祝福二世が目指す牧会者の礼拝 「礼拝の聖書的な理解を求めて」 聖書神学舎教師会 に触発されて
心霊的な御言葉の理解による礼拝を、祝福二世の方々が行うことができるために、何か良い本がないかと探して、目次もわからぬままに購入したのが、「礼拝の聖書的な理解を求めて」聖書神学舎教師会編 と言う本で題名をめぐって10人の牧師が論文を提供している。
以前に推薦した「聖書から考える牧会」と一緒に購入したのだが、こちらの方は推薦しないことにした。
というのは、読み進めていくうちに、牧会も礼拝も説教もとにかく、聖書を心霊的に読み込んで、自身が復活して恵に与る生活をしていれば充分であると、いよいよ思うようになったからである。けっして内容がどうのと言うことではない。
ところで私は今までブログ上で本の名前を挙げているが、実際に自分が保有しているとは限らない。図書館もよく利用している。皆さんも最寄りの図書館を利用されるといい。
地方の市立図書館でもキリスト教関係の本も意外に揃っていたりする。
私の場合はどうしても線を引いたりマルをつけたり書き込みたくなるので、借りてもやはり購入するものもある。ただ最近は本当にキリスト教関係は縁がなくなっていた。
さて、先ず表題の本の読後感から、礼拝について考えてみたい。
次にもともとはこの本を推薦できるのではないかと考えていたので、とりあえず、新約の信徒がどのように礼拝を定義し実践しておられるのか、確認するために、別にキリスト教関係の3冊ほどざっくり目を通してみた。
そこでそれらについても順次いつかお話しすることにする。
ところで、最近私は「です・ます調」で書くことがあるが、あまり好きではない。
「です・ます調」だと柔らかい表現で心地良いが、神の霊に満ちた権威が伝わりにくい。口語訳聖書はきっぱりと言い切っていて気持ちがよい。おそらく文語訳聖書に親しまれた方は、文語調が一番神の権威が伝わってきて心地よいと思われるのではないだろうか?
「だ・である調」は高飛車で偉そうに聞こえるところがある。
あえてこの思いの波動を伝えるためには、それでもこちらを選択することにしている。
さて、「礼拝の聖書的な理解を求めて」には、礼拝に関係する聖句やキーワードの源義の理解、例えば聖句ならその内容の意図であるとか、語句であれば原点のギリシャ語やヘブライ語などの源義やその使われ方の用例などによって、礼拝の真の在り方や本来の意味を求めて10人の牧師の先生方が執筆されている。
これらの先生方によって、多くの礼拝に関係すると思われる聖句が紹介されていたことに心より感謝したい。
この本を読み進んでいくうちに、触発されて浮かんできたことをお書きしたいと思う。
礼拝の嚆矢は何であろうか?と振り返ると、我々信徒であるなら誰でもしている、あのアベルとカインの献祭の物語である。
人類始祖の堕落は
第一に、天使長ルーシェルとエバの姦淫、すなわち霊的堕落があり、
第二に、堕落したエバとアダムの姦淫、すなわち肉的堕落があった。
これによって、神の像、神の似姿として創造された神の創造目的が破壊されてしまった。「アダムよ、汝何処なりや」とは、神の心情や愛とは似ても似つかない姿に成り果てたアダムとエバに対して語られた言葉であった。
霊肉ともなる堕落によって、絶対愛も絶対「性」も共に失ってしまったのである。
人間にとっての失楽園とは、本来ここに起因している。
人間が神と父子の関係であることが、天宙の真理であるが、天使長ルーシェルと不倫なる血縁関係を持つことによって、偽りの父サタンを父とし、あげくは僕・奴隷となって人間は今日まで歴史を築いてきたのであった。
この結果、人間には神の律法である義に仕える私と、サタンの律法である不義にも仕えるという、二人の主人の狭間で揺れ動く非原理的な存在になってしまった。
パウロの嘆きがある所以である。
かのパウロにして然りなのである。
二人の主人に仕える立場という非原理的な存在から
神のみに相対し得る原理的存在に復帰していかなければならない事情が、
天使長ルーシェル(サタン)→エバ→アダムという、一連の堕落によって引き起こされてしまったのである。
そこで神様は堕落人間を救い出すために
アダムとエバから生まれてきた
兄のカインを、第一の堕落であるサタンとエバとの霊的堕落の実として悪の表示体、
弟のアベルを、第二の堕落であるエバとアダムとの肉的堕落の実として悪の表示体、
と定めて原理的な神のみに相対する、創造本然の子たる身分を復帰する復帰摂理を
始められたのであった。復帰摂理は神と人の父子因縁の回復も道であったと言える。
歴史上、イエス様が初めて、神と人が親子の関係であることを明らかにされたのであった。
二つの堕落は両方とも堕落には違いないが、その動機と関係に着目すれば、
第一の霊的堕落の動機は神の御心を疑い不信して戒めを破るという非原理的動機であり、関係も天使と人間という非原理的な関係であった。
これに対して、
第二の肉的堕落の動機は本来の自分の相手がルーシェルではなくアダムであることを知ったエバが神のもとに帰りたいという動機でアダムを誘惑しアダムとエバは時は満ちていなかったが原理的な相対関係であり、やがて神の祝福のもと夫婦となる予定であった。
神は、堕落行為によって二人の主人に兼ね仕える非原理的な中間位置に立った人間を善と悪に分立して救おうとされたが、人間自体を裂くことはできないので、親の代わりに二人の子をして善悪分立する摂理を為された。
そこで第一の霊的堕落の結果の子として兄カインを悪の表示体
第二の肉的堕落の結果として弟アベルを善の表示体と定めた
ここで言う善悪とは互いを比べればより善であり、より悪であるという相対的な意味あいであった。
神は元々長子を立てて長子に嗣業を相続させようとする原理的基準があるので、サタンも最初のものに対する未練がいっそう多かったため、被造世界を支配していたので長子をとり、神はサタンがいっそう未練を持つ方ではないアベルを選ばれたのであった。
信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
ヘブル人への手紙11章4節
聖書に登場する最初の供え物を神に捧げたことが礼拝の嚆矢であると思われる。
礼拝とは献祭礼拝である。
その献祭の意味は神とサタンの中間位置に陥っている状態、
22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
ローマ人への手紙7章22~24節
このような非原理的状態から、神のみに相対する原理的状態に復帰するために、
神がとることのできる条件を捧げるということであった。
このような神がとることのできる善の条件が献祭の意味である。
さてここで礼拝を整理してみると
1,礼拝は自らが善悪を分立して聖別化されて臨む場であり
2,牧会者を通して神の御言葉を受けてさらに新生復活する場である。
3,神の立場からするとサタンを斥けて人の所有は神のものなりと決する場であり、
4,人間の立場からすれば、自己の責任から神の支配に身を委ねる献心献身である。
人間は堕落することによって、万物の主管主の位置を失ってしまった。
それどころか、責任分担を持たない原理の主管性や自律性によって完成される被造物以下の存在に転落してしまった。
堕落の結果人間は万物以下の存在になってしまった。
万物の方が神に近い存在になった。
そこで人間が神の前に出る為には、神に近い万物を捧げる行為を通しての道が献祭として礼拝形式となったのである。
神の実子としての位置と状態を復帰して行く道においては
万物蕩減→肉的蕩減→霊的蕩減→心情的蕩減 と4段階、
肉的蕩減と霊的蕩減をひとつの人的蕩減とみて
万物蕩減→人的蕩減→心情的蕩減 3段階
と言う場合もある。
復帰摂理時代を4区分において、その時代の代表的蕩減とこれに対応する献祭内容は
人類始祖が神の御言葉を放り捨てたモーセ以前を「旧約以前」→万物蕩減→万物献祭
モーセによって神から十戒の御言葉を与えられた「旧約時代」→肉的蕩減→肉的献祭
イエス様によって神の御言葉が与えられ始まった「新約時代」→霊的蕩減→霊的献祭
文鮮明再臨主が神の御言葉をあからさまに語った「成約時代」→心情蕩減→心情献祭
これらの4つの礼拝(信仰)を、今度は神と人間の関係性から見ると
万物献祭は僕の僕(奴隷)の礼拝(信仰)
肉的献祭は僕の礼拝(信仰)
霊的献祭は養子の礼拝(信仰)
心情献祭は実子の礼拝(信仰)
心情は生命を超えたところにある。
そこで
「生きて十字架を超えよ」ということになる。
自分の命以上に執着するものを断ち切って行く道にある。
より本質的には生命体を超えた生霊体にある。
生霊体は完成期すなわち祝福を受けて相対者と共に歩む道にある。
信仰というものを年輪のような一つの同心円の統合とみると
同心円の一番中心の位置に神の本質の心情
同心円の二番目の位置に生心が神霊(福音)
同心円の三番目の位置に肉心が真理(律法)
同心円の四番目の位置に人が精誠を尽くした万物
本来は一つの物が失われ、復帰摂理が進むに連れて部分的に復帰されてきた。
若い頃に1800双のアベルが、
「統一教会の儀式は(形式的にではなく)最も心情的なものだ。」
と教えてくださった。この方は当時20代であった。
私はこの儀式が心情的なものだということがとても印象に残ったが、
本当の意味がわかるまでは数十年も掛かってしまった。
立派なアベルと出会えて本当に感謝している。
普通、律法と福音は水と油のように分離独立していると考えられていることが多い。
信義と行義は相反するものではない。
神の恩寵を信ずる内的動機や内的規範を遵守する見えない信義を条件として、神の恩寵が原因となって善なる行為が果たされ、見える行義が完結する。
本来は分けて考える種類のものではないのである。
信義即行義、行義即信義である。
別の言葉で言いかえると、
「神霊と真理で礼拝する」ということになるのである。
神霊が信義に対応し、真理が律法に対応している。
若い頃は行って義とされる行義と言うが、旧約聖書の中にはホセア記のような心情的な世界が描かれているものも多く、戸惑うことになったが、そのころ折り合いを付けた考え方は、本来新約時代は必要であったのではなく、人間の責任分担不履行ゆえに、旧約時代の心情的な信仰が形骸化して、結果としてメシアを迎える事ができず、完全な心情基準を立てることができなかったので、次の時代に宿題として残され、イエス様が十字架の道を行く中で新約時代も霊的基準は打ち立てられたが、心情基準は再臨の時を待つことになったのだと考えるようになった。
山内一郎の「メソジズムの源流ーウェスレー生誕300年を記念して」によれば、ウェスレーは以下のように言っているという。
「信仰による義認」と題する説教のなかでウェスレーは次のようにアピールします。「我々は皆、言明しなければならない。『あなたがたは(神による一方的な)恵により、信仰を通して救われる。行為を通してではない。誰も誇らないためである』・・・」 注:( )内は私の付け足しである。
これを統一原理では、神の95%の責任分担(恵)と5%の人間の責任分担(信仰及びその行為)ということになろうかと考える。
達成感を「やった!」と誇ることの20倍は、導かれた神の恩恵に感謝せよということである。
きりがないので書き殴るのはこの辺で止めたいが、最初に話した、善悪分立の生活とは実際の信仰生活では、「悔い改めと感謝」の生活であり、そのための条件生活である。
「悔い改め」という日本語はとてもよい言葉である。
自分の罪を認め、これを悔いることと
このような罪の支配にある自分を方向転換して神の支配へと改め、
私に対する創造理想としての神性を訪ねてこられる神の御心に委ねて生きていくということである。
したがって、あることを悔い改めたなら、ロトの妻のように悔い改める以前の自分を振り返ってはならないし、兄弟に対してもそうでなければならない。
日本の信徒の信仰の弱点は、
神の愛する自分を愛する生活が定着しないことである。
仏教徒が仏性を見ていくように
我々は神が与えてくださった神性のみを見るべきである。
さて、もう一つの感謝とは、悔い改めにともなって生じる霊的恵、復活に対する感謝である。
礼拝はこのような悔い改めと感謝を享受することができる、説教者と信徒の準備と精誠が求められているものである。
ウェスレーはそれを「聖化」と呼んだ。
我々で言う日々の「復活」のことである。
だがこの聖化には限界があり「キリスト者の完全」は
創造本然のアダムとエバの完全とは違う。
原罪が精算されていないからである。
ウェスレーのようなクリスチャンこそ
再臨主による祝福を受けて御側に仕えるべき人物であった。
家庭盟誓と礼拝についてやノアの方舟やアブラハムの献祭についてもいくらか書こうと思っていたが、このくらいにしておきたい。
あなたは如何なる献祭をもって
あなたは如何なる神との関係の資格において
あなたは如何なるものを神に捧げ給もうか。
それがあなたの礼拝である。