創造原理 心情から見た三対象目的と四位基台
三対象目的という言葉は、原理講論の文章を何度読んでも、深い内容がわかりにくい箇所である。
原理講論には以下のように書かれている。
(2)三対象目的
正分合作用により、正を中心として二性の実体対象に分立された主体と対象と、そしてその合成体が、各自主体の立場をとるときには、各々残りのものを対象として立たせて、三対象基準を造成する。そうして、それらがお互いに授受作用をするようになれば、ここで、その主体を中心として、各々三対象目的を完成するようになる。
実にわかりにくい文章である。訳がこなれていないのかも知れないと念のために英語の方も見てみたがさして変わりはなかった。
「三対象基準を造成する」というのは、三つの対象と相対基準を造成するという意味であろう。
しかし、三対象目的の「目的」が一体何をさしているのか意味不明である。これがどうやらこの文章を難解にしているように思われる。
対象という言葉には目標というニュアンスがある。そこで、くどいいい方ではあるが、外的な目に見える目標としての相手が対象ということになるのであろう。これに対して、内的な目に見えない目標として目的がある。
では何がその目的を指向しているのか?
それが心情であると想像することが自然であると思われる。
心情が原力であり、愛が作用である。
心情が動機となり発生した思いや言葉や行為が愛である。
そこでイエス様は愛するという動詞で表現されてこられた。
この愛の目的を達成するための目標である相手が対象である。
統一原理のテストでは原理講論どおりに回答すれば合格であろう。
しかし、この文章が「私」や「私の人生」にどう関わっているのか明らかにされないのなら、神棚に飾って有り難やと奉っているようなもので意味を成しはしない。
ところで、原理講論が三色刷のものしか存在しなくなったことは、誠に残念なことである。こういうタイプの原理講論があっても良いとは思うが、従来のようなタイプの存在を抹殺するというのは如何なものであろうか?理解に苦しむところである。
何処が重要であるのかはわかりやすくて良いのかも知れないが、それによって読む人の視点が固定してしまいがちになり、原理講論の全体が有機的に関連性をもっていることが見えにくくなってしまう怖れがある。
真の御父様の御跡を訪ね求めて、自分の言葉として復帰して行くことが疎かになる危険性がある。
人頼りになってしまったり、権威などに依存した生活を継続して行くと、自身の主体性が骨抜きにされてしまう。御言葉は自分自身が真剣に向かい合って、実践の中で真意を求めていく以外に道はないように思われるからである。
若い頃、修練会に参加した時のことである。
違うかも知れないが、たぶん現在の徳野会長の弟さんではないかと思うが、講義の休憩中にノートを広げておられた。
何気なく覗くと、ノートには原理講論の文章が抜き書きされていて、何らかの意味がある文章群を丸く線で囲んでいた。
そして、その線で囲んだ文章群と次にまた書いた文章群を矢印で結んだりして、関係性や構造を本人なりに整理しているようであった。
ものぐさの私とは大違いだとたいそう感心したものである。
史吉子先生にご尽力いただきたいのは、もし現存するなら、原理講論の3倍の分量であったという草稿の刊行である。
副教材としてこれ以上重要な文献はないはずだからである。
時を改め、光言社に対するいくらかの希望を述べてみたいと思う。
さて、三対象目的は実際には四位基台においてそれぞれ、中心・主体・対象・統一体の挌位毎に三対象目的が存在し、4×3の合計で12対象目的が存在している。
心情は目的指向性と情的結合性を特徴としている。
対象に働きかけ、至福にいたらしめたいという情的な衝動が心情であり、心情という原力から生じた愛の作用が通る基本的な道筋が12パターンあり、それぞれに名称を付けることができるということである。
この点に功績があったのが儒教であろう。
孝であるとか忠であるとか悌であるとかである。
統一信徒の中で儒教に詳しい方が解説されることを期待したい。
しかしくれぐれも気をつけなければならないのが、形式が重要なのではなく、形式で表現する心情に価値があるということである。
これを逸脱すれば直ちに形骸化し様々な支障をかえって生じるようになるからである。
律法主義者パリサイ人というわけである。
先日、ある寺の400年間続いた黄檗宗の最後の後継者が亡くなられた。ご本人は随分修行したとおっしゃられていたが、仏教についてとりわけ造詣が深いというようには見受けられなかった。
お堂はボロボロで床が抜けそうなくらいで、傍らにある二棟ある小さな家も古びていて、トイレなども今時こんなトイレがまだあるのかと思うほどの有様だった。
結婚しないので一代限りで終わり、法灯を血のつながらない方が受け継いで行く、代々乞食坊主といった感じで、生きるのが精一杯の中で仏の道を求めて十数代と聞く。
ついに一棟の屋根が崩れ落ちてしまった。
質素でいいからお堂を建て直したいと思っておられたが、自分以上に困っておられる人に遭遇して、とても人のことを心配できる立場ではないにも拘わらず、問題の解決に奔走され心血を注いでおられた。
こういう心情を「惻隠の情」という。
たとえ一切経に通じていたとしても、この惻隠の情に通じていないとしたら、とても残念なことであろう。
手を合わせたくなるような立派な御方であった。
われわれもこの御方や文鮮明 恵父のように、そのような心情を体得すべく精進したいものである。
授受法を時間の視点で見れば正分合作用、
空間の視点で見れば四位基台であった。
原理講論には四位基台について
(3)四位基台
このように、正分合作用により、正を中心として、二性の実体対象に立たされた主体と対象と、またその合性体が各々三対象目的を完成すれば、四位基台を造成するようになる。
四位基台は四数の根本であり、またそれは、三対象目的を完成した結果であるので、三数の根本でもある。四位基台は正分合作用によって、神・夫婦・子女の三段階をもって完成されるのであるから、三段階原則の根本となるのである。四位基台は、その各々を中心として、各々三対象となるので、これらを総合すれば十二対象となる。故に、十二数の根本ともなるのである。また、四位基台は、創造目的を完成した善の根本的な基台でもあるので、神が運行できるすべての存在と、またそれらが存在するための、すべての力の根本的な基台ともなる。従って、四位基台は神の永遠なる創造目的となるのである。
正分合作用 家庭的四位基台
正 中心・・・・・・・・・・神ー心情
祖父母 ー創造目的
↓ ー構想理想
→
分 主体 授受作用 対象 (挌位)
父(夫) ← 母(妻)
↓
合 統一体(統一原理や統一思想では合性体)
子女
中心挌位の祖父母という立場で
→父
→ 母
→子女
主体挌位の父という立場で
→祖父母
→母(妻)
→子女
対象挌位の母という立場で
→祖父母
→ 父(夫)
→子女
統一挌位の子女という立場で
→祖父母
→父
→母
時空間の地上世界では、12のバリエーションに顕現する神の愛を体得し実践することによって、本来まるごと一つの神の愛を相続するのが家庭生活の意義である。
そこで家庭は天国の雛形となるのである。
12数から天国を意識すると、ヨハネによる黙示録の12の真珠門を思い浮かべるであろう。
ヨハネによる黙示録21章
12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には十にの使徒がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。
12の門であるから、星座の占いのように12タイプの人がそれぞれの入り口である門を通るという説明がある。
さらに様々な説明があることであろう。
ところで、空港において、何番ゲートから入ろうが、何番の搭乗口から入ろうが、その目的達成とは関わりがないように、イエス様がおっしゃったように「天国はあなたがたの(心の)ただ中にある」ということが真実であるのなら、天国という場所の入り口を問題にする前に、天国生活を楽しむことができる心情の体得が重要となることは明らかである。すなわち、入国資格と入国手続きの問題のことである。
私見では、我々統一信徒にとって、聖書の記述の成就としての十二部族のいずれかに編入することも重要な事ながら、真珠門より12の心情門が大切であるように感じられる。
天国は個人単位で行くところではなく、家庭を最小単位として入国するものである。したがって、「あなたの家庭は三代をもって12対象目的を達成したのか?」と一門ずつ種類毎に尋ねられ、通行許可証に判を押されるようなイメージである。
真珠門は時計の文字盤に書かれたそれぞれ12の数字が示す方向から、天国の円和理想圏に入っていくイメージであるが、
私が言う心情門とは、直線上に並べられた12の門のイメージである。
江戸時代で言えば関所のようなものである。
神の心情は、十二対象目的の経路に、様々な愛の形になって顕現し、家庭を構成する人々の個性に対応して、増幅しハーモニーを奏で、千態万象の造化の美が展開されるのである。
この十二対象目的を我々の人生行路において
子女の愛→兄弟姉妹の愛→夫婦の愛→父母の愛→祖父母の愛
というような愛情を体得して、それぞれ三対象を愛する心情を熟成させ完熟させて行くことになる。
家庭で育まれてきた愛の心情が、国家や世界と範囲を広げていく時に、
家庭での両親に対する孝は、国家では主君に対する忠、世界に対しては言葉がないがこれを実践する人を聖人という。
アブラハムやサラが諸国民の父や母となるというのは、家庭の父母が雛形となって国家次元の父母である王や王女が現れるようになるのである。
ところで人類始祖が堕落をしなかったなら、アダムとエバが父母となり、子孫が増えて国家を形成し、彼らはそのまま神の国の王と王女になったのである。神の国が世界でもあったのである。
さて、神は時空を超える絶対者であった。
神の子として生を与えられた人間は、地上生活期間には家庭の中に、象徴的ではあるが、同様の立場に立つのである。
上記の家庭的四位基台を見ていただくと
祝福を受けて家庭を持った、私達夫婦(父母)は現在を
上方の祖父母は先祖の代表として過去を
下方の子女は子孫を代表として未来を表現している。
我々は過去の歴史の結実体であり、未来の歴史の可能体である。
過去・現在・未来の統一体として家庭が現れたのである。
その点、象徴的ではあるが時空を超越しているとも言えるのである。
そこで家庭は、復帰原理にでてくる、縦的な蕩減条件を横的に蕩減復帰する事ができるのである。
父子の愛は縦的であったが、兄弟姉妹の愛は横的である。
この家庭における兄弟姉妹の愛を国家次元に推し進めれば同胞愛が生まれ、さらに国境を越えて世界に開かれる愛は友愛などと呼ばれることがある。家庭生活圏の愛の基礎が国民生活圏の愛の基礎となり、さらに世界生活圏愛の基礎となる。
そこで友愛というのは世界レベルの父母の存在を前提としなければならないのである。鳩山前首相の語る友愛にはこの重要な点が欠落しているのである。
修身斉家治国平天下という。
この思想の中核は統一原理からすれば家庭理想にあるのである。
時間軸で考えればこのような順番なのであるが、神様の心の中では始めに家庭があって次に個人がある。
この点が儒教思想と相違するところであると思われる。
家庭があって次に連体としての我々があるということである。
三代の伝統が必要であるのは、三対象目的が完成されるためには、三代がかかるからである。
したがって、神の眼から見ると三代で一つなのである。
アブラハム・イサク・ヤコブの神というのはそういうことである。
さて、家庭的四位基台の中心は祖父母である。
ところで中心は二つであって良いであろうか?
二つが並立する中心は存在しない。中心は一つと相場が決まっている。
このことは、父母のステージとは違って祖父母のステージでは、二人で一つの人格に融合していなければならないという事を意味しているのである。
二人に見えるようではまだまだだということであろう。
神様は縦的な世界におられたので、繁殖を体験できずにおられた。
人間の作った家庭の中で、絶対愛と絶対「性」を核として、12対象目的を成就すれば、それはそれぞれが円環運動を起こし、相乗して球形運動を生じる。
ここにご自身の愛を見出す中で神様は初めて永遠の安息を享受されるのである。人と神とが生活する世界が出現するのである。
我々一世は堕落世界にどっぷりと浸かって神とは関係のない放蕩生活を過ごしてきた。
したがって、厳密には二世を出発点として四世までの三代で神の御心を実現し、彼らに手を引かれるようにして、本然の世界に戻っていくことになるのであろう。
四位基台の天宙的意味は原理講論を参照されたい。