6,孝子の道は夫婦から始まる
イエス様は結婚するこができず、孝子としての夫婦の道を歩むことができなかった方
「イエスは、30年という長期間にわたって、神様のみ旨を抱きながら、ヨセフの家で、大工として働いていた。そして、心の中では、み旨を成就しようとする気持ちを、一瞬でも忘れたことは無かった。この30年間は、様々な神様のみ旨を心に抱き、試練を重ねながら、み旨を成就することができるよう、内的な完成の為に準備をする期間であった。その期間、母マリアの内的な協力を受けることができなかったイエスは、家を出て、新しい第二次としてのみ旨を立てようとしたのである。」
(『原理原本』三編 三章)
イエス様は個人路程で終わることを余儀なくされた。
ある兄弟がキリスト教の救いは個人の救いだが、我々の救いは、人類始祖アダムとエバが二人で堕落した内容を蕩減復帰しなければ救いがないので、個人の救いはありえず夫婦で共に救われていく道であり、それがすなわち祝福となると語られた。
同様に、我々の信仰路程に個人路程はないと言える。
初回では孝子の話から出発したが、天の父にとって本物の孝子とは何か?その基準は何か?を知ることがお父様とイエス様の違いを知る手がかりになると考えたからである。
しかしそれは、お父様とイエス様だけが行くべき道ではなく、次には従って歩む我々の道である。
イエス様は真の意味においては孝子の道を歩むことができなかった。
その恨みを我々が果さなければならない。
お父様とイエス様の違いを何のために知るというのだ!
これこれこう違うと知識を得て終了か?
「俺様はこんなことも知っているぜ、どんなもんだい!」
そんな馬鹿な話はない。
イエス様を本当に尊敬し愛しているのなら、彼が果たせなかった夫婦としての孝子の道、忠臣の道、烈女・烈士の道を我々自身が勝利してイエス様の恨みを晴らすべきである。
たった今からきっぱりとやめようではないか!
もちろんイエス様も祝福を受けられた。お父様に続くだろう。
康賢実オモニが勝利された今。聖霊はもはや地上に必要がない。
これでは天一国を創ることはできない。
せいぜい長成基準の天一国しか創れない。
アメリカ人の誰が孝忠烈を知っているというのだ。
何故朝鮮に朱子学が熟成したのか?
朱子学は天の意志は分かったかもしれないが、完全な人格を持った神を知ることがなかった。そこでそれを基盤に、鄭鑑録の預言を受けて、神を知る儒教として天道教が現れることになる。
そしてその先にサンクチュアリが現れた。
儒教圏である中国・韓国・日本のキリスト者が頑張らなければ伝統は立たない。
しかも、王がいる国は日本だけである。
王のいない国民にどうして忠誠が分かるというのだ。
兄弟姉妹よ、思い出してほしい。
祝福家庭は2000年前に十字架を越えて勝利し復活されたイエス様より上位にあることを。
その位置をどのように守っていけばいいというのか?
韓流ドラマのホジュンやチャングムのように絶え間なく道を求めて精進する以外に方法はない。
わたしは信仰とはそのようなものだと思ってきた。
もしここにそれがないならば、ここは私のいるべき場所ではないに違いない。
「信仰生活の基準はメシアである。メシアに似ることが信仰である」
(祝福家庭と理想天国 1 P563)
「先生を正しく知るためには、先生が一生かけて投入して、真心を込めて語った御言を解読しなければなりません」
(1991年11月3日)
「先生を中心として先生の生活観と、自分の生活のすべてを一致させることによって先生が体恤した神の心情圏を体恤する。これを平面世界の中に、見て感じ、接することによって、その神の心情圏は自分の方につながるようになる」
(1971年9月13日)
「真理の全体を知らない限り、イエスの時の人々と同じように聖書の言葉の犠牲者となる」
(1973年10月28日)
「皆さんは内的な先生に対して関心を持たなければならない」
(「祝福家庭と理想天国」P277)
成約は信じて義とされるのではなく、侍って義とされる。
その侍り方には、孝があり、忠があり、烈がある。
天聖経では誰を見本とせよとお父様は語られたのか?
「 韓国は、最後に神様に忠誠を尽くして孝行する民族なので、今日、その忠孝精神が国家の中心思想になったのです。沈清の父母のために尽くす哀切な孝行心、春香の夫に対する志操、鄭夢周の君主に対する忠誠、柳寛順の殉国精神、このような忠孝の志操は、古今東西、どこにもその類例を見ることができない韓民族の魂です。
このような忠孝の精神と、松や竹のように変わらない志操は、今後、成し遂げられる地上天国の中枢的思想と精神になるのです。天国は神様の国なので、その国のために永遠に忠誠を尽くさなければならず、神様は人類の父であられるので、その父に永遠に孝行しなければなりません。世界の様々な民族をいくら試練してみても、韓国のように忠孝の情熱と志操が高い国はないのです。神様は、韓国を選んで訪ねてこられるのです。」
(横書き天聖経 真の孝の生活 忠孝の意義 P2005)
神は何故一双の夫婦を求めたのか?
家庭連合とサンクチュアリに別れて、どうして天に至誠を捧げられようか!
2000年前のイエス様の個人路程に後退するのか?
自分のために?孝子の道を放棄すのか?
祝福家庭より祝福待機献身者が望みならそれも人生の選択であり、
献身者より実践会員が望みならそれも人生の選択。
犯行を企てたのは天使長が先だった。
だが、天使長の立てた予定は明日なのに、
今日実行しましょうと天使長を急き立てたのはエバだった。
エバが堕落の日を決めたのであり天使長がその日を決めたのではなかった。
それゆえ、天使長は心の中で明日の犯罪計画を思い描いていたが、
エバは天使長に実行を促し、天使長を堕落させ、次にアダムを堕落させた。
女の歴史はそれゆえ悲惨なものになっていった。
「 神様が理想とされた1双の夫婦は、神様に栄光をお返ししなければならないのに、堕落によって栄光の代わりに悲しみを返してしまったというのです。ここには、アダムとエバの責任だけではなく、天使長の不忠もあるのです。天使が先に忠孝の道理を立てなければならなかったのですが、その道理を果たせずに堕落したのです。したがって、復帰摂理は、忠孝烈を立てることです。
神様が忠孝烈の心的中心を立ててこられたので、すべての宗教の教えや道理もこれを立ててくるようになっているというのです。すべての道人たちは、これを探し立てるために出てきたのであって、イエス様も忠孝烈を立てるために家庭を尋ね求めてこられたのです。
神様がイスラエル民族を立てられたのは、このような家庭を復帰するためでした。イエス様が先に忠孝烈の道を立てて行かなければならず、忠孝烈を立てるための祭司長になってこそ、サタンを屈服させられたのです。
私たち祝福家庭は、忠孝烈を立てることにおいて誰にも負けてはいけないのです。忠も、孝も、烈も、家庭から始まらなければなりません。祝福は、お父様の希望を相続することです。今まで、神様に対する忠孝はありましたが、烈の家庭はなかったのです。「神の国」が訪れるまでは烈を立てることができず、サタンの讒訴が残っている限り烈は立てられないというのです。」
(14−209.1964.11.4)
「それゆえに、男性と女性の夫婦で愛し合う人こそ、孝子になるのです。孝子になり、忠臣になるのです。忠臣になり、聖人になるのです。聖人になり、聖子になるのです。」
(206−176.1990.10.7)
「それでは、孝子とは、どのようにするのが孝子でしょうか。昔結婚して夫婦となり、家庭を率いて父母の前に孝行した男性と女性以上の孝行をしなければなりません。結婚しなくては、真の孝子、孝女となることはできません。」
(30−220.1970.3.23)
一瞬の孝行息子の我々ではなく、本来の孝行息子が責任を果たしたほうが父母は幸せだったに違いない。
「父母が死ぬ前までに親不孝したとしても、父母が死ぬ最後の場に置かれた時に、今まで孝行してきた子供が親不孝になり、親不孝してきた子供が転換すれば、孝行してきたその位置を受け継ぎ、一瞬の孝行をすることによって、父母から『孝子だ』という声を聞くようになるのです。そのようになれば、その1日の行動の基準とともに、孝子の称号を持って登場するようになります。生命が尽きる時まで、その目的に向かって行く人の前に、栄光の相続がなされるのです。
(64−75.1972.10.24)」
もし我々の孝行が一瞬で終わるなら、、一瞬の孝行息子の我々ではなく、本来の孝行息子が責任を果たしたほうが父母は幸せだったと思うのだ。
世界には二種類の人間がいる。
夜の神様を崇拝して終わる人間と、昼の神様を崇拝して終わる人間だ。
人はみな他人事のように神様の結婚を考えている。
あるいは、お父様とお母様の結婚だと上の空である。
何故だろう?
夜の神様と昼の神様の結婚は、人類の公式路程でもあることを知らないのか?
おまえたちは基準なく三次の祝福結婚を成した者たちだ.
それなのにおまえたちは、夜の神と昼の神の戦場を知らない。
そこはあまりに近すぎて見えないからだ。
おまえたち夫婦の間が夜の神と昼の神の戦場なのだ
あたかも一人のような夫婦。
上から見ても、下から見ても。
前から見ても、後ろから見ても。
横から見ても、内から見ても。
天一国は一双の完成された夫婦を基本単位として、
君師父一体の三大主体思想は実現される。
イエス様は道半ばで倒されてしまわれた方。
イエス様は洗足の儀式で天の伝統を伝えたかった。
それは、外的に見ればピラミッド組織だが、
内的に見れば逆ピラミッドの心情組織のはずだった。
そして、その中にはありとあらゆる自由と責任に基づくコミュニティーが誕生するはずだった。
第一イスラエルは三綱を知らなかったが、朝鮮民族は隅から隅まで知っていた。
だから、天一国はそこに造られなければならなかった。
第一イスラエルも第二イスラエルのキリスト教も知らないのだから。
「今まで、父に対して息子として立っていても、子が父を知らないという無念な思いに長く耐えられた神様の心情に同情する孝子が、世界のどこにいるのか。この道を固めるため、世の中に、孝子の道と、忠臣の道と、師弟の道を、前もって伝搬し、その基盤にしようとしたのであるが、今、それ自体が無いというのは、実に嘆かわしいことである。それが分からない人間になろうというのか。知る者は直接、孝子は遠くから、み旨を立てることができる。イスラエル民族は、以上のような三綱という儒教的な中心体として、神様に仕えたのか。その原理を知らなかったのである。そのような関係を教示できなかった神様は、どれほど悲しかっただろうか。創造原理の全てを完全に取り戻し、最初の理想を成就しようとした。しかし、隠れた原理的間隔をおいて堕落したために、教示できなかった。それは前述の通りである。」
(『原理原本』 三編 二章)
韓国の正統時代劇は儒教の心情世界位の宝庫である。
かってお父様はそこに何かがないかと「徳川家康」の大河ドラマですら真剣にご覧になられた。
ましてや、韓国の時代劇には、朝鮮に脈々と流れ引き継がれてきた心情を求めるべきではないか?
自分たちの生活に落とし込む為に。
「我々が、(天と)完全に授受しようとすれば、再臨主を中心として天を愛し、天の父母に仕えなければならない。こうして、創造理想の善が完成する。これが、根本の根である。天の父母と一つになってこそ、創造理想の善となる。ところで、神様と一つになるためには、天の父母のようになることに合意しなければならない。そうすれば、創造理想の原理が完成し、理想の善となる。それ以外の我々は、肉身はあるが、天の父母を最上位とし、その影像である肉身の父母が、天の父母に仕えるみ旨に立って、完全に仕える父母となれば、その父母によって、肉身を持った子供は、(父母と)一つの体のようにならなければならない。それが、根本創造原理の頂点である。このような尊ぶべき創造原理があるため、天の父母に仕える代わりに、孝行の道を行かなければならない。このような原理の中に、孝行の道という儒教の起源がある。
また、国家としては、再臨主を王として仕えなければならない。今まで、未知の根本を教示してきたものとして、師に仕えなければならないという教えがある。これは、創造原理の頂点で、孔子を通して教示された三綱という原則であり、これが歴史に残ったのである。その目的は、創造原理の完成を助けるためであり,そのため歴史に残したのである。我々は、天の愛を引き継ぎ、それを繁殖させなければならないが、まず、天の父母のみ旨と一つになる努力をし、その次は、私の対象存在と一つになり、全体を一つとして完成させなければならない。それが、人生の第一責任である。
つまり、天の父母、肉身の父母、夫婦(子女)が一つになり分立しないこと、これが、神様の創造性相対として対象理想型を展開した根本創造原理であった。これを一つにして、天のみ旨を成就した者は、再臨主に仕えることにおいて完全な資格である第一責任を果たした者となる。従って、孝子、忠臣、となって、天の父母に仕えてこそ、自己が完成し、天に対して、完全なる仲介の立場に立つことができるのである。」
(『原理原本』五編 二章)
孝子の道を知る「ホジュン」
烈女の道を知る「チャングム」
烈士の道を知る「千秋太后」
宮中を出て市井で卑しい身分の民の訴えを知る「世宗大王」
天使長が命がけでエバを信用させ種を植える工作を知る「千秋太后」
孝子の中の孝子や自然屈服の王道を知る「広開土太王」
本物の忠誠と天使長の策略を知る「鄭道伝」
妾を愛で屈服させた「商道」イ・サンオクの妻
「一方、儒教の精神を受け、三綱輪屈服せるために、国家的に取り組んできた。その全盛時代の結実が、李朝の歴史である。儒教は、韓国を中心としてその目的(三綱五輪)を最高に発揮してきた。そして、今まで上層部の人々のほとんどが、儒教精神を習得してきた。こうして今まで、東洋における儒教の中心地として、その篤い信仰により、『東洋の礼儀の国』とされてきたが、そのような歴史的由来を持っているのである。このように儒教は韓国人にとって教養の中心となり、また、歴史の上で、偉大なる役割を果たしてきた。また、歴史の上で、偉大なる役割を果たしてきた。また、外国の統治下にあっても、その儒教的思想を貫いてきたのが事実である。そして、外国の統治が終わり、新文明の文化世界を望み、新生して出発した時代となっても、自分たちが伝え、崇拝してきた、孔子と孟子の思想の道を中心として、高尚な道徳心を心に抱いてきたのである。しかし、新時代となって、韓国は圧政に直面し、因習的な傾向の強い儒教的思想は、徐々に(外部の)刺激を受け、減少していく方向に向かっていった。その時代に、儒教的思想を持った人士たちが望んでいたことは、再び、国土を復帰することであった。このような希望を抱く中、韓国に対する預言書として現れた鄭鑑録を研究するところとなった。そして、韓国が復帰され、全世界の中心国になると教えてくれた鄭鑑録によって、外国の統治に対する自分たちの対応方針を決めたのである。このように韓国民族の中で、儒教を崇拝する知識層に属する者たちの大多数は、今まで、鄭鑑録を中心として、国土の復帰と韓国の理想郷を論じてきた。つまり、この預言書は、この時代に適合したのである。それゆえ、今、韓国の全民族は、この預言書を非常に崇め尊んでいる。
こうして、儒教の思想はその基本目的である道徳観念よりも、鄭鑑録を中心として、それを支持する思想となった。儒教人たちは、(この思想によって自分たちの)立場を守る道を選び、外国の統治に対して、『東学』という名称で、民族運動を起こしたのである。それが、すなわち、三・一運動、己未(ウルミ)年の事件である。東学党は、宗教として教派をつくり、世界には無い天国理想を掲げ、天道教という名称で現れ、現在に至っている。その全ての中心は、韓国に対する預言書、鄭鑑録であり、それにより、目的完成基準を定めている。儒教は、韓国の新形態を示す教となった。それゆえ、天道教は、儒教的に結実した存在としての位置を持っている。このように、韓国人は、信仰を最後まで変えずにきた。そして、新しい教理は、天の原理を通して示されるのである。」
(『原理原本』五編 三章)
「特に、ここ三十年余りの歴史を中心として、韓国で天道教が始まったのは、天の存在が目的を果たす、その将来の基盤を固めるためである。それゆえ、天の存在が現れる前に、(天道教が)始まったのであり、それが、み旨であることを知らなければならない。その教えは、地上天国を願うものであり、まさに、神様の望まれる韓国において準備された教えなのである。このように、神様が、天の存在を送られる前に、このような完成基台をたてなければならなかった。つまり、天道教が現れたのは、それが、天の目的だったからである。
このように、韓国の全ての宗教は、一つの目的に向かって動いている。神様の終わりの日の目的は、一つなのである。宗教は、神様のみ旨を助け、それを目的として完成していくのが原理である。」
(『原理原本』五編 三章)
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