母親の胎教時の心霊基準と子供の名前 ヤコブの子供の名前の由来
そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。
女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。
さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。
ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。
しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。
すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」。
兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。
しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。
だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。
(ガラテヤ人への手紙4章22~31)
パウロはサラは自由人の女で、ハガルは奴隷の女だとしている。
サラは福音を表し、ハガルは律法を表しています。
これは霊と肉と言うこともできます。
サラがアベルで、ハガルがカインだということです。
新約の聖徒は原罪が精算されていないので、霊的にのみ生まれ変わることができます。霊肉共にではありません。
霊的に生まれ変わるとしても、それは自由人であるサラによって生まれ変わるというわけです。ハガルではない。サラは聖霊です。
これを祝福家庭に置き換えてみると、本来なら全ての女性信徒はサラの心霊と心情を継承していなければなりませんが、ではパウロが言う自由人の女と奴隷の女の違いが心霊的なもと律法的なものによって識別ができましたが、成約の時代ではこの自由や奴隷とは一体どのようなことを意味するのでしょうか?
原罪を持った堕落人間は、創造本性である神性を表すことができないで、かえって堕落性を表している、あるいはそれによって振り回されていますが、この堕落性の頸木ににつながれている状態が、奴隷の立場であるということです。
反対にこの堕落性から解放され、その頸木から解放されている状態が自由であり、自由人です。
成約時代では新約時代の霊的な解釈から、心情的な解釈に飛躍すると私は考えます。
堕落性に囚われない心です。
堕落性は原理講論では4つに分けて説明がされています。
繰り返し述べてきたことですが、堕落性は最初の「神の立場」だけで、克服できるはずです。神の立場を離れることがなければ、その他の3つの堕落性は生じてきません。
「神の立場」をお父様は「一心」という別の言葉で語られています。
さて、私はヨハネ先生の最も偉大な功績は、四つの堕落性を「葛藤」の一言に凝縮したことだと思います。
奴隷の女の成約時代における意味は「葛藤する女」です。
自由人の女の成約時代における意味は「葛藤しない女」です。
この「葛藤しない女」から神に祝福されるイサクである祝福二世が生まれてくるのです。
ゲッセマネの祈りで「父よ、願わくはこの杯を取り去り給え。」
というのは、父の心と子の心が「二心」であるというのです。
これが問題だと真のお父様にして初めて語ることができました。
二心というのは、葛藤する心のことです。
では、ヤコブの家庭ではどうだったでしょうか?
タイトルにあるように胎教の動機が子供の名前に現れてきます。
神様に感謝したり、栄光を賛美することもありましたが、基本的には、ヤコブの愛を巡ってラケルとレアが奪い合うという葛藤が根底にあります。奪う愛です。
「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」(創世記32章28)と命名された、神によって祝福された血統を持つヤコブも、女性の心霊や心情の基準によって生まれてくる子供の質に変化をもたらしてしまいます。
1986年の12月に出版された「胎児はみんな天才だ」という本は、ジツコ・スセディックが書いたものですが、両親がどこにでもいるような平々凡々の人であるのに、子供たちはみんなIQが非常に高く、大学への入学も非常に早い者も現れてきた、その理由が胎教にあったというものです。
子供が生まれ育つ子宮の中にいる時に、母親の葛藤の影響を受けない、平安な生活を送るには母親の生活心情が問題だというのです。
また、その子供が生まれてきて平安に暮らすには同様に、仲の良い夫婦に育てられることが大切なのでしょう。
葛藤のない平安の中で育った子供たちは、吸収力が抜群によいようです。
例えて言うならば、授業を一度だけ聞いただけで、頭の中に入っちゃう感じです。
高学歴の両親ではないにも拘わらず、なぜ子供たちが優秀なのかは胎教にかかっているといいます。
胎児はみんな天才だ―最新の胎内教育 “子宮対話”の驚異 (ノン・ブック)
- 作者: ジツコスセディック
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 1986/12
- メディア: 新書
- 購入: 3人 クリック: 21回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
人間の心情には知的側面ばかりではなく、やる気のような意的側面や情的側面もあります。
胎教によって子供たちの信仰や心情に影響もあることでしょう。
さて、ヤコブの子供たちの名前を振り返ってみましょう。
( )内は母親です。
1,ルベン(レア)意味→その子を見よ
レアは、みごもって子を産み、名をルベンと名づけて、言った、「主がわたしの悩みを顧みられたから、今は夫もわたしを愛するだろう」。
(創世記29:32)
2,シメオン(レア)意味→(主が子供を授けてくださいという祈りを)聞いた。シェマ(聞く)から由来する。
彼女はまた、みごもって子を産み、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、名をシメオンと名づけた。
(創世記29:33)
3,レビ(レア)意味→ラバ(結ぶ)から由来する名前。
彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは彼に三人の子を産んだから、こんどこそは夫もわたしに親しむだろう」と言って、名をレビと名づけた。
(創世記29:34)
4,ユダ(レア)意味→ヤダ(褒め称える)を由来とする名。
彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名づけた。そこで彼女の、子を産むことはやんだ。
(創世記29:35)
5,ダン(ビルハ)意味→裁き主
ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんでヤコブに言った、「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。
ヤコブはラケルに向かい怒って言った、「あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代ることができようか」。
ラケルは言った、「わたしのつかえめビルハがいます。彼女の所におはいりなさい。彼女が子を産んで、わたしのひざに置きます。そうすれば、わたしもまた彼女によって子を持つでしょう」。
ラケルはつかえめビルハを彼に与えて、妻とさせたので、ヤコブは彼女の所にはいった。
ビルハは、みごもってヤコブに子を産んだ。
そこでラケルは、「神はわたしの訴えに答え、またわたしの声を聞いて、わたしに子を賜わった」と言って、名をダンと名づけた。
(創世記30:1~6)
6,ナフタリ(ビルハ)意味→我が戦い
ラケルのつかえめビルハはまた、みごもって第二の子をヤコブに産んだ。
そこでラケルは、「わたしは激しい争いで、姉と争って勝った」と言って、名をナフタリと名づけた。
(創世記30章7~8)
7,ガド(ジルバ)意味→幸運
さてレアは自分が子を産むことのやんだのを見たとき、つかえめジルパを取り、妻としてヤコブに与えた。
レアのつかえめジルパはヤコブに子を産んだ。
そこでレアは、「幸運がきた」と言って、名をガドと名づけた。
(創世記30章9~11)
8,アセル(ジルバ)意味→祝福された
レアのつかえめジルパは第二の子をヤコブに産んだ。
そこでレアは、「わたしは、しあわせです。娘たちはわたしをしあわせな者と言うでしょう」と言って、名をアセルと名づけた。
(創世記30章12~13)
9,イッサカル(レア)意味→主は私に報酬を下さった
さてルベンは麦刈りの日に野に出て、野で恋なすびを見つけ、それを母レアのもとに持ってきた。ラケルはレアに言った、「あなたの子の恋なすびをどうぞわたしにください」。
レアはラケルに言った、「あなたがわたしの夫を取ったのは小さな事でしょうか。その上、あなたはまたわたしの子の恋なすびをも取ろうとするのですか」。ラケルは言った、「それではあなたの子の恋なすびに換えて、今夜彼をあなたと共に寝させましょう」。
夕方になって、ヤコブが野から帰ってきたので、レアは彼を出迎えて言った、「わたしの子の恋なすびをもって、わたしがあなたを雇ったのですから、あなたはわたしの所に、はいらなければなりません」。ヤコブはその夜レアと共に寝た。
神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって五番目の子をヤコブに産んだ。
そこでレアは、「わたしがつかえめを夫に与えたから、神がわたしにその価を賜わったのです」と言って、名をイッサカルと名づけた。
(創世記30章14~18)
10、ゼブルン(レア)意味→共に住むという意味。イズベレーニー(私を尊ぶだろう)とゼーベドゥ(賜物)に関係しているという。
レアはまた、みごもって六番目の子をヤコブに産んだ。
そこでレアは、「神はわたしに良い賜物をたまわった。わたしは六人の子を夫に産んだから、今こそ彼はわたしと一緒に住むでしょう」と言って、その名をゼブルンと名づけた。
(30章19~20)
☆ その後、彼女はひとりの娘を産んで、名をデナと名づけた。
(創世記30章21)
11、ヨセフ(ラケル)意味→恥を「取り去り」って下さったという意味。
次に神はラケルを心にとめられ、彼女の願いを聞き、その胎を開かれたので、
彼女は、みごもって男の子を産み、「神はわたしの恥をすすいでくださった」と言って、
名をヨセフと名づけ、「主がわたしに、なおひとりの子を加えられるように」と言った。
(創世記30章22~24)
12、ベニヤミン(ラケル)意味→ベンオニ「わたしの苦痛の子」とラケルが名づけようとしたのを、ヤコブが「右の子」(神の愛するアベル)と変更した。
こうして彼らはベテルを立ったが、エフラタに行き着くまでに、なお隔たりのある所でラケルは産気づき、その産は重かった。
その難産に当って、産婆は彼女に言った、「心配することはありません。今度も男の子です」。
彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノニと呼んだ。しかし、父はこれをベニヤミンと名づけた。
(創世記35章16~18節)
「動機と関係」から読み解いていく
ラケル(次女)とレア(長女)を女性版のアベル・カインとみなすと
これにパウロの自由人の女と奴隷の女を掛け合わせて分類してみる。
整理しやすいので関係から先に見ていこう
ラケルとレアは共にラバンおじさんの娘ですから、
ヤコブとは同じ血統です。
血統は心情を表す。
ラケルのはしためビルハや、レアのはしためジルバとは違って
そこでアブラハムの妻サラのように、パウロが言う自由人の女です。
ラケルとレアは奴隷の女ビルハやジルバに比べるとアベル的存在で
ビルハとジルバはカイン的存在、神の心情に近いか遠いかを「>」で示せば
ラケルとレア > ビルハとジルバ
同じ自由人の姉妹ラケルとレアでは、ラケルがアベルでレアがカイン
ラケル > レア
カイン: ハガル → レア → エリサベツ → マルタ
<自由人の女ラケル>
質の高い子供の誕生
11,ヨセフ ← 神に対する感謝
12,ベニヤミン ←レアに対する葛藤はないが、ラケルが息を引き取る前に難産の苦痛を意味する個人的由来の名にしようとするのを、神の右という意味の名にヤコブが変えた。女性の個人的動機を夫が神中心の動機で変更しカバーした。
<自由人の女レア>
1,ルベン ← 最初の子供を授かったことに対する感謝
2,シメオン ← 祈りが聞き取られた感謝
3,レビ ← 奪う愛と葛藤
4,ユダ ← 主に対する感謝と讃美
9,イッサカル ← 主に対する感謝
10,ゼブルン ← 主に対する感謝
☆ デナ(女)
<ラケルの女奴隷>
5,ダン ← ラケルが裁きに対する感謝
6,ナフタリ ← ラケルが葛藤
<レアの女奴隷>
7,ガド ← レアが感謝
8,アセル ← レアが感謝
パウロが語ったのはサラ・ハガル型
自由人の女と奴隷の女との対比でのアベル・カインです。
行って義とされる行義と
信じて義とされる信義
旧約時代の信仰から新約時代の信仰に変わるターニングポイントです。
我々は神に祝福された自由人の姉妹内における対比でのアベル・カインです。
サラ・ハガル型ではなく、ラケル・レア型を見本にして、私という同一人物の中で、心情を聖別して、葛藤を克服し、神と一心になり、子を宿し子を産み育てる道です。
見える世界では私と人の関係に葛藤が生じてきます。
その時に見えるものではなく、見えないものに集中します。
私の心の中に葛藤が有りや無しやと集中します。
もし葛藤が見つかればこれがレアです。
パウロで言えばハガルです。
パウロは何と言っていましたか?
30 しかし、聖書はなんと言っているか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷の子は、自由の子と共に相続をしてはならない」とある。
ガラテヤ人への手紙4章30節
女性の特に胎教中の母親の心の中から、女奴隷である「葛藤」を追い出せというんです。そしてあなたが自由人の女でいれば、女奴隷の子は生まれず、自由人の女の子、すなわち神によって祝福された神の子が生まれるというのです。
私の人の心の中に
サラとハガル
ラケルとレア
マリアとマルタ
の二人が住み着くのではなく
勝利した女性の心情圏に立ちなさいというのです。
それが神の子を天から授かる道だからです。
成約ではそんなふうに捉えられるのではないでしょうか?
だから女性は、
「善悪知るの木」
その子供は
「善悪知るの果」
なのです。
責任重大ですね。
葛藤というのは、第一に神様に対する葛藤、第二に人に対する葛藤、第三に環境に対する葛藤の三つです。
一番優秀なヨセフの血統からメシアが生まれるべきでした。
彼は結婚の相手を間違えました。エジプトの女と結婚しました。
エジプトの女とは奴隷の女のことです。
逆戻りしてしまいました。神様の祝福する血統を残せませんでした。
ここに神様の悲しみと苦痛と恨みがあります。
ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、互に言った、「あの夢見る者がやって来る。
さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。
ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。
ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。
さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、
彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。
こうして彼らはすわってパンを食べた。時に彼らが目をあげて見ると、イシマエルびとの隊商が、らくだに香料と、乳香と、もつやくとを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。
そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。
さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。
時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。
さてルベンは穴に帰って見たが、ヨセフが穴の中にいなかったので、彼は衣服を裂き、
兄弟たちのもとに帰って言った、「あの子はいない。ああ、わたしはどこへ行くことができよう」。
創世記37章18~30節
レアの息子たちの中では、兄弟を殺すことを諫めて助けようとしたルベンと、それでも聞き分けなかった兄弟に、知恵を持ってイシマエル人に売り飛ばすことで、命だけは助けることを得たユダの功績があり、ヨセフが神の祝福する結婚を果たせなかったので、その祝福は彼を助けたユダに引き継がれ、イエス様がその血統から生まれて来ることになった。
「タマルがわかれば原理の全てがわかる」
全てはタマルから始まるが、サラとハガル、ラケルとレア、母マリアとエリサベツ、香油のマリアとマルタを女性信徒は徹底して研究し祈り求め、神の心情を体得されることをお祈りします。
私は6,000双の第一回の家庭修に参加しましたが
このようなことは教えて頂けませんでした。
皆さんが、神の加護の中、神と共にあり、神の祝福された子女を授かることを心からご期待しお祈り申し上げます。
アージュ。
天一国の門 のサイトは