原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

船山徹の「仏典はどう漢訳されたのか」を読んで

 

「仏典はどう漢訳されたのか」は非常に専門性の高い本で、著者は門外漢のために書いたと言うが私には敷居が高いものであった。

それとなくアマゾンの評価を見たがどの方も五つ星の評価で、大変良かったとそれぞれ感想を書いていた。よくもこんな専門的なものを味わえる方々がいるもんだと、本当に感心した。

目に止まったものを引用していくことにしたい。

チベット仏教に何故注目が集まるのか、一つの原因が次の記述で分かった気がした。

「誤解を恐れずに言えば、梵語チベット語との関係は、一面で、漢文と日本語の訓読の関係に似たところがある。日本語に取り込むため、日本人は正確な訓読法を体系化し、それゆえ、ある程度まで機械的な訓読を可能にした。訓読からもとの漢文を再構成することも高い確率でできるほどである。同様に、チベット語からは、その基になった梵語の単語をある程度高い確率で想定可能であり、かつ、完全ではないにせよ、文ではなく単語レベルでならば、ある程度まで原語を復元することも不可能ではない。原語復元可能性の高さという点で、漢文の訓読と梵語チベット語訳には共通の面があると言える(ただしチベット語訳がたしかに訳であるのに対して、訓読は果たして訳なのかという点から始めて、漢訳とチベット語訳との間には共通点とともに相違点も多いが、今は深入りしない)。」

 漢訳よりはより原点に近い形が、特に単語としては読みとることが可能であるから、信憑性が高いと、大ざっぱにはそういうことになるのであろう。

勿論訳という点から見た場合ではあるが・・・

 

鳩摩羅什のことが書かれている。

『高僧伝』巻二の本伝によれば、生前、律を訳す一方で自らの破戒を自覚していた羅什は、講義のたびに「たとえば汚泥の中に蓮華が生じたようなもの。蓮華の花のみを取り、汚泥をつかむことのないように」と弟子に諭したという。

泥の中の蓮の華の譬えが鳩摩羅什にも使われていたとは面白いことである。

 

また、「唯識三十頌」の注釈書である「成唯識論」について書かれているところがある。

唯識三十頌』に対してインドに十人の論師の注釈があったが、それらを個別的、逐語的に十種の注釈書として訳出する煩いを避けるため、護法論師の注釈を中心に十種を統合した文献として『成唯識論』がなったのだ。

玄奘は10種類も解釈があると混乱したり分派ができるので苦労したのであろう。

また、玄奘は太宗皇帝の質問に対して「金剛般若経」についての面白い翻訳に関する話しをしている。

梵本によれば、詳しくは『能断金剛般若』と言いますが、旧約では『金剛般若』と言うのみです。菩薩は分別を煩悩とみなし、分別の惑心の堅さはまるで金剛(ダイヤモンド)のようであり、唯一この経典に明らかに説かれている無分別の智慧のみが、それを遮断し取り除くことができることを明らかにするために、それゆえに、『能断金剛般若(金剛の如く煩悩を断ずることのできる般若)』というのです。

と語り続けて旧約の抜けている内容をいくつも列挙している。なるほどこれを見ると大拙が何故金剛般若経を重視しているのかわかる。「唯一この経典に明らかに説かれている無分別の智慧」と言うのであるから。ただわたしは金剛般若経はダイヤモンドのように価値のある般若(智慧)のお経という意味なのかとばかり思っていた。

 その他ナーガリュジュナ(龍樹)のナーガはインドでは蛇を意味し、爪や髭のある龍ではないとか、梵語文献にはナーガが象を指す場合もあることから、組み合わせて「龍象」という訳もあるという。翻訳作業の現場はこんなことからして大変なのだと驚かされた。

 

翻訳というものを広義に解釈と捉えてみると、現在分派活動をする少数勢力が何故生じてくるのかについて、示唆が得られるのではないかと思ってこの本を読んでみたのだが、一筋縄ではいかないようである。

通常であれば二代目としての後継者が、滞りなく継承すれば良いところを、お父様がお母様を中心としてやっていくように支持されたことは、万一のため、四位基台に間違いがない安泰であるという時まで、お母様にはご苦労が多いことではあるが、お母様しかこの試練を収束できる方がないからであろう。

キリスト教が数え切れない程の教派に分裂して今日に至っていることを考えると、、お母様が先頭に立たれて伝統を守ってくださっていることは誠に有り難いことである。お母様が身を引かれた瞬間に数千年数万年の人類の蕩減路程がやって来てしまうことであろう。

2020年になるかどうかは分からないが、世界会長に引き継がれるか、諸条件によってはお父様がご自身にそっくりであると評価された信俊様にバトンが渡されるのかもしれない。

何故、分派が大騒ぎしているかと言えば、自分たちが思ったように勢力を拡大することができないので、本流の体制批判をするしか芸がないからであろう。

自信があれば自分たちの信じるところに従って活動して賛同者を増やせばよいのである。神様に評価されることが一番大切なことなのであるから。

韓国でも思った程でない。アルジェリアでもと苦戦しているのではあるまいか?

お母様にアライメントすれば状況は変わってくるのである。

神山と呼びつけするのも忍びないし、真の御家庭の親戚でもあり、神山をとやかく言うと共に御旨を歩まれたお父様の経歴を傷つけるようで忍びない。

しかし、若い人たちがこれ以上迷わないように氏やさんは省かせて頂く。

神山は私こそお母様を愛していると言っている。

それが本当なら、昨年のように韓国に居りながらお母様にご挨拶の訪問をしないなどということがないよう、今年は早々に謁見し誤解であるなら解いてほしいところである。今年もずっと無視することが続けば、もう誰も信じはしないことになろう。

お父様は神山個人だけではなく、神山家庭を叱責されていた。

神山があの時口先だけではなく真に悔い改めて、お父様が言われるままに「自分の言葉を聞いてはいけない」と言っていたのなら、私も含めて多くの信徒はずっと素晴らしい先輩であると誇りに思い尊敬したことであろう。

残念なことである。

 

仏典はどう漢訳されたのか――スートラが経典になるとき