存じです。
1)イエスはオリブ山に行かれた。
:2)朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
:3)すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
:4)「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
:5)モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
:6)彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
:7)彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
:8)そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
:9)これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
:10)そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
:11)女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
ヨハネによる福音者8章
お父様は誰も異端者・爆破者にしたくはないと願われていました。
それでも赦しなおいっそう祝福したい天の父の心があります。
それをホセアに伝えたいために
姦淫を繰り返す妻を赦し愛する道を行かせるのです。
事情を通じて心情を知る。
誰れも異端者でも爆破者でもないと言っておられるのです。
どうして?
親だからです。
誰もそうでないと信じて下さっているのです。
一番の証拠は、10分28秒~
「こいつめ、私のこれを信じろと、
全て、顕進の名前もここに書かないのだ。」
「誰れも書きたくない」
つまり、お父様は誰も裁いてはいません。
全ての者を赦し愛し救いだし祝福してあげたいだけなのです。
その心情が伝わってきませんか?
亨進様の立場や、顕進様の立場や、お母様の立場から見てもわからないかも知れませんね。
しかし、父の立場で見れば全てがわかるはずです。
だからこそ、異端者だとか爆破者だとか言われ霊人体が引き裂かれるような道も、霊的十字架を超え、心情の十字架を超えて、絶対自由の境地で神に会い主に相見えればよいのです。
だいたい異端者だの爆破者だのと自分が言われたところで
一片丹心の心が変わるというのでしょうか?
あり得ないでしょう。
旧約の信徒にも新約の信徒にもこれはできません。
父の心情がわからないからです。
父の心と一つになる時です。
僕は主人の心を知ります。
養子も父の心の一部を知ります。
実子は父の心をすっかり知ります。
韓国ドラマの時代劇を見よと神は言われます。
善王や善女王に問題があるのではありません。
自分たちの希望や欲望で王や王女を操り利を得ようとする奸臣とそれを阻止しようとする忠臣の善悪闘争が繰り広げられます。
善徳女王に出てくるミシルという女は人を得た者が勝つのだといいます。
一見、真の御家庭の問題に見えますが、本当はそうではありません。
みんな忠臣と奸臣が真の父母様の基盤となるべく争っているのです。
王も真の父母も基台があって初めて活動ができるのです。
古くは天使長を表す三弟子、
これが祝福家庭となり三家庭、
これを子女様に引き継いで三男子
さらに祝福を受けられ真の子女様の三家庭
最低この基台から天国は出発するはずでした。
今日の教会は新約時代に逆戻りどころか
旧約時代の信仰ではなく不信仰に逆戻りという情けない事態に陥っています。
ルターは
第4,このように、司祭や聖職者たちがするように、からだが聖なる衣服を着ているとか、教会や聖所にいるとかいっても、そのようなことは、魂にとってなんの助けにもならない。また、聖物を扱うとか、身体的(形式的)に祈るとか、断食するとか、巡礼するとか、からだをとおし、からだにおいていつでも行われるようなよい行いをすべてするとかいっても、そのようなことは、魂にとってなんお助けにもならない。魂に義と自由とをもたらし、与えるものは、まったくこれとは別のものでなければならない。なぜなら、先に挙げたもの、行い、態度はすべて、悪人でも、偽善者でも、偽信者でもこれを所有し、また、行うことができるからである。だがこのようなことによって生じるのは、まったくの偽善者以外のなにものでもない。逆に、からだが聖くない衣服(平服)をつけ、聖くない場所にあり、飲食し(断食せず)、巡礼も祈りもせず、先に挙げた偽善者たちがする行いを全くしないとしても、それは魂にとってなんの害にもならないのである。
さらに
第17,ところで、みながみな祭司であれば、いったいキリスト教会における司祭と信徒のあいだにはどんなたぐいの区別があるのかと問うことだろう。答えはこうである。祭司とか、聖職とか、これに類することばに対して不当なことが起こっているのである。つまり、これらのことばが一般信徒の群れから引き離されて、今日霊的階級と呼ばれている少数の群れに移されてしまっているからである。聖書は学者や聖別された人々を、他の人々にキリストと信仰とキリスト者の自由とを説教する奉仕人、僕、管理者と呼ぶ以外の区別をしていない。つまり、私たちみなが等しく祭司であっても、みなが仕えたり、管理したり、説教したりできるわけではない。だから、聖パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ第4章[1節]で、私たちは人々から、キリストに仕える者、福音の管理者以外のものとは思われたくないと言っているのである。ところが今や、この管理の努めは、世俗的、外的、華麗、威圧的な支配と権力となり、正当なこの世の権力もどんなにしてもこれと並ぶことができず、平信徒はキリスト者とは別ものであるかのようになってしまった。こうして、キリスト教的な恵み、自由、信仰や、私たちがキリストから受けるすべてのものについての知識の一切、さらにはキリスト御自身さえもが奪い去られてしまった。そして、その代わりに得たものは多くの人間的な律法や行いであって、私たちは全く、地上における最も役立たずの人々の奴隷となってしまったのである。
パウロはガラテヤ人への手紙2章20節で言う。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
これを受けて我々はどう表現しようか?
わたしが今、肉において生き、霊によって信仰しているのは、神の子である血統と心情によるのである。
偉大なパウロや偉大なルターの前であっても、この一点を譲ることができないのです。
それが真の父母様の馬鹿弟子である私たちの矜持だからです。