原罪に起因する性的誘惑と信仰 「お釈迦様にだって泥の中の蓮の華になれたか知れない」
NHkの西田幾多郎の番組を見て、西田に対する疑問を述べようと書いていたが、代表作の「善の研究」くらいはせめて読んでから語るのが礼儀と思い直して、数日前に筆を止めていた。
たくさんの方が更新もしないのに、訪問されているのを知って、先に北海道大学大学院の研究科助教の猪瀬優理先生の「信仰はどのように継承されるか 創価学会に見る次世代育成」という本の読後、そこに書かれていたことに触発されたことどもを先程まで書こうと思っていた。
しかし、何故かある霊能者との想い出を書くことにした。
私自身は一切自分が何かを信仰していることは、その方に話してはいなかった。故郷の東京に上がる際には、信仰の話をしてみようかと考えていたが、どうやら数年前に亡くなられたようである。
その方は少女時代にキリストのように鴨川の水面を歩いて渡ったことがあり、地元の新聞に取り上げられたことがあったという。
1/4だっただろうかロシア人の血を継いておられ、肌は透き通ったように白く綺麗であられた。
サイババが金粉を掌から出すというので、会ったことがあるという。
金粉どころか灰のようで、全く綺麗ではなく驚いたそうである。
先祖にロシア正教の篤信者が多くいて功労がたくさんあったのであろうか?この方が祝詞をあげていると、両手の指先からから黄金の糸がぱっといくつも広がりでて宙を舞い、信者達は皆驚き、布教のために必要な献金はたくさん集まったそうで、単に霊能力では教祖をも凌いでいたという人もいる。
ところがある時、手かざしをしていると、そこに映像が現れたのである。
教祖と教祖に仕えていた女官が小指を絡ませている映像であった。
もしやとはっとして、女官を呼び寄せ問いただすと、彼女は泣き崩れたのである。どちらがどうのという詳しい話は知らない。
結局、この女性は養女として教祖にひきとられたという。
日本ではどうもこの手の裏技が使われることがあるようである。
法的には養女、実質は内縁の妻。
ところで、これとは別に私が仕事のお手伝いをすることになった会社の常務が、過去にこの教団の信仰をされていて、この事件をご存じであった。ご本人には霊通する力はないが、神社で写真を撮ると不思議なものが必ず映っているという方である。毎回というのが偶然とは思えない点である。
本部からは離れた地方にも霊能者がいて、神様からこの件を知らされていた、そこで常務はこれは一大事と、霊能者と共に本部に上がっていったと聞く。
結局門前払いだったようだが、この件を先程の霊能者が聞いて、あの男があの時のと驚かれた。非常に危険な男だというのである。
つまりこうだ。
一般の信者さんは純粋に信仰している。教えは正しい教えである。波風を立てて関係のない信者さんをいたずらに煽り不安に陥らせ、その信仰に必要のない試練をもたらすのは、問題であるということである。
さてどちらが正しいのであろうか?
堕落して善悪を知る中間位置に陥ってしまい、善にも悪にも相対するリーダーになって、神とサタンの二人の主人を持つに至ったのであるから、より善の立場のアベル的勢力とより悪の立場であるカイン的立場の勢力に分立して、新しい指導者を立てて再出発させたいというのが天の御心なのかも知れない。
そうだとすれば残念ながら教団は二つに分裂するであろう。
あるとき「泥の中の蓮の華」の話を私が投げかけた。
ところが、思いの外、否定的な言葉をこの霊能者が発言した。
「泥の中の蓮の華なんて、お釈迦様にだってできたかどうかわかりゃしない。」
その言葉を聞いて、尊敬していた教祖様が堕落してしまい。また教団を離れて娑婆世界を渡る中で、いかに真実に生きることが難しいか、実感のこもった背景のあることを感じたものである。
この方はさすがにご自身のことはよくわかっていると見えて、ご自分がトップになろうとはしなかった。おそらく自分は二の位置でトップを支える時に最も力を発揮すると理解されていたのであろう。
真理の道に志し、道半ばで離れていく求道者を見ることは、身が引き裂かれるように痛ましい。
この方が立派だと思うことは霊能力だけを頼みにするのではなく、
これと照合して裏を取るための理論を求め、諸葛亮孔明の遁甲という占いを学んでおられたことである。
私が伝道した霊の子女に四柱推命や易をする者が有り、三代前のご先祖が真言宗の大阿闍梨で、この方と霊通している。
面白い一致である。
実際には家に住んでいるというような感じである。
久しく会っていないので最近のことは詳しくは聞いていない。
さて、教祖様も立派な方であったことであろう。
どんなに実績のある人物でも、たった一度の過ちで後退してしまう試練が男女問題であろう。
イエス様や文鮮明 恵父が心情のかけらも天法に引っ掛からぬ基準で、愛の問題を超えてきてくださったので、人類には未来が見えるようになったのである。どれほど偉大なことであろう。
私の住む市に、生前中教会で多くの信徒に講義をされてきた6,000双の男性の残された家庭がある。
最近娘さんが天に召されたお父さんと会話するようになった。
娘さんが訓読をしていると父親に話すと、できれば敬礼も50回ぐらいできるといいねと話したという。
この話を聞いて、一世は霊通することが逆にサタンの試練となってマイナスに転ずる危険性があると思うが、二世は我々とは違い原罪が精算されて生まれてきているので、試練はより小さいと思われる。
また、今後は片方の親が霊界に行かれている場合は、その子供と霊通することが多くなることであろう。
我々には水面を歩く奇跡も、空中浮遊も必要ではない。
ひとはとかく現象に目を奪われるものである。
現象を引き起こす本質に価値があることを肝に銘じたいものである。
真の父母様は奇跡による復帰の道を捨て、至誠の積善によって蕩減復帰の道を威風堂々と歩まれた御方である。