原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

統一原理から見た 西田幾多郎と鈴木大拙 6(最終)        竹村牧男著 <宗教>の核心 西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ を参考にして

 


統一原理講座 第4講「創造原理3 創造目的」 - YouTube

真の父母様は

神が人間に対する創造目的を「三大祝福」に込められ、この創造理想成就を切望されている重要性を教えてくださった。

我々人間の人生の目的であると教えてくださった三大祝福とは、

第一祝福が、成熟せよ すなわち 個性完成(神の愛の人格完成)せよ!

第二祝福が、繁殖せよ すなわち 家庭完成(神の愛の理想家庭の完成)せよ!

第三祝福が、万物を治めよ すなわち 万物主管(神の愛による主管)せよ!

であった。

西田と大拙禅の見性体験、すなわち悟りを重視しているのは、

第一祝福に相当するものであり、

社会や歴史に対する「作用性」の必要性を痛切に実感した大拙「真空妙有」に留まるに終わらず、「真空妙用」に至ることの重要性を説いておられるのは、第三祝福の万物主管に相当するものである。

通常仏教というものは存在のありのままを大切にし自らもありのままの天然の世界にとけ込んでいくことを良しとしている。

そこから普通に考えれば「作用」とか「主管」といった概念は出てきようがないのである。

大拙仏陀の悟りを禅の立場で透徹し、「作用」する以前も「作用」した以後も、ありのままの世界を同じく繁栄するような、調和しつつ働き、その働きの結果としての世界に依然としてありのままの調和がとれている世界を見ていたのである。

これを「真空妙有」といい「真空妙用」というわけである。

こうした視座に立った浄土系思想の理解は、旧態依然たる教学の碩学達にとっては断じて受け入れることのできない、いわば異端のようなものでさえあったのかもしれない。

しかし、統一原理に立脚すれば非常にわかりやすい世界である。

私たち人間が幸福になるためにはこれら3つの創造目的を獲得していくような道以外には方法がないので、仏教もそこを目指して発展して行かざるを得ないのである。

また、西田哲学が極めて宗教性が強いものとなっているのは、哲学という知的探求から、それによって生活する宗教にたいする要請があるからなのである。

例えば文鮮明 恵師は言う。

人間は何も考えずに流れに任せて生きながらも、死ぬことを嫌い、「なぜ生きなければならないのか。根元がどのようになっていて」と、皆さん、疑問が多いでしょう。そのすべての疑問は、人間の哲学書だけでは解決できないのです。哲学というのは、神様を求めて行く道を開発したのです。宗教は何ですか。神様を知って、共に生きる生活から始めることが宗教生活です。

人間の生と霊魂の世界

 

大拙も印度や中国の仏教が次第に形骸化していくことを憂慮して日本的霊性をもって生活の方に梶を切ったのではないかと思うのである。

さて、統一原理の第二祝福に対して、神の摂理上仏教は如何なる道を歩むことになるのであろうか?

人間が神の似姿になる道はこの三大祝福成就にあるが、

神の本質である心情が形となって現れた神の愛は、一個の完成人間によって為されうるものではない。

宗教は神の存在様相である性相と形状、すなわち心と体の統一という人格完成を目指して発展してきたが、もう一つの神の存在様相である陽性と陰性に関しては、その統一の道を充分に求めきれずに来ているのである

メシアがが降臨し人類の罪の根たる原罪を精算し完全に抜き取って下さらない限り、人間の神性あるいは仏性・如来蔵というものは完全には発揮することはできないとしても、人類が行くべき公式の道が三大祝福の成就である以上は、不完全なものであっても、性形とは別の陽陰の統一の道、すなわち夫婦統一としての見性の道に進んで行かざるを得ないのである。

大拙の言う「真空妙有」や「真空妙用」というのは完成した男性を求め獲得する悟りの道に留まるのではなく、在家にありながら出家の位相を表す、男女が絶対の性形を求めつつ絶対の陽陰を求める段階に突き進まざるを得ないのである。

男女の統一、絶対の陽陰の統一。これを真の愛と言い、絶対「性」文鮮明 恵師は語られたのである。

人間は蘇生→長成→完成の秩序的三段階を責任分担完遂によって、自己創造し完成するようになっているが、蘇生→長成を聖別して二段階を経た男女は、神の祝福を受け、すなわち第二祝福という、真の夫婦となり、また子女を得て真の家庭の実現に進んで行くべきものなのである。

文鮮明 恵師の御言葉に

 アダムとエバが堕落しないで、神の前で間接主管圏を通過し、直接主管圏と連結され得る思春期になれば、すべての宇宙の力がここに和合できるし、ここに凝結され、作用するのです。その焦点で男と女が出会うと同時に、天と霊界と肉界が出会うのです。それは霊界で結ばれるのではありません。それで天国に入った人がいないというのも、この焦点に照準が合って写真を撮って(霊界に)行った人がいないということです。これはよく撮れていない写真と同じようにピントが合っていないのです。平面的焦点とともに垂直の焦点がぴったり中央点に合ってぱっとやらなければならないのに、そのような写真が撮れなかったというのです。愛の完成的写真が撮れなかったということを知らなければなりません。分かるでしょう。皆さんの中で誰がそのような愛をしていますか。そのような夫婦になっているのかというのです。

罪と蕩減復帰

 天国の「天」という漢字は「二人の人」と書くように、神を中心として完成された男女を意味している。天国は個人で行くところでもなく、個人で入れるところでもないのである。

したがってどんなに個人の完成の道を歩んだとしても、天国に入籍した者は一人もいないのである。イエス様も「天国は近づいた」と言って伝道されたが、家庭を持つことが閉ざされた、十字架上においては右の泥棒に「私と共にパラダイスにいる」と言いかえているのである。仏教の偉大な高僧達も我々に多くの人生に対する貴重な示唆を与えてはくれたものの、夫婦生活をしなかったので陽陰が分からず、ましてや神を中心とした絶対的陽陰の統一については、全く理解できずに天に旅立っているのである。

とは通常「絶対的価値」を指してきたが、この絶対的価値は、神を中心として統一した心身を持つ男女にあるというわけである。

そこで華厳経に、華びらに座して悟りを得る、様々な段階の菩薩が幾重にも見られるという悟りの荘厳な世界も、決して個人であってはならないということが、文鮮明恵師の御言葉によって我々は知ることができるのである。

華という性器に座す、すなわち絶対「性」を確立することが悟りであり、そうであれば本来、個人ではなく男女がそこに座していなければならないことが分かるのである。統一原理によって何故「華」で荘厳するといった漢訳がされてきたかが本質的に始めて理解されるのである。

素直に考えてみれば、空を飛ぶ鳥たちも、地に生活する動物も、人間以外は万事調和して陽陰一体となって生活し幸せを満喫しているのであって、個体ではないのである。

しかし、人間だけがおかしくなってしまっている。

そこで統一原理的「華厳」があるとするならば

天宙の陽陰の代表たる男女が神を中心として、神の創造目的という全体目的と個体目的を併せ持つ「連体性」の様相を現象として表し、「四位基台」を形成して、価値の階層構造を織りなす被造世界に中心として顕現し、神が臨在し運行する、すなわち立体的球形運動をして永遠に至福の発展運動を展開するようになる世界のことである。

 「華厳」には、全体と部分を連想させるものがあるが、価値の様相の説明は希薄であるように思われる。悟りの重階層というが、それは現象的表現であり、その階層性の本質は何かという問題を残しているのではあるまいか。

重層構造の本質は価値において明らかにされるものである。

私見では、統一原理の語る被造世界の階層性は「価値の階層性」であると考えている。全体目的と個体目的を兼ね備えた連体としての存在は、価値の階層を形成して存在している。

その本質的「在り方」は奉献性である。より高い価値の追求と実現のために、奉仕し身を捧げていくような、奉仕献身を基礎とする奉献存在の本質なのである。

この奉献は原理講論を読んでも分かることではあるが、「家庭盟誓」の中に凝縮されて表現されている、極めて重要な天国形成の概念なのである。

華厳についてもいつか時をもって考えてみたいと思う。

また、禅の悟りの段階を表しているとされている「十牛図」が有名であるが、

文鮮明 恵父の思想では「十牛図」の悟りでは不徹底であることがはっきり酌み取れるのである。仏教的長成期の段階に過ぎない、「十牛図」では天国には決して至れないのである。

言い方を変えるならば、個人路程である「十牛図」が終わった地点から、神の祝福を受け理想相対としての男女が結婚をして、神を中心として心情一体化し、一如に行動する段階の悟りと体得をし、子女を得ては家庭をもって悟りの道を行く・・・と続いていくのである。

したがって、我々が如き路傍の石ころではなく、本来様々な宗教での信仰生活を経て準備されてきた方に々こそ先に真の父母様にお会いして頂き,祝福を受け理想夫婦として世界人類のためにご活躍して頂きたいような世界なのである。

さて、法然は信者が無理なくそれぞれの信仰の現在の基準に合わせて、そこから信心すればよいと考えておられたようである。

したがって、親鸞は妻帯をもって信心に励んでいる。

親鸞の師は法然であるが、聖徳太子六角堂で聖徳太子の示現を経験し導きを受けている。

そもそも聖徳太子とはどんな人物であるとされているか。遣隋使を何度も派遣した聖徳太子は高僧のように独身生活を貫いた方ではなかったのである。

出家僧という形ではなく、在家で妻帯という形での信仰をされていたのが聖徳太子であった。

日本を代表する仏教信者の嚆矢は在家信仰の聖徳太子である。

その代表的著書とされている三経義疏が解説した三経のうちで、維摩経在家信仰を扱ったもので大乗の空を思考ではなく、実践の場である堕落世界での現実生活において、互いに矛盾し相反する様相を統一してみる「不二の法門」という、大拙で言えば「無分別の分別」に対応する内容で説かれている。

勝曼経の方は在家の女性信者が自らの内にある如来像(仏性)に目覚め悟りを得るという内容である。

性形の統一と陽陰の統一という悟りを夫婦で歩んでいくことを聖徳太子は重視しているように思われる。

そこで親鸞だが六角堂で聖徳太子の示現を受け、在家で信心するようになり、法然と出会うようになる。聖徳太子の婦人がどのような信仰者であったかは分からないが、親鸞の妻である恵心尼は手紙などがいくらか残っていて、ある程度推測することができる。夫婦で仏と一体となる信仰生活の道を切り開いたのである

この浄土教思想の流の先に大拙や西田が現れてきたのである。

大拙の妻ブラバツキーの神智学の信奉者である。

妻が一般的なクリスチャンではなく、霊的現象学たる神智学に傾倒していたため、結婚が可能であったのだろう。またこのことが契機となって、世界的霊性というものに恐らく大拙は意識が向けられたに違いない。

とはいえ、彼の立場は東洋の霊性が西洋の霊性を呑みこむ形だったのかも知れない。

禅の悟りの視座から、法然親鸞大拙と浄土系思想が展開してきた流れと合流するように、もう一つの流れ、聖徳太子親鸞大拙というような、在家夫婦一体一如の悟りへの展開を日本仏教は模索し突き進んできたのである。

この点は見過ごすことができない本流なのである。

仏陀は地上で生活されていたときは、毒矢の喩えをされ、神や霊界など形而上学的問題については「無記」として語らない立場を貫いてこられた。

しかし、霊界に来られた仏陀が依然としてその立場を貫かれるかどうかは分からないのである。

もし人間の人生に神の存在が関わってくると知ったなら、仏陀はじっとしていられるであろうか?自分を慕い続いてくる信者に責任をとろうと、環相し再臨協助することであろう。

その時最も神に近い仏教的表現と見ることができる、阿弥陀仏は一信者が修行の末に悟られ仏となったというイメージから、全ての覚者とは別格の存在、すなわち神としてのイメージに発展して仏陀の現在のお働きに対する準備となるのである。

悟りは仏陀の悟りもそれ以前の悟りもそれ以後の悟りも同じであると言われてきたり、いや仏陀の悟りは別格なのだという意見もある。

どちらにせよ、その仏陀阿弥陀仏に対して一歩下がっているような謙虚なお姿で描かれているということは、阿弥陀仏という言葉を借りて神が現れることが可能になる道を切り開いているものと考えることができる。

現在、仏陀にとっての最も大切な関心事は、神の存在を証すことである。

 イエス様が、マタイによる福音書20章16節に書かれているように

「このように、あとの者は先になり、先の者があとになるであろう」

というような不思議な言葉を語られたように

仏教も仏陀が生きていた時代に最も近く息づいていた、上座部仏教こそが仏陀の教えに最も近いものであるという考え方は、過ぎ去って古くなり。

その上座仏教徒は似ても似つかない大乗仏教、とりわけ日本の大乗仏教こそが、仏陀の愛するところとなることであろう。

何故なら現在生きて地上に働かれている仏陀の悲願が神の存在を証すことだからである。

来年から一年間、仏陀誕生の地、ネパールの国営放送で毎週一回の原理講義が放送されることになったことは、ただ地上人の精誠によるものではなく、仏陀自らが不退転の決意をされて望まれておられることを如実に物語っているのである。

偉大な仏陀に感謝し、その協助を心より伏して讃えるものである。