21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
マタイによる福音書16章21節~28節
イエス様はかってこうおっしゃられたのである。
26 For what profit is it to a man if he gains the whole world ,and loses his own soul?
Or what will a man give in exchange for his soul?
人 たとえ全世界を得るも、かけがえのない魂を失えば何になろうか?
人 如何なる代価を支払って、永遠の命を取り戻せようか?
しかし、私は言いたい。
人 たとえ永遠の命を得るも、かけがえのない母を失えば何になろうか?
人 如何なる代価を支払って、真の母を取り戻せようか?
チャングムは大妃様に何と言ったのだろうか?
「大妃様は(息子の)王との賭をされておられます。」
同様に、亨進様は
お母様はお父様との賭をされておられる
と言うのである。
チャングムの大妃様に対する診断の見立ては
「大妃様のご病気は一刻を争う状態でございます。」
同様に、お母様のご病気も一刻を争うものだと亨進様は案じておられるのである。
「人を言い当てる問題です。誰かをお当て下さい。」
「その人は古くからの食医であり、古代明国の皇帝の食医の起源はその人だそうです。一家のぬひとして奴婢として辛い仕事をしましたが、同時に、一家の師匠でもありました。その人の存命中この世は安泰でしたが、亡くなるや全世界が水に沈んだという伝説です。誰かお当て下さい。しかし、ご病状が心配なので猶予は一日だけです。」
亨進様も人を当てる問題を出されているのである。
大妃様が
「だが 私が当てたら・・・私を侮辱した責任は取って貰うぞ。」
と言うにもかかわらず、チャングムは
「肝に銘じます。大妃様。」
「ですが 大妃様は必ず治療を受けます。」
亨進様
「肝に銘じます。お母様。」
「ですが お母様は必ず治療を受けます。」
大妃様は呆れて
翌日答えが判明したが大妃様はお答えにならなかった。
なぜならその答えが「母」であったからである。
「本当に とんでもない子ね。」
「考えるほどに無礼この極まりない。」
亨進様もまた外的に見れば
「考えるほどに無礼この極まりない。」
「おまえが説明せよ。」
「構わぬから 説明せよ。」
「この女性の主な仕事は食医だと言いました。」
「母は子の体調・食事・着物・睡眠のすべてに気を遣います。」
「食医とは王が召し上がってはならぬものや、どんなものがお体に良いかを考え、昼夜を問わず王のご健康を考える仕事です。それゆえ 古代明国の食医の起源は”母”です。ですので 大妃様は王の母であり食医なのです。また 一家の奴婢のようであっても 実は家族全員の師匠であるというのは、母は寒くとも子には服を着せ、母はひもじくとも子には食べさせ、母は辛くとも子には楽をさせ、子のために 奴婢よりつらい思いをします。しかし 母の慈しみがなければ、子は食べ物や着る物を何一つ得られません。ゆえに 母は一家の最も辛い奴婢であり、誰よりも立派な師匠なのです。」
「その方がいれば天下は安泰だが、亡くなれば天下が水に沈むというのは・・・」
大妃が分け入って、
「私が生きている間は王を支える山となり、私が死ねば・・・王の涙が海となる・・・母である私が王の苦悩を無視するわけにはいかぬ。」
亨進様が先頭に立って闘っておられるのは、
誰が本当にお母様を永遠にして絶対に愛しているかという戦いである。
チャングムは身を捨てて
誰よりも大妃様を愛し
誰よりも王を愛し
誰よりも王妃を愛し
誰よりも師を愛した。
そこに道が開かれたのである。
亨進様の歩みは我々信徒の立場ではどうとらえるべきであろうか?
コンフェッションである。
亨進様はご自分の罪の悔い改めから始めて下さった。
かって天に逝かれていた興進様が、地上に生活する食口があまりにも罪に陥っている事を憂い、哀れみを持って救いのため、イエス様が準備しておられたBodyを用いて罪の告白と万軍の主としての権能をもって贖罪の役事をされた。
いわゆるコンフェッションである。
当時のあるブロック長が語っていたことは、
「このままでは天国を創ることも、天国に入ることもできないと思っていた」
今日の教会の情況がまさにそっくりなのである。
そのとき救いの手を差し伸べてくださったのが興進様であった。
しかし、興進様がそのBodyから抜け出た時に、信徒がそれを知らずに傅く(かしづく)ことに味を占めたことから、このBodyにサタンが侵入して犯罪行為を繰り返した。
この教訓は
大母様が地上人に降りて救いの役事を果たす際も、同様な試練を与えかねないことを暗示しているのである。
大母様が離れた時に勝手なことを話ししようとする試練。
お母様に相談されるようにでもなれば
真の母さえ私に傅くのではないかという悪魔のささやきに捕らわれるかも知れない。
霊通とは何か?霊通者とは何か?
長成的信仰の限界を持つ者のことである。
肉→霊→心情 の三段階の途上に立つ人のことである。
霊能者であることと心情を知る者であるかどうかは、全く別問題である。
むしろ、心情がわからないことが多いのである。
そこで彼らには彼らが体験した霊的現象を別の人物が心情によって解説してあげなければ悟ることができないのである。
霊とはそういうものである。
しかし、お父様と一体化されておられる、亨進様には霊能者が必要なのではなく、Bodyも御自身の肉身があるので充分である。
ここにわれわれの希望があるのである。
ソウルに亨進様の教会が建てられたと言うことは、エリコ城外壁の外側まで主の進軍が為されてきたことを意味している。
いよいよ時が来たのである。
これを阻止するものはイエス様がペテロに言われたように亨進様からお叱りを受けることだろう。
「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
イエス様は語られた。
「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」
神は独り子を世のために捧げられた。
全人類よりも価値有りとしてサタンはたった一人をものにする取引に応じた。
一体我々全ての信徒の命や永遠の命を捧げ尽くしても、真の御父母様に愛された御恩をお返しすることができようか?
聞き給え!
人 たとえ永遠の命を得るも、かけがえのない母を失えば何になろうか?
人 如何なる代価を支払って、真の母を取り戻せようか?
イエス様は語られた。
「その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。」
否!
「その時には、実際の行いに応じて、真の御家庭の愛に報いるであろう!」
アージュ。