真の父は、七年路程を通して「堕落していない純粋な血統をもって生まれた方」となった韓鶴子オモニのことを、「エバを堕落圏から復帰して再創造した」とも表現された
家庭連合は蛇に主管されてしまっている。
そこで彼らは蛇の性質である「二枚舌」がお好きなようである。
真のお父様が、真のお母様の「立場」の理解について、二通りの御言を語られている理由 | 真の父母様宣布文サイト より家庭連合の見解を引用する。
さて、『原理講論』は、原罪について「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」(121ページ)と定義しています。つまり、原罪とは「霊的堕落」と「肉的堕落」の両方の罪を指して、原罪と言います。
ここでは、原罪が霊肉両方の罪を表していると発言している。
「両方の罪を指して」とは何か?
先ずこれを定義しなければならない。
ところがこれについて家庭連合は実に曖昧模糊としている。
この発言は以下のどちらを意味した主張なのであろうか?
AとBを満たしての意味か?
AかBのいずれもの意味か?
霊的堕落と肉的堕落が切り離されずセットで初めて原罪と言っているのか?
それとも、
霊的堕落か、もしくは肉的堕落のみでそれぞれ原罪と主張しているのか?
もっと単刀直入に言わなければならない。
復帰された「エデンの園」のなかで、アダム(メシヤ)が再創造する「独生女」は、「霊的堕落」の罪責のみが問われる立場であるために、それを『原理講論』の原罪の定義に当てはめると、“無原罪”であるということになります。
肉的堕落の精算が終わっているのが独生女なのだというわけである。
それが「独生女」は、「霊的堕落」の罪責のみが問われる立場であるという意味。
私たち堕落人間の場合は、「霊的堕落」「肉的堕落」の両方の罪を背負って生まれてきている立場であるために、原罪をもっていますが、「独生女」の場合は、エデンの園にいるアダムの相対者として、「霊的堕落」の罪しか問われない立場であるため、無原罪なのです。
原理講論には、原罪を「人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」(121ページ)と定義しているとしながらも、
「独生女」の場合は、エデンの園にいるアダムの相対者として、「霊的堕落」の罪しか問われない立場であるため、無原罪なのです。
とするのである。
原理講論の定義には存在しない例外として「独生女」は存在していると主張している。
その後の女性には、すべて霊肉の堕落によって生じた原罪が問われているのに、
独生女だけは問われないというのである。
アダムはエバと淫行関係を結んで罪だとされたのに、
何故韓鶴子オモニ他3人だけが、肉的堕落を問題とされず、霊的堕落の罪しか問われることがないのであろうか?
霊的堕落を初めにしたのはアダムではなくエバであり、
霊的堕落と肉的堕落の直接的当事者であるのもエバである。
罪の子供を繁殖して人類歴史を罪悪史にしたのもエバである。
エバだけが、どうして肉的堕落を問われない、つまり肉的堕落の罪を精算されて生まれることができたのか?そのメカニズムを彼らは説明できない。
一体どのような原理で
「霊的堕落」の罪しか問われない立場であるため、無原罪なのです。
ということができるのであろうか?
エバは堕落後どうしたのであったか?
何故食べたのだと神に聞かれた。
エバは蛇のせいにした。
悔い改めができなかった。
そこでエバの蕩減復帰を誰が担当したのか?
聖霊である。
私自身、どっぷりと罪の虜になって身動きができないことを哀れまれて
聖霊が私の罪のために、わたしに代わって号泣してくださった体験がある。
自分の感情は泣きたいどころか、泣くことに抵抗しているのに
私の感情とは別に、強烈な感情が私のために何時間も泣いて下さる体験をしている。
聖霊や聖霊の実体は、誰よりも罪に敏感で、ぼかされて罪をはっきり実感できない愚かな者の身代わりになって悔い改めて下さるのである。そこで、慰労や感謝が沸き起こってくるのである。
偉大なお母様は、聖霊のかけらも感じられないほどの変わり果てた御姿である。
いったい、原理講論の定義が正しいのか?
それとも、原理講論には存在しない、「独生女」のみに当てはまる定義が正しいというのか?
家庭連合は、はっきりさせないといけないことであろう。
何度読んでも信じられない言葉である。
「独生女」の場合は、エデンの園にいるアダムの相対者として、「霊的堕落」の罪しか問われない立場であるため、無原罪なのです。
肉的堕落は、お父様に会う以前に、いつ如何なるようにして、原理を知らないお母様は精算されたというのか?
お母様を産んだ大母様さえ知らない血統転換の原理とは何なのかを
家庭連合は明らかにできない。
真の父は、正妻と妾の復帰摂理の七年路程を通して「堕落していない純粋な血統をもって生まれた方」となった韓鶴子オモニのことを、「エバを堕落圏から復帰して再創造した」とも表現されたのである。
これが本当ではなかったのか?
そして韓鶴子オモニは真の母となり「お母様」と呼ばれるようになられたのである。
霊的堕落は淫乱罪である。それにもかかわらず、原罪ではないというのか?
エバは、戒めに込められていた神の愛を不信したのだ。
第一段階がこの心情的堕落。
第二段階が霊的淫行関係。
第三段階が肉的淫行関係。
「だれでも情欲をいだいて女を見るものは、心のなかですでに姦淫をしたのである。」
マタイ5章29節
お父様は、霊界の現象と電気現象がとても似ているとおっしゃってきた。
相対基準を結べば、あっという間に現象(行為)が起きるのがそっくりだからである。
心情的に堕落すれば、則霊的堕落が待っているのである。
真のアダムの復帰では何故、肉的堕落を問われないという男性が現れなかったのか?
屁理屈を考えるのも、ほどほどにしていただきたい。
み言葉の中でも、サタンの罪状を暴いている箇所に、手を加え、サタンを擁護し加担する行為を行っているのが家庭連合である。
どうして地獄の刑罰を免れることができよう!
絶対「性」だと、あれほどお父様が語ってこられたのに、なんということか!
罪がぼかされて、どうやって教会成長研究院は統一原理を指導できるというのか?
「取って食べるな!」という戒めをエバが破ったことから人類の堕落が始まったのだ。
この原初の罪が何故「原罪ではない」などということができるのか?
これこそが原罪ではないか!
二度取って食べたのである。
エバが食べなかったら原罪など存在しなかったのである。
だから堕落論は、冒頭から原罪=罪の根について語り始めるのである。
今まで人間の中に深く根を下ろし、休むことなく人間を罪悪の道に追いこんできた罪の根がいったい何であるか、この問題を知る者は一人もいなかった。ただキリスト教信徒のみが、聖書を根拠として、人間始祖アダムとエバが善悪を知る木の果を取って食べ、それが罪の根となったということを漠然と信じてきたのである。
堕落論 第一節 罪の根
善悪知るの木の果を取って食べたというのは、天使と人間との淫行関係であったと原理講論は記述している。
初めに天使と淫行関係を犯した張本人はエバである。
だから女性史は悲惨であった。
蕩減の道を行かざるを得なかった。
我々は、既に述べたように、人間が天使の誘惑に陥って堕落したという事実、人間も天使もみな淫行によって堕落したという事実、その上にまた、被造世界においては、霊的存在であって、お互いにある情的関係を結ぶことのできる存在とは、人間と天使以外にはないという事実などを結びつけてみるとき、人間と天使との間に淫行関係が成り立ったであろうということは、容易にうなずくことができるのである。ヨハネ福音書八章44節には「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と記録されている。そして、黙示録一二章9節には、悪魔はすなわち、サタンであり、サタンはすなわち、人間を誘惑した古い蛇であると明示しているのである。このような聖句に基づいてみるとき、人間は悪魔の子孫であり、したがって、サタンの子孫であるがゆえに、結局蛇の子孫であるということになるのである。では、人間はいかなる経過を経て、堕落した天使、すなわちサタンの子孫となったのであろうか。これは、人間の祖先が天使と淫行を犯すことによって、すべての人間がサタンの血統より生まれるようになったからである。このように、堕落した人間は神の血統ではなくサタンの血統をもって生まれたのでロマ書八章23節には「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分(実子でなく養子として)を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と記録されているのである。また、マタイ福音書三章7節には、洗礼ヨハネがユダヤ人たちを見て、「まむしの子」、すなわちサタンの子孫であると叱責し、また、マタイ福音書二三章33節においてイエスがユダヤ人たちを見て、「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」と叱責されたという記録がある。このような聖書の記録に基づいてみると、我々は、天使と人間との間に淫行関係が結ばれ、それが堕落の原因になったという事実を知ることができるのである。
(3) 天使と人間との淫行
霊的堕落も淫行、肉的堕落も淫行なのである。
当たり前すぎて、説明している自分が嫌になるほどである。
エバが善悪の果を取って食べたということは彼女 がサタン(天使)を中心とした愛によって、互いに血縁関係を結んだということを意味するのである。
霊的堕落のみでは、原罪にならないというのは誤り。
お父様の言葉尻を捻じ曲げて韓鶴子オモニが肉的堕落を精算された「独生女」として生まれてきたとするのは誤り。
肉的堕落を霊的堕落より重んじるのは、唯物論的発想である。
神様との情的関係よりも、また将来実体の神になる予定のアダムとの情的関係よりも、
天使長との情的関係をを結んで、心情的堕落をエバは犯した。
それが天使長との淫行関係を結ぶことに進んだのであった。
何故、絶対信仰・絶対「性」・絶対服従
これをお父様は夥しいほど語られてきたのか?
アダムとエバが天国に住むことができるか、
あるいは天国を失い地獄に落ちるか
それこそが、神とサタンの一線であったからである。
秋山真之ならばかく言うことだろう。
「神国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
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