創造原理 相対基準と日常生活のコミュニケーション
相対基準という言葉は非常に含蓄のある言葉である。
「相対」というのは相手という名詞の意味と、相手にするというような、対応するとか呼応すると言うように動詞的な意味も含んで表現しているように感じられる。
また「基準」というのは平たく言えば、程度と考えることができる。
相対基準の「相対」と「基準」の間には「関係」が省略されていると私は考える。できるだけ簡潔な言葉で表現したかったためであろう。
そこで、「相対基準を造成する」と言うことは、
「相手に対応するために、あることについて関係の程度を合わせることである」というふうに表現できる。
一言で言えば「同調する」と表現できると考える。
さて、四位基台の概要をを以下に記す。
正 中心・・・・・・・・・・神ー心情
ー創造目的
↓ ー構想理想
→
分 主体 授受作用 対象 (挌位)
←
↓
合 統一体(統一原理や統一思想では合成体)
授受作用について原理講論は以下のように書いている。
あらゆる存在を造っている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、よく授けよく受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、即ち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。このような過程を通して、力を発生せしめる作用のことを授受作用という。故に万有原力と授受作用の力とは、各々原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという、相対的な関係を持っている。従って、万有原力は縦的な力であり、授受作用の力は横的な力であるともいえるのである。
原理講論 P50~P51
つまり、
神の心情目的を追求し実現する、万有原力を中心として
↓
主体と対象が
↓
相対基準を造成して
↓
授受作用すると
↓
授受作用の力が発生して
↓
四位基台が造成される
そこで、授受法におけるキーワードに着目してみると
コミュニケーション・カウンセリング・コンサルティング・アファメーション・コーチングなどや、対象や現象に振り回されない本当の自己の獲得の手懸かりも見えてくるように思うのである。
カウンセラーやコンサルタントを生業にしている信徒もそこそこいるようであるから、ぜひ多くの信徒が信仰生活に活用できるように纏めていただきたいものである。
私が苦手なコミュニケーションは一般信徒にとっても重要な分野である。そこでざっくりお話ししたいと思う。
相対基準について上述したことを繰り返せば、
「相手に対応するために、あることについて関係の程度を合わせることである」というふうに表現できる。
一言で言えば「同調する」と表現できると考える。
であった。
そこでいくつか思いつく「あること」を拾ってみることにする。
1,相手の関心に同調する(合わせる)
授受作用は世の中の表現では相互作用となるが、この言葉であるとどのような相互作用かがわかりにくい。
主体と対象間の授受作用は、主体が先に動き(主動性)、具体的には与えるという特徴を持っている。
ここでは「与」という漢字ではなく「授」が使われている。後者は上位の者からから下位の者に特別な物を与える時に使われることが多い。
主体が対象に特別な物、つまり贈り物を与えることが「授ける」ということになる。
特別な物を別の言葉にすれば「愛」と言っても良かろう。
つまり、授受作用というのは、通常の相互作用や相互交流を指すのではなく、愛を目的とした相互作用や相互交流である。「愛し合う」ということである。
常に主体が対象に与え続けるのではなく、主体が与えることを契機として、対象も主体に与え返すようになり、相互に与え合う関係が続くのである。
さて、私のように相手とコミュニケーションをとることが得意ではない場合には、「愛する」行為の前段階として「関心を注ぐ」ことが必要なようである。
関心の先に愛があると考えられるからである。
この関心であるが、単に相手に関心を持つことに終わらず、相手の関心に関心を持つことが大切である。
日常生活では 「今日も暑いですね。」「本当ですね。」などのような会話がイントロとして始まり、そこで自然に相対基準が造成され、実質的な会話に移っていくことがある。
相互作用や相互交流がしっかりと行われる段階に至るためのきっかけのようなものが相対基準が造成される際の一面である。
2,相手の言葉に同調する(合わせる)
言葉に合わせるというのは、行為としては「頷く」ということや「相槌を打つ」ということなどがある。
言葉の音楽に合わせる面がある。
音楽というのは、テンポやリズムや抑揚や間などを指す。
言葉の発生された声に合わせる面がある。
声には元気な声、悲しい声、つやのある声、真剣な声と色々ある。
つまりどのような感情を伴って発せられた言葉であるか、その感情にあわせるということである。
これが実に重要であるが、人によっては、無意識にいとも容易くやってのける方もあり、意識しても私のような体たらくの方もいる。
3,相手の表情に同調する。
同調するというと、先ず相手の動きがあってその後にそれに応じてと考えるのが普通であるが、先でも変わらないと考える。
表情というのは具体的には、眼差しや笑顔などであるが、暖かな眼差しや穏やかな微笑みを浮かべて相手の話を聴くということには、当然「あなたを無条件で受け入れてますよ。」というようなメッセージが送られているようなものであると思うのである。
4,相手の身振りに同調する。
相手が身を前のめりにして話すならば、私も前のめりになって聴く。
あいてが身振り手振りで話すなら、こちらも応じて同じようにして聴く。鏡にでもなったような感じである。
5,相手の準備状態や許容度に合わせる。
われわれには話し出したくてもすぐに話せないときもあるものである。そんなときせかされたり、途中まで話していて言葉が詰まっていたら、わかるわかるこうだろうとか、さえぎってこうしたらいいと最後まで聴かず言われたら、それ以上先を話す気がそがれるかも知れない。
いつまでもいつまでもじっと話し出すのを待ってくれて、大丈夫ですよゆっくり話してくださいとでもいうような、暖かい沈黙を与えてくれたら、安心して話す気になることであろう。
また、相手が一つのことを受けとめきれず、理解できないでいるのにお構いなしに次々と話を続けていくことも困ったものである。
簡単なことならともかく、仕事の手順であるとか、さらにもっと複雑なことを話す際は、気をつけなければならないことであろう。
さて、以上に述べたようなテクニックやスキルというようなものを20も30も並べてみたところで、愛がなければ全く意味をなさない。
授受作用や相対基準の本質が愛だからである。
反対にこのようなスキルのようなものを一つも解さず、融通無碍、自由自在にコミュニケーションをとることができる方が世の中にはいる。
文鮮明 恵父も、勿論人生経験の中で色々研究はされてこられたこととは思うが、基本的には心情を重視されているはずである。
師は開拓伝道について助言するとき、任地に着いたらそこで一番気の毒な老人を探し出して、その方の苦労された話を、自分がまさにその話を聴くために生まれてきたのだという心情圏に立って聴きなさいといった旨を語られてこられた。
天の神様こそ最も惨めで悲しく侮られ見捨てられてきた老人に他ならないからなのかも知れない。
このひとときの傾聴に生涯の意義をもって臨む。これこそ文鮮明 恵父の実践され教え示された傾聴の本義である。
しかるにこれをもって基準とし、相対することを相対基準というのである。イエス様や文鮮明 恵父が人の永遠の命を思って接せられる、その心情の境を慕い求めていきたいものである。