原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

元暁(ウォニョ)の和諍(ファジョン) と  マンデラやガンジーの恩讐を愛する一心


Ebony & Ivory-Stevie Wonder & Sir Paul McCartney - YouTube

 

ポール・マッカートニースティービー・ワンダーと歌っている

「エボニー アンド アイボリー」です。

へた訳を付けます。

 

 Paul McCartney   Ebony And Ivory

 

Ebony and ivory live together in perfect harmony

黒鍵と白鍵は協力して完全なハーモニーを醸しだしている。

Side by side on my piano keyboard, oh Lord, why don't we?

仲良く並ぶよ、僕のピアノのキーボード。

それなのに主よ、どうして僕らは違うのでしょう?

 

We all know that people are the same where ever we go

何処に行ったって、人は同じだってことは誰だって知っているはず。

There is good and bad in everyone

良いも悪いも 皆がもっているよ。

We learn to live, and we learn to give

生きることを学び、互いに理解し合うんだ 、

Each other what we need to survive together alive

共に生き抜くことが必要なんだって。

 

Ebony and ivory live together in perfect harmony

黒鍵と白鍵は、協力して完全なハーモニーを醸しだす

Side by side on my piano keyboard, oh Lord, why don't we?

仲良く並ぶよ、僕のピアノのキーボード。

それなのに主よ、どうして僕らは違うのでしょう?

 

Ebony, ivory living in perfect harmony

黒鍵と白鍵は、完全なハーモニーを奏でて暮らしているのに

Ebony, ivory, ooh

黒に白、おお。

 

We all know that people are the same where ever we go

何処に行ったって、人は同じだってことは誰だって知っているはず。

There is good and bad in everyone

良いも悪いも 皆がもっているよ。

We learn to live, and we learn to give

生きることを学び、互いに理解し合うんだ 、

Each other what we need to survive together alive

共に生き抜くことが必要なんだって。

 

 

Ebony and ivory live together in perfect harmony

黒鍵と白鍵は協力して完全なハーモニーを醸しだす

Side by side on my piano keyboard, oh Lord why don't we?

仲良く並ぶよ、僕のピアノのキーボード。

それなのに主よ、どうして僕らは違うのでしょう?

 

 

私が伝道されたときには、韓国には日本にはない素晴らしいものがたくさんあるに違いないと、胸を躍らせたものであるが、いっこうにそれらしいものには出会えなかった。

一体何故、文鮮明 恵父の如き人物が韓国で生まれたのか、何らかの精神的背景があるに違いない。そう考えたのである。

ところが、西洋に素晴らしい学ぶべきものが多くあるであろうと、若者が思っても、年をとると我が国の精神史に残るような人物の方が遥かに魅力的であることに気づくように、韓国は次第に魅力を感じなくなっていった。

時間を超越している心情も、文鮮明 恵父に於いては、愛の世界の話しであるのに、再臨主を迎えた今日まで恨の中に止まり続けているのは残念なことである。

一方アフリカには言語を奪われ、支配した国の言語を現在使っている国家がいくつもある。

マンデラは自身が最も酷い迫害を経験した立場ではあるが、黒人に対し白人がたとえ家族を拷問や監獄であるいは路上で殺されたとしても、白人が家族の前に罪を告白するなら、一切を忘れようと、加害者の白人と被害者の黒人を集め、告白と許しのセレモニーを為し、それによって、白人と黒人が共に生きる新しい国家の礎を築き、スタートを切ったのである。

 

ところが韓国はいまだに悩みの中にいる。

再臨主は既に天に召されている。

歴史上にこの民族が如何なる苦難を味わってきたことよりも、

主の訪れを受け入れず、その事による心情の転換を果たせなかったことこそ、

嘆きの民族である所以であると考えるものである。

マンデラは立派な方であった

しかしそれでも文鮮明 恵父には遥かに及ばない。

この国の民は一体、何時になったら目覚め、神が与えたもうた天賦の性稟を

本然の様相で遺憾なく表すことができるのであろうか?

マンデラは実体基台を勝利した。

 

ガンジーもまた然り

「人物に見る 韓国哲学の系譜」 金 教斌(キム キョビン)によれば、

 

 インドの聖人マハトマ・ガンジーは、アフリカの英国植民地でテロにあって死にそうになったことがありました。ガンジーは自分を殺そうとして犯人を裁判する席で、イギリス人の裁判官にこう言ったそうです。

「イギリス人のあなたには理解できないと思いますが、その人と私は一つなのです。ですからその人を許してあげてください。」

 

 著者は、このような考えはインドのあらゆる哲学に含まれている賭しているが、私には、もともとガンジーがキリストの教えに傾倒していたことを思い出す。

彼の別の言葉には

キリストは好きだが、キリスト教信徒は好きではない。

キリスト教信徒はキリストに似ていない。

お母様が

「あなたがたは何故お父様に似ていないのですか?」

と言われるのを思い出す。

さて、ガンジー

「その人と私は一つなのです。」

と言い切ったのである。

マンデラガンジーも実体基台を勝利している。

 

お父様の生まれた韓国では同様の思想の萌芽がどこかに見られないであろうか?

 

以前に私は盤珪禅師の「不生で全てが片づく」

といった悟りの説明に準えて

「統一で全てが片づく」

というのが統一原理であると語った。

 

どうも韓国仏教の祖と仰がれる新羅の僧である、元暁(ウォニョ)にその萌芽が見て取れそうなのである。元暁は日本でも明恵上人らによる「元暁絵」が高野山に伝えられているほど、影響を与えていたであろう人物である。日本読みは「がんぎょう」である。

 

「人物に見る 韓国哲学の系譜」に依れば、韓国仏教の特徴について次のように記している。

 

 一般的に韓国仏教の特徴を通仏教、円融仏教、合わせる仏教などといいます。通仏教は「何ものにも妨げられずにすべてに通ずる」という意味で、円融仏教は「角を立てずにすべてと調和する」という意味です。そして合わせる仏教も「何一つ否定したり拒否せずに、すべてを受け容れる」という意味です。このような伝統はすべて、元暁からはじまったものです。

 元暁哲学の基本論理は和諍(わそう ファジョン)の論理です。和諍とは「言い争いを調和させる」という意味です。元暁哲学の根底には華厳哲学があります。その基本論理は「一つが全部で、全部が一つ」というものです。

 

元暁は新羅華厳宗開祖である義湘と共に仏教の真髄を求めて唐に旅立つのであるが、高句麗経由で向かう途中、高句麗兵によってスパイ容疑をかけられ何ヶ月も牢屋に入れられる。そこで今度は百済を通って海路をとる事になるが、そこで元暁は悟りを得てしまい、彼は唐には行かず新羅に引き返し、義湘は独り唐に向かい、そこで華厳経を学び、10年後に帰国したという。

元暁が悟りに至った経緯を、金 教斌は以下のように書いている。

 

唐に向かっていた元暁と義湘は、旅の途中で陽が暮れてしまい一夜の宿を探すことにしました。あいにく近くに人家はなく、真っ暗な夜道を歩いているうちに穴倉のような小屋を見つけました。長旅で疲れきっていた二人は、倒れるようにその小屋に入り込み、そのまま寝入ってしまいます。元暁は夜中にのどが渇いて目を覚ますと、暗闇の中、ちょうど手の届く器に水がたまっているのを感じ、その水を飲んでしまいます。ひんやりとした水は、元暁ののどを潤しました。

 翌朝、壁の穴から朝陽が差し込み、二人は目を覚まします。すると驚いたことにそこは小屋などではなく、古い墓の中でした。二人の周りには髑髏(どくろ)や人骨が散らばり、昨夜、暗闇のなかで元暁が手にした器も、実は髑髏でした。

 元暁は暗闇のなかで髑髏にたまっていた水を飲んだのです。そして朝陽のなかで見たその髑髏の水は房っているではありませんか。元暁は驚きと恐怖のあまり思わず吐き気を催します。そして考えました。

 「昨夜はあんなにおいしかった水が、今朝には吐き気を催す汚い水に変わってしまった。昨日も今日も何も変わっていないのに、なぜ今日は吐き気までしたのだろう」

 深く考えた元暁はそのうち、はたと気づきました。

 「昨日と今日で変わったもの、それは私の心だけなのだ」

 

変わったものは己が心に過ぎない。

 

元暁和諍(わそう)の論理を金 教斌はこんな風に喩えている。

 

 食べ物を例にとってみましょう。おいしそうなビビンバが一つ置いてあったとします。目玉焼きや、いろいろのナムル類、その上にはごま油にゴマ塩、コチジャン(唐辛子味噌)までのっています。スプーンで一生懸命混ぜた後で、味を分析する機械を使って分析してみたところ、塩味20%、辛味30%、甘味30%、酸味15%、苦味5%という結果がでました。しかし、私たちはこのビビンバをスプーンに大盛りにして口に入れた瞬間、「このビビンバは20%しょっぱくて、30%辛くて、5%苦くて・・・」とはいいません。ただ「おいしい」、または「まずい」というだけです。分けていえばいろいろな味になりますが、合わせれば味は一つなのです。そう考えれば、このビビンバについて、しょっぱいといっても、甘いといっても、辛いといってもいいことになります。そしておいしいといってもよいし、まずいといってもよいのです。

 

元暁「和諍」の論理を基に、あらゆる学派の論争を和合させるという意味を込めて

「十門和諍論」を著したのであった。

 

 悟りを開いた釈迦牟尼が生きておられたときは、人々は疑問があればそれを釈迦に尋ねて答えを得ていた。しかし、釈迦が亡くなられた後からは疑問が生じても尋ねる相手がおらず、そのため釈迦の残した言葉から答えを得るほかなくなり、それで人びとは自分なりにその言葉を書き残した経典を解釈しはじめた。ところが自分の解釈は正しく、他人の解釈は間違っているといったり、この人の解釈は正しく、あの人の解釈は違うなどといったため、夜空の天の川のように無数の主張が出てきたのだ。

 

 私は未熟でそこまでは至らないが、この話しに即して先回の神山問題を振り返るならこういう事になる。

 

釈迦の心情があり、その心情の下に釈迦教団(御言葉の実体)があり、御言葉があるように、神と真の父母の心情があり、その下に一なる実体の四位基台としての真の家庭があり、その下に御言葉がある。

 

内村鑑三は神とキリストの心情を思えば、一つのイエス教団によって主を拝し迎えるべきであると考えたのである。

だから無境界であり、だから無教会なのである。

晩年には十字架さえも除いてでも一つになれる道を求めたのである。

今日のように再臨主であられる、文鮮明 恵父が再臨される前で、

真理の御言葉をあからさまに受けることができない時であったので

神のために人知れず苦悶したのである。

どうして、神やイエス様がそれを見過ごすことができようか?

 

家庭的四位基台の一体化が深化されるべく侍るのが、御言葉の実体的理解である。

個人にではなく、真の家庭に侍るべきである。

この真の家庭に貫く神の心情がある。

この心情を蹂躙することはできない

さて、神山の神学論争によって、どれだけ真の家庭の結束と一体化が深化されるのであろうか

引き裂くばかりである。

その事は神を悦ばせるどころか、神を悲しみの奈落に引きずり込むのではなかろうか?

「諍(いさか)い事」でしかあり得ないであろう。

かってイエス様が跪いて弟子たちの足を洗ってさしあげ、今までずっと私がこうしてお前たちに仕えてきたように、お前たちも仕える者となりなさいと語られた如くに、数十年お父様が直接のアベルであった者が、教会の信徒に侍っていれば、見事な証となって兄弟は神を讃えていたであろう。

お父様の立てられた「父母の心情、僕の体」を実体で証す責任が指導者にはある。

「我以外 全て師なり」の心情で仕えるべきである。

 

私は、牧会者や伝道部長や教育部長は二世が担当し、運営は一世が担当し教会を支えてはどうかと、今までは考えていたが、お母様の二世教育の目標のタイムリミットを考えると、一気に二世化を進めていくべきであろうと思うに至っている。

若い希望に満ちた青年を必ずや各教会の信徒は助けることであろう。

二世は教会によって大変な試練の中にある。

二世は我々統一教会の天宝である。

 

 

人物でみる韓国哲学の系譜―新羅仏教から李朝実学まで

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