読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

非原理的愛と自由と堕落    原理的愛と自由と復帰 そして心情

www.youtube.com

アンドレ・ワッツによる「ラ・カンパネラ」(鐘)です。

パガニーニのバイオリンの曲をリストがピアノ風にアレンジしました。

特に関係はございませんが、わたしはワッツの弾き方が一番好きです。

最近の方の演奏はほとんど知りませんが、何か精神性を感じさせてくれます。

 

 

原理講論の自由の記述には、何か心にひっかかるものがある。

一体このひっかかるような感覚はなんなのだろうか?

私にはどこかすっきりしないのです。

誰もが自由と堕落の説明を見て、よくも整理されているものだと感心するものでしょうけれども、記述されている内容の整合性に対して違和感を私も抱いているわけではないけれども、何か不自然さを感じてきたものです。

 

どうやらそれは、原理講論では人間堕落を念頭にして、自由を扱っているからのように思うようになりました。

つまり、堕落論という枠組みの中で自由を考えるのではなく、創造原理の中で自由というものを考えることはできないものかということです。

 

そういえば十代の頃、友人と彼の義兄である画家と私で「自由」について話し合ったことがありました。

自由そのものをどのように理解していたかは忘れてしまいました。だが、

その話の中で私は、「理想と現実」という言葉が相容れないものとして、対立的に使われているのは、自分にとって不自然なように感じられるといったようなことを語りました。

つまり、「現実の延長線上に理想があるという感覚」ではないかというような趣旨でした。

すると画家は言いました。

「その考え方は実存主義的だね。」

アンガージュマン』という言葉があって「投企」などと訳されていたかと思いますが、ここにコンパクトにまとまっていました。

 

ENGAGEMENT

(あんがーじゅまん engagement)

 

人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。

---サルトル

この概念[アンガージュマン]はさまざまに解釈が可能であり、 その意味は必ずしも一義的ではない。 このことばには、単に〈参加〉という訳語だけではなくて、 〈政治参加〉〈社会参加〉〈現実参加〉〈自己束縛〉〈責任敢取〉〈かかわり〉など、 さまざまの訳語があてられている。これらの訳語にうかがわれることは、 現実を遊離して行きるのではなくて、 むしろ現実そのものにかかわって生きるということである。

---市倉宏祐

 

さらに、サルトルの言葉が引用されていてわかりやすいかもしれませんので、続きを引用します。実存主義は統一思想の本性論にでてきますね。

 

サルトルの用語。 フランス語なのでengagementは「アンガージュマン」と読む。 英語ではcommitmentと訳されることが多いようである。

通常、アンガージュマンは政治参加と解されるが、 より一般的には、或る選択(たとえば結婚)を主体的に行なうことである。 日本語では最近、コミットするという言葉が使われたりするが、 アンガジェするというのはこれとよく似た意味と思われる。

サルトルによれば人間には本質がもともと備わっているわけではなく、 各人の人間性あるいは「自分らしさ」は選択と行動を通して現実化する (「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」翻訳41頁、 「行動のなか以外に現実はない」同60頁)。 アンガジェすることは自分で自分を規定することである。 それゆえサルトルは、 人々は自分が自由に選択できることを自覚し、 積極的にアンガージュマンしていくことを勧める。 たとえば、結婚すること、仕事につくこと、政治参加をすること…。

このとき、「自らの意志で選び取る」ことが重要で、 まわりに流されて行動すると、「人間の自由から目をそらす不誠実な態度だ」と サルトルから非難されるので注意。

アンガージュマンにはもう一つの重要な側面があり、 自分が或る選択をすることは、 他の人もその選択をなすべきだと主張することになるとサルトルは言う。だから、わたしが自分の結婚生活において一夫一婦制を選ぶなら、 わたしはそれを人間の理想像として提示することであり、 わたしがベジタリアンになるなら、 それが人間の理想像であると主張することになる。われわれが選ぶものはつねに善であり、 何ものも、われわれにとって善でありながら万人にとって善でない、 ということはありえないのである。翻訳44頁

この主張はカント道徳の普遍的立法ヘアの普遍化可能性を思い起こさせる。 しかし、この主張が多元的社会や寛容という発想と両立するのかどうかなぞである。

10/Feb/2002

 

要は我々で言うところの自己主管であり自己創造のことです。

 

さて、自由というものを創造原理的な立場から考えていく場合は、かえって「主体性」から出発したほうがわかりやすいのではないかと思われます。

主体性の中身として、原理があり、責任があり、実績があるというように見ていくといいのではないでしょうか?

ここで言う主体性とは主管性と言っても差し支えない。

主管というのは愛による主管でした。

 

(一)自由の原理的意義
 自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というものも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない。したがって、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである。
 第二に、責任のない自由はあり得ない。原理によって創造された人間は、それ自身の自由意志をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成する(前編第一章第五節(二)(2))。したがって、創造目的を追求していく人間は、常に自由意志をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はあり得ないのである。
 第三に、実績のない自由はない。人間が、自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績を上げようとするところにある。したがって、自由は常に実績を追求するがゆえに、実績のない自由はあり得ないのである。

 

 

キリスト教においても仏教においても瞑想というものが重視されてきました。

前者では特に修道会において、後者では禅などにおいて知られるところです。

人間はサルトルが考えていたような主体的存在である前に、対象的存在であると彼らは考えました。

神の前に対象であるというか、仏の前に対象であるとかです。

その対象性というものは「絶対」でありました。

人間存在は、何よりも神や仏の「絶対対象」として立って、初めて真の主体性を獲得し、「絶対主体」として立つことができるというものでした。

また、この関係を天の父と子たる私と父子の関係として、天宙の根本原理であるとされたのが、イエス様であり、その内容を極められたお方がお父様でした。

 

人類始祖のアダムとエバは、神から天命を受けました。

だが、この命令は強制ではありませんでした。

強制ではなく祝福に満ちた言葉でした。

全てのはじめに神の愛がありました。

人間の自由と堕落を考える前に神の愛はどこにいったのでしょうか?

つまり、原理講論は自由意志を重視します。

サタン側は非原理的愛+非原理的自由(私的自由)で試練してくるのに対して

神側は原理的自由(公的自由)で克服できるというのでしょうか?

原理的自由は本心の自由とここでは書かれています。

愛が足りません。

 

(二)自由と人間の堕落
 前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。したがって、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリント・三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由というのである。
 アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという戒めを受けた以上、彼らは、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。したがって、エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求するその本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用したのである。また、堕落したのちにおいても、この本心の自由は、神の前に帰るように作用したのであった。したがって、人間は、このような作用をする本心の自由によって、堕落することはあり得ない。人間の堕落は、どこまでも、その本心の自由が指向する力よりも強い非原理的な愛の力によって、その自由が拘束されたところに起因するのである。すなわち人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである。しかし、堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まるというのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。ゆえに、人間が自由を求める目的は、自由意志による自由行動をもって、原理的な責任と実績をはっきりと立て、創造目的を完成しようとするところにあるのである。

 

 

「 人間の堕落は、どこまでも、その本心の自由が指向する力よりも強い非原理的な愛の力によって、その自由が拘束されたところに起因するのである。」

として一体原理的な愛はこの時どこにいってしまったのでしょう。

もし、原理的な愛が非原理的愛より強く働いていたら、本心の自由は拘束されるはずはないではないか?

 

我々に自由があり、我々の堕落とどのような関係があるかということは、重要な事ではあるが、それ以上に重要な事は我々が如何にして、本心の自由意志と自由行動で原理的責任と実績を果たすことができるかでしょう。

そうすると、我々信仰をする者にとっては、堕落論だけの自由の理解では不十分ではないかという疑問が起こってきます。

そこで、続きを見てみましょう。

 

(三)自由と堕落と復帰
 天使は、人間に仕えるために創造された。したがって、人間が天使に対するのは、どこまでも人間の自由に属する問題なのである。しかし、天使から誘惑された当時のエバは、いまだ知的、あるいは心情的に、未完成期にいた。したがって、エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって誘惑されたとき、彼女は責任と実績を追求する本心の自由によって生ずる不安を覚えたのであるが、より大きい天使との愛の力によって、堕落線を越えてしまったのである。エバがいかに天使と自由に対したといっても、取って食うべからずと言われた神の戒めのみを信じて、天使の誘惑の言葉に相対しなかったとすれば、天使との非原理的な愛の力は発動し得ず、彼女は決して堕落するはずがなかった。それゆえに、自由が、エバをして、天使を相手とし、堕落線まで引っ張っていったことは事実であるが、堕落線を越えさせたものはどこまでも自由ではなくして、非原理的な愛の力であったのである。人間は、天使に対しても、自由をもって対するように創造されていたので、エバがルーシェルに対するようになり、それと相対基準を造成して、授受作用をするようになったとき、そこに生じた非原理的な愛の力によって、彼らは堕落したのである。それゆえ、これとは反対に、堕落人間も自由をもって神に対して相対的な立場に立つことができるのであるから、真理のみ言に従って、神と相対基準を造成し、授受作用をするようになれば、その原理的な愛の力によって、創造本性を復帰することができるのである。既に述べたように、人間が本性的に自由を叫ぶようになるのは、このようにして、創造本性を復帰しようとする、本心の自由の指向性があるためである。

 

 多くの家庭連合の信徒は、真理のみ言葉の訓読生活をして、神と相対基準を造成して

授受作用し、そのに生じる原理的な愛の力によって創造本性を復帰する事ができるという。

だが、何故彼らはお父様を見失うのだろうか?

この記述では何かが足りない。

 

一番知りたいところなので

もっとすっきり説明して欲しいところです。

まるで循環論法のように迂遠でまどろっこしい。

  

 人間は、堕落によって無知に陥り、神を知ることができないようになったので、その心情も分からなくなってしまった。それゆえに、人間の意志はこの無知によって、神が喜ばれる方向を取ることができなくなってしまったのである。しかし、堕落人間においては、復帰摂理の時代的恩恵により、神霊(内的な知)と真理(外的な知)とが明らかになるにつれて、創造目的を指向する本心の自由を求める心情が、復帰されてくるようになり、それによって、神に対する心情も漸次復帰され、そのみ旨に従って生きようとする意志も高まるのである。

 

結局のところ、心情を復帰できるか否かにかかってくるというわけです。

理性によって真理を求めるときには、唯物的科学の世界に彷徨うことがあり

霊性によって神霊を求めるときにも、唯物的スピリチュアリズムに彷徨うことがある。

両者をして神の心情を掴めなければ、結局のところ何が残るのだろうか?

 

原理的な愛も神の心情も

持っておられる方はお父様しかおられない。

天のお父様からお父様が相続されたように

我々もまたお父様から何としても相続しなければ

どうして天一国に住めることだろう。

 

お母様は今回語られた。

 

「父よりも母がより感性表現が豊富であると 皆さんはよく言うでしょう

そのような立場にいる母であるために責任が重いのです」

 

アビガイルとは大違いであられる。

感性があるならこうもずっとお父様を辱めて来られないことだろうに。

いつから失われてしまわれたのだろうか?

「父よりも母」

ここに今日のお母様の姿がありありと現れている。

 

お母様も心情がお分かりになられなかった。

毎日訓読生活をされている敬虔な家庭連合の信徒にも

40日断食を何度もされている兄弟にも

 

原理講論では、

創造目的を指向する本心の自由、すなわち公的な自由求める心情が復帰されるに連れて、神に対する心情も高まっていくのだという。

 

つまりお母様という私的立場によって自由を求めるところには決して心情は復帰され得ない。

公的立場には「わたし」がいない。

公的立場とはお父様を主体とする対象の立場。

なぜならお父様は神様を主体とする対象の立場

それに続かずしては得ることができないのが

心情世界。

お母様は堕落してしまわれた。

 

真理のみ言に従って、神と相対基準を造成し、授受作用をするようになれば、

その原理的な愛の力によって、創造本性を復帰することができるのである。

 

誰からも教育されたことがないというお母様には

真理のみ言葉に従って神と相対基準を結ぶことが十分にはできなかった

授受作用することができなかった。

そこでは原理的な愛を知る術がなかった

 

お母様にして然り。

 

神霊(内的な知)と真理(外的な知)とが明らかになるにつれて、

創造目的を指向する本心の自由を求める心情が、復帰されてくるようになり、

それによって、神に対する心情も漸次復帰され、

そのみ旨に従って生きようとする意志も高まるのである。

 

神霊と真理の獲得を手段として

本心の自由 [公的自由]を求める心情を

自己の位置を離れることによってエバは失ってしまった

 

お母様もまたそのような道を行かれるのか!

 

われわれは如何にしてこれを乗り越えていくことができることだろう?

 

イエス様のみ言葉に忠実に生きたというマグダラのマリアから

修道院にその信仰や心情は相続され継承されていった

その中には聖人もいたし聖女たちもいた。

彼らは神霊と真理によってイエス様の心情に至ろうとしていた。

 

そこには何かがある。

わたしは、キリストの精神的継承者や心情相続者の系譜があるはずだと思っている。

そこにはきっと我々が心情文化を築いていくためのヒントが隠されているに違いない。

 

アンドレ・ワッツの引く「鐘」を聞きながら

 

 

 


にほんブログ村

 応援して下さる方は上のロゴをクリックして下さい。