原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

人や環境がわたしに葛藤をもたらす時には、私の内に神はいない

少し前に、ある食口から試験を受けました。

「あなたの前に、突然暴徒が現れて刃物を構えてきたらどうされますか?」

わたしは煮え切らないように答えました。

「うーん、その時になってみないとわかりませんね。」

その人は、

「道に達している人には、そういう方がいますね、わたしたちも死を恐れない境地にいたっていないといけませんね。」

そのようなお話がありました。

 

そういえばと思って、

頭山満も檻に入っている虎を見て、中村天風に、『どうだ、入ってみるか』と言って二人ではいっていったそうです。」

と言いました。

でも心のなかで、

「その方にとって、刃物が刃物なのかな?」

と思う節もございました。

自分にとっての刃物は違うのかも?

そう思いながら半分聞いていました。
才市のことが浮かんできていたからです。
 
今日、たまたま昔書いた記事のところに妙好人の才市のことを書いていたのに
気づきました。
物事や人や事件などの災いが自分にぶつかってきたとき、
神様がわたしにぶつかられた、感謝。
と、猫がすうっと立ち上がって歩いていくように
無意識に思うことができるだろうか?
自分が突然誰かに
不本意な非難や迫害を受けたり
身に覚えのない恨み言を言われた時に
その事態とわたしの心がどのような相対基準を結ぶのか?
才市は阿弥陀との関係性でしか捉えることができなかった。
自分と人や物事との関係性ではけっして見ることはなかった。
 
見事な信仰です。
ぶつかってきた人が、自分より年下であるとか
自分よりあることににおいて周知していないとか
自分より熟練していないとか
自分より経験を積んでいないとか
一般に自分より下に見える人から
とんでもない仕打ちをなされたとき
神との関係を無意識にわれわれは切ろうとします。
 
また私にぶつかってきた原因といいましょうか、
理由や内容と言いましょうかが
見当外れであるばかりか、濡れ衣である。
わたしは直ちに問題児とされ、罪人とされてしまった。
こんちくしょう!
 
そこには、私と人との関係に、葛藤が生じてきます。
正しい怒りには、葛藤がないはずだと私は考えます。
一瞬生じたとしても、消え去ることでしょう。
葛藤は神とわれ、われとひとが分離した時に生じてきます。
物事でも、わたしとそれが分離した時に生じてきます。
 
鈴木大拙仏教の無分別智を重視しました。
われわれ凡夫は分別して考えます。
二つに分けようとする。
分別智です。
わたしとあなたを分ける。
 
ですが、仏教のこのような知的な理解は
実際の信仰生活に即しますと
いかにも使い勝手が悪いような気がいたします。
確かに飲み込みがいい方の場合では、それで充分悟れるのでしょうけれども、
そうでない人はどうしたらよいのでしょうか?
また、どうしたらもっと使いやすくなるのでしょうか?
 
その一つの方法が「葛藤」という言葉ではないかと思うのです。
ヨハネ先生はこの言葉を用いました。
仏教はある意味で論理的です。
「分別」「無分別」という言葉は、知的な表現です。
知的な表現は行動化するには、情的な表現より使い勝手が悪いのではないかと思われます。
 
わたしとあなたというふうに分けるということは、
感情的には葛藤から始まるといえます。
私利私欲という感情も一種の葛藤と捉えることができるでしょう。
わたしとあなたを分けるから、
私の利益とあなたの利益という思いが葛藤を生じます。
 
私の心に葛藤がないか?
と問うことは、大変わかりやすい軌道修正の指標になるかと思います。
 
神やキリストに対する葛藤。
人に対する葛藤。
環境に対する葛藤。
 
仏教は分別から無分別へ。
われわれは葛藤から平安へ。
 
父とわたしが一心。
わたしとあなたが一心。
二心ではなく一心。
 
聖徳太子十七条憲法より
 
上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて
事を論ずるに諧(かな)うときは、
すなわち事理おのずから通ず。
何事か成らざらん。
十七条憲法 第一条 終結部分 大角 修訳

 

 

聖徳太子の言葉

聖徳太子の言葉

 

 

 以下は。わたしの現代語訳です。

 
 アベルは愛による主管でカインと授受作用して
物事を論じ合う相対基準を造成するならば
そう、物事の道理は明らかにされるものだ。
何事もうまくいかないことがあろうか?
 
聖徳太子の十七条憲法は、われわれ現代人の憲法の感覚とは随分違っています。
この憲法は誰のための憲法であったのでしょうか?
わたしのような平民のためのものではなく、
国の政(まつりごと)を為す方たちに向けて作られたもののようです。
国政を運営する責任者、指導者クラスの人々に向けた
いわば責任者の心得のような性格をもった文言集のように感じます。
今日で言えば、官僚に向けた心得と指針集だったのかもしれません。
 
聖徳太子の「和」とは、横並びの人が睦まじく穏やかにまとまるということ以上に、
上下のものの関係性が、特に上位者から下位者に対して正しい接し方を説く、
いわば「アベルの正道」について言及しています。
勿論、官僚である下臣は国の長に対してはカインです。
この関係性を円満にして、
自分がアベルとしてカインという下の者に接するときには、
その見本となりなさいと言います。
 
たとえば、三条には、
「君をば即ち天とし、臣をば即ち地とす。」
「君言えば臣承り、上行えば下靡(なび)く。」
とあります。
 
横並びの者たちが和やかに交流するという以上に
男子たるもの、責任者としてかくあるべしというような
主体的な思想がそこにはあります。
いつか時があれば学んでみましょうか。
 
いつしかこの主体たる者が作り出す「和」ということが、
単に何でも仲良くしましょうというような意味での
「和の国」ということになってしまったのなら
聖徳太子の面目は保てるでしょうか?
 
皆様に神の導きと加護と祝福がありますように!
 
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