信仰=献身=祝福の一世 と 献身抜きの二世の差
我々の時代は、信仰を持つことと献身することは同じであったかと思う。
さらに献身することと祝福を受けることが同じになっていく。
ところが二世はどうか?
そのようになっていない。
つまり堕落世界に生まれてきて、我々は資質のない者だったが、信仰を持ち献身することによって、聖別され、自身が大きく変わる転機を得た。
ところが二世は原罪を精算され天の資質を持って生まれてきたにも拘わらず、
献身する方向に進まないことが多いので、ほとんどの子女が親以下の存在に陥ってしまっている。勿論、東大だの一流の会社に就職しただのという点では、遥かに親以上と言える方々もおられることであろう。
ところが、信仰は一世の若者にも及ばないかも知れない。
サタンは人間が生まれる前から伝道を始める。
洪水の水が引かないうちからカラスは飛び回り、
献身すなわち供え物が成立しないよう荒い鳥は邪魔しまくる。
親たちが子供達が大きくなってからでよい、教会任せでよいと考えている間に
サタンは先行して、カナン七族の悪習にどっぷり子供達は浸からせて、
気がついたときには復帰される前の一世と何ら変わりのないこの世の子供に育っていたということになる。
また、そこまでには至らないが、教会の実体を見るにつけ、求めてはいるが諦め始めて行くことがある。
祝福子女はみんな見ている。
私の子供で言えば小学生の時に、当時の教会長の堕落性にうんざりしていた。信徒の婦人達も教会長にうんざりしていることに気づいて見ていた。子供だからと思う無かれ、彼らは我々一世よりも敏感である。
お父様が如何に立派でも教会の人々の信仰が建前だと考えるようになれば、別の道を行く方が幸せであり、親たちは幻想を抱いているのか、だまされているのではとまでも思うかも知れない。
しかし、そのことを誰に話すであろうか?
親には話さない。
小学生の頃、子供達に修練会に参加させたが、基準を下げて帰ってくる。
またしばらくして修練会に出したが、また基準を下げて帰ってきた。
一体何が起こったのか、当惑していたら母親に子供が話したことは、
我が家では幼少の時から子供達は祝福を受けると言っていたが、他の子供達にはそのような子供は誰一人いなかった。また神様やお父様に対しても親が言うからそれに合わせてきているというような子供達の会話であったようだ。
15年以上前の話しだから、現在は事情が違うことであろう。
子供達もこの世の子供達に別の考えがあることは許容できた。
しかしこの道の子供達に自分たちとは正反対の考えを持つ子供ばかりであるということを、どのように気持ちの整理をして良いのか、わからなかったのである。
それからは試練が次々と襲ってくるようになった。
年長の子供がCARPの青年と出会うことによって、長年のわだかまりが消えた。
大学生になったら神様の役に立てないものかと考えていたという。
教会はもっとCARPのメンバーと教会の青少年の交流の機会をつくるべきであろう。
できることからどんどんすべきである。
十代の青年が神のため神の国を造るため、献身的に奉仕する道を歩むことに迷いはないが、教会の実情がつまづきの種になって阻んでいるという情けない事態を悔い改めなければ、神様の未来はないであろう。
実に深刻な問題である。
教会は公的と言うことを取り違えて受け取ってきたのではないだろうか?
外的摂理の展開のためにエバ国家としての責任を果たし、献金を捧げることは正しいことである。しかし、同時に教会の本質的財産である二世の育成のために献金を用いることもまた公的なことである。
彼らが神の国の担い手として育たなければ、誰が神の御心に責任を持つことができようか?
既に幼稚園・小学校・中学校・大学がどんどんできていなければならない。
近視眼的に公的を解釈してきたので、その場その場の外的な摂理に献金することが正しいと勘違いしてきたツケがここにきて圧倒的な問題を引き起こしている。
修練会が何故機能するかと言えば、サタン世界から分離独立している、神の出島だからである。誰でも知っていることだが、誰もこれを応用しようとは思っていないようで不思議なものである。
CARPが何故機能しているかの一つの要因は、寄宿舎生活という出島環境にあるからである。学校でいうと全寮制ということである。
献身者の家庭も昔はアパートなどに複数の家庭が共に暮らしていた。
非常に守られた環境があった。
これが次第に個人個人で生活するようになると
それが当たり前で正しいものに感じるようになった。
全国は教会建設で沸き立ってきたが、一世のための教会より、二世のための共同生活のホーム建設の方がよっぽど重要なことに思われる。
神の国の担い手であるからである。
一年にどれだけの祝福家庭の子供が生まれ、信徒がどれだけ天に召され、超高齢者が前線の主要部隊であることに、誰もが危機感を抱いている。
二世に投資しないからである。
学校建設には多大の費用がかかるが、教会も共同生活ができる場をできるところから提供して行くべきなのであろう。土日だけ親元に帰るような基準を目指すべきであろう。いつから?それは構成員の特性によって変わってくることであろう。
子供達は家庭の中だけではなく、子供社会の中で育つものである。
信仰的な共同生活体験は重要なのである。
体験入教が今日失われてしまっている。
おそらく熊本バンドなどもそのような中で、聖書や信仰の理解を飛躍的に遂げたのではないだろうか。新島の教え子との差は案外そこにあるかも知れぬ。
まあ今も昔も人間が育つことにさほど変わりはあるまい。
大切なことは機会を全ての二世に提供することである。淘汰されてでてくる者は人間に責任分担がある以上生じることもある。しかし信仰を鍛えられて、そこからリーダーが現れることもあるだろう。
<お知らせ>
低コスト最短で牧会ができるようになる道を日夜考えている。
ウェスレーに続き、神様からは「パウロだ」と言われている。
信仰的な理想的母親像を誰に求めるべきかとか
二世が牧会者になった際に教会運営で参考になるものは何かとか
ヨブ記のこととか
その他色々の考えが頭の中で渦巻いている。
支援サイトの名前も決まって目次だけでもアップして
自身にプレッシャーをかけないといけないとも思っている。
今週は教会の30000双のご夫婦とファミレスでお会いすることになった。
とにかくこのブログで書いたものをもとに、検索できるものを
数日後には始めたい。
項目の具体的内容は順次書いていきたい。