原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

本然の自由では堕落することができない      チャングムの誓い30話を参考にして

www.youtube.com

 

宮中で陰謀に翻弄され師と共に済州島に流刑に処せられたチャングムであったが、チャングムより先に長く拷問を受けていた師にとって、この旅は苛酷なものであり済州島に向かう船に乗ることさえできず、途中で息絶えてしまった。

希望を失いかけていたチャングムであったが、自分が医女になることによって宮中に帰っていくことができると悟り、医女のチャンドクを師として医学の修得に励んでいた。

そんな時、かって薬草を育てる部署で出会った医管のウンベクに出会う。

ウンベクはチャングムがどんな厳しい環境の中にあっても希望を捨てず目的を達成する姿に感銘を受けたのだった。治す方法の見つからない持病を恨んで、かえって酒浸りの自堕落な生活をとって、いっそ早く死んでしまえばよいと思っていた自分を恥じて、チャングムに見習い諸国を尋ね回って治療の方法を模索し、済州島に腕の良い医女がいることを聞いてやって来ていたのである。

さてウンベクがチャングムに会ってみると、医女になれば官卑でも宮中に入ることができる。そこで宮中に戻って方法を考え私たちを苦しめた人々を懲らしめてやるのだという。

ドラマのやりとりはこんな感じだ。

 

ウンベク 

「そんな理由なら医術を学ぶのはよせ。医術は人を助けるものだ。怒りの心で医術を学ぶとはけしからん。怒りから鍼を持つなら今すぐやめろ。今すぐだ。」

チャンドク

「何故だめなの?私も怒りで鍼を持った。人を殺すために鍼を持ったのよ。」

ウンベク

「それが医女のいう言葉か。医術に携わる者なら夢にも思うな。」

チャンドク

「私は医女である前に人間よ。人間だから抱く怒りを病におびえ避けに逃げる。あなたにはわからないわ。人間の怒りが理解できるわけがないわ。」

こうしてチャングムの手を引いて連れ去っていく。

 

場面変わって、流刑者の具合が悪いとの報告があり向かうが、ウンベクに釘を刺される。

ウンベク

「怒りを抑えられぬなら、怒りか医術かどちらかを選べ。怒りに満ちた者にチャングムを預けられん。行くぞ。」

チャングムをせき立てる。

チャンドク

「来て下さい。」

 

流刑者のところで

チャンドク

「あなたと同じ病です。治療法はあるわ。何年も調べているうちに薬剤を見つけました。」

ウンベク

「試したのか?」

チャンドク

「ほかの患者には遣いましたが・・・あの男にはまだです。あの男は私の敵です。私はあいつに近づくため医術を習い宮中に入った。あの男がここに流罪になったので、私も済州の医女に。」

「あの男は・・・先代の王の治世に採紅史(美女を集めるために地方に派遣された官吏)だったの。職権を傘に着て両班の妻であった私の母を・・・王の元へ送ったの。母は自ら命を絶ち・・・父も屈辱に耐え切れず自害した。その上あの男は我が家を没落させ・・・財産を奪った。私は家の奴卑に育てられ官卑になった。もし私が男なら武術を磨き敵を討ったはず。女だから医術を習った。私は人を生かす鍼と殺す鍼の両方を身につけた。人を助ける薬材を学ぶ時も私は殺す薬の両方を覚えた。そして今・・・皆が認める医女になった。救えと?救うべき?」

 

このやりとりをウンベクはミン・ジョンホに会った際に話して言った。

「あってはならぬことです。あの者は重病人でチャンドクは医女です。既にあの男は罰を受け流刑になり難病に侵され・・・」

 

しかし、チャングムに同情してきた、また義に生きてきたミン・ジョンホは

 

「それは首医女が決めることです。」

とした。

 

場面変わって

チャンドク

「怒りに燃えているお前が最初から気に入ったわ。医術を教えようとその時決めたの。」

チャングム

「私が復讐できるようにと?」

チャンドク

「違うわ。私と同じ苦しみと・・・ウンベクの言葉は正しいわ。怒りでは優れた医員にはなれない。私を見たらわかるはず。怒りで医女になっても怒りか医術かを選ぶ時が。今度はお前が苦しむ盤よ。でもお前には・・・復讐と医術の習得の両方を成し遂げてほしい。これが私の本心よ。」

 

大長今-宮廷女官チャングムの誓い- 第30話|無料動画 GYAO!|ドラマ

 

ウンベクは、創造本然の自由の立場である。

為に生きる医員医女は創造本然の人間の立場、チャンドクが言う人間は堕落人間の立場である。

チャンドクがそのような状態に至った経緯を聞いて同情はしても、彼女の復讐心に肯定はできなかった。

お父様も人を打つことができず、アイゴーとただ自分の胸を打たれたことだろう。

 

先回のブログでは

「至福という絶対価値を追求し実現する押さえがたい絶対主体としての意志が自由である」

とした。

神様は時空を超越して存在されている。

自由と原理、自由と秩序は完全に円和統一されている。

そのご様子を我々が住む時空内の世界で考えるように、時系列として順序をもってあえて表現すると、

神様は絶対主体としておられたので、意志も絶対意志の様相であった。その絶対意志が自由に選択して立てたものが原理であった。

始めに絶対自由意志が原因となって選んだ選んだ天宙創造の原理であるから、自由の表現としての原理でしかないのである。

そこで自由と原理は二律背反や二項対立おして存在するのではなく、相補的、補完的ものだというのである。

鈴木大拙が「肘曲がらず」でよいのだと悟ったのもそういうことである。

したがって自由によって戒め(法)を破り秩序を破壊するということは、創造本然の人間には想像できないことである。

我々の中にそのようなこともできるとする者が出てくるのは、我々が創造本然の人間ではなく原罪を背負って生まれ、それによって引き起こされる堕落性があたかも本性であるかのように働いているからである。

従って堕落論の言う自由とは通常我々がこの言葉によって使う自由とは性質の違うものである。

創造本然の自由には復讐する自由というものはないのである。

だからそういう自由を感じてウンベクは復讐するのは良くないし、そのような心を持ったものは医員にふさわしからずと語るのである。

真のお父様が若き日に書かれた詩も、再臨主として降臨されたお方であるので、堕落性に覆われてしまっている堕落人間に傷つけられながらも恨むことができないのである。

 

栄光の王冠

 

私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。

私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。

私が人を憎む時 私は存在価値を失ってしまいます。

 

しかし もし信じれば 私はだまされてしまいます。

今宵 私は手のひらに頭を埋め 苦痛と悲しみに震えています。

私が間違っているのでしょうか。

そうです。私が間違っているのです。

 

たとえ だまされたとしても 信じなければなりません。

たとえ 裏切られたとしても 赦さなければなりません。

憎む者までも ことごとく愛してください。

涙を拭いて 微笑みで迎えてください。

人をだますことしか知らぬ者たちを、

裏切りながらも 悔い改めのできない者たちまでも。

 

おお主よ! 愛するという痛みよ!

私のこの苦痛を御覧ください。

熱きこの胸に 主のみ手を当ててください。

私の心臓は 深き苦悩ゆえに 張り裂けんばかりです。

 

しかし 裏切った者たちを愛した時 私は勝利を勝ち取りました。

もし あなたも 私のように愛するならば、

私はあなたに 「栄光の王冠」をお捧げします。

 

 

「私が間違っているのでしょうか。

そうです。私が間違っているのです。」

 

この詩を書いた若き日の主も、

色紙を書かれている晩年の主も、

全く変わりがないのである。

 

我々罪人が間違っているのではなく

自分が間違っているのだとおっしゃられたのが

 

「こいつめ、私のこれを信じろと、
全て、顕進の名前もここに書かないのだ。」
「誰れも書きたくない」

 

自分がみんな天国に連れて行くというのである。

ただ父の心は亨進様にと共にあるので

亨進様と敵対するようになれば異端者になり、爆破者になるので

気をつけなさいと警告しておられるのです。

決して裁きたいからではない。

なんとしても最後の仔羊まで救いたい御心情だからである。

 

爆破者は誰か論争を終結すべきである。

それは父の心とは違うからである。

子女様であるとか、奸臣グループであるとか・・・

しかし、お父様の詩にはどう書かれていることだろうか?

15歳の頃のお父様より晩年の完熟されたお父様の方が退化するはずもない。

いつまでも犯人探しをし続けるので

父の心の下に集えなくなるのである。

 

イエス様が

「罪なき者から石持て打て!」

とおっしゃられたように個性を完成されたお方は

皆かくの如しである。

よくよくこの詩を読んで色紙の動画を見ることである。

 

お父様が全ての者を愛し赦し祝福してあげようと

身悶えながらお書きになっておられるのに

ぼけただのもうろくしただの言う者は

ただ頭に中で主を理解しようとする親不孝者である。

公文の書き方によってはこれを立てに裁かれる者が出てくる。

名前なんか書いたら大事である。

メシアが書いたら救いの道が閉ざされてしまう。

またそうするなら救い主にはなり得ない。

誰も父の心を知らず支える者もない。

その中で事態を正しく収集しなければならない。

戸惑われぎこちなくなく全てを終えられた我が主には

我々を愛して下さる御心の痛みだけが

ひしひしと伝わってくるばかりである。

 

私が40代の頃に自分の意識どおりに頭も体もたいそう動かなくなった時が、2~3週間ほど続いたことがあった。

これが進んだ果てにボケがあるのだろうと考えたのである。

つまり今は自分の意のままにならないという違和感を感じているが、

こうした違和感が感じられなくなる時が来るのかも知れない。

それをぼけるとかもうろくとか言うのだろうと考えたわけである。

 

 「こいつめ、私のこれを信じろと、
全て、顕進の名前もここに書かないのだ。」
「誰れも書きたくない」

 

大変本質的な心情的な意思表示である。

 

さて、人は肉身の命を失うことがあっても、名誉の道を選択することがしばしばあることが知られている。

肉を捨て霊に生きるというわけである。

善徳女王の父に仕えていた家臣は

長年王と王家のために至誠を尽くして仕えてきた。

その家臣は王と王家の安泰と存続が保証されるなら

自分が歴史に汚名を残そうと一向に構わないと言う。

肉身も霊人体も奪い去られても良いというのである。

 

たとえ身も魂も朽ち果つるとも

一片丹心の心情である。

 

人は名誉を残すために、肉身を捨てることを潔しとする。

人は心情を残すために、名誉さえ捨て汚辱に生きることを躊躇しない。

たとい1000年の歴史に汚名を残すとも、

王と王家の平安と繁栄が永遠に約束されるなら、

それも自由なり、また楽しからず哉。