原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

イエス様の喩え話 管理人の「不正な管理」と 主人の「公正な管理」(ぶどう園の労働者)

 イエス様をメシアとして証すばかりではなく、第一弟子として侍るべく遣わされた洗礼ヨハネを、イエス様は失ってしまわれた。

洗礼ヨハネ背信は、イエス様を窮地に追い込むことになった。

そこで、イスラエルの篤信者が容易にイエス様につながる道はとざされ、

神が復帰摂理に抱いた頂上作戦は頓挫し、反対に最も最下層の人々から伝道されなければならなくなった。

エス様が飲食をともにされた人々は誰であっただろうか?

取税人や娼婦や罪人であった。

律法を愛するならば、このような人々と一緒にいることは忌み嫌われていた。

自分もそのような人々の仲間だと思われるからである。

 

 :19)また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。

マタイ 11章19節

 

 迷っていた羊は見出され、失われた銀貨は探し出され、

そして、放蕩三昧して父の財産を浪費し尽くしたした放蕩息子は、

悔い改めて父の所に戻った。

父にとって失われた息子が帰ってきた時の喜びは、

以前に息子と暮らしていた時と比べられるだろうか?

もはや戻ってきた息子は今までの息子ではない。

父にとっては、それ以上の息子なのである。

 

 :23)イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。

:24)そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。

:25)ヨハネバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。

:26)しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。

:27)そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。

:28)あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。

:29)すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。

:30)また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。

:31)このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。

:32)というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。

マタイ 21章31節

 

エス様は、放蕩息子の罪を父の財産を浪費して使い尽くしたこととして表現された。

ここに財産の浪費と罪の蓄積の関係性がある。

「わたしは天に対しても、父に対しても罪を犯しました」

という心からの回心に価値がある。

「不正な管理人の喩え」はその直前に語られた「100匹の羊の喩え」や「失われた銀貨の喩え」を含めた一連のみ言として捉えることが望ましい。

 

:1)イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。

:2)そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。

:3)この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。

:4)そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。

:5)それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。

:6)『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。

:7)次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。

:8)ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。

:9)またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。

:10)小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。

:11だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。

:12)また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。

:13)どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

:14)欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。

:15)そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。

ルカによる福音書 16章

 

財産にはプラスの財産とマイナスの財産がある。

マイナスの方のことを普通は負債と言う。

地上の銀行に蓄えたり、あるいは借りた金額があるように、

天の銀行にも人の善行と悪行の蓄積が資産勘定されている。

 

山本七平によれば、リバティはラテン語リベルティオを語源とし、そのラテン語は、

解放、免除や解放奴隷を意味すると言う。

 

まさにそうです。それから自由というもののいちばん基本的なものは経済的自由つまり企業を起こす自由だと。契約する権利ですね。奴隷には契約の権利ないんです。奴隷というのは誰とも契約できないんです。これは家畜と同じですから、家畜が契約できないのと同じでしょう。ですからローマ時代の奴隷解放の手続きというのはたいへんおもしろいんで、おまえを今日から解放してやるといっても解放できないんですよ。デルフォイ奴隷解放碑文というのが残っておりますけれど、まずアポロなどの神殿にお金をデポジット(供託する)するんです。次にアポロ神に奴隷を売りまして、デポジットしたお金を受け取る。この間に神様との間に売買契約も登記もちゃんとやったあと、やっと自由になるわけです。そうするとその時から奴隷はアポロの奴隷でしょ。人間の奴隷じゃなくなるわけですね。こういう手続をちゃんととるんです。ですから「神によってあがなわれた」という聖書の言葉はそういう社会から出てくる言葉なんですね。神様は無償で自分を解放してくれたんだ、だから自分は自由なんだと。しかしこれを日本語に訳すと、何の意味も通じなくなっちゃうんです。「あがない」とか「贖罪」とかいったって、なにをいっているのかと・・・。つまり、当時、神によってあがなわれた人間はいっぱいいるんです。アポロが買ってくれたから、おれは自由なんだ、この発想が基本にあるんです。

日本教社会学山本七平小室直樹著 P38~39

 

 

告げ口するものであるサタンは、信仰を持つ人間の負債を指摘する。

 

この世 財産=正の財産+負の財産(負債)

 光の世 財産=善行の財産+悪行の財産(負債)

 

自分のために、この世の財産管理人が不正によって職を解かれても、

不正をして負債の軽減をしてあげた人々の友となり、

職を失っても、困窮した際には自分を助けてくれるだろうと、

抜け目なく行動した。

 

ここでは、光の世でもその抜け目のなさに学んで、

人が歩んできた善行と悪行の集計においても

隣人のために、より小さな蕩減に、減じて差し上げるような

主人にとっては損失と思われるようなことを

抜け目なく行動することを奨励している。

 

すなわち罪に陥った人々の罪に対するとりなしと

罪を犯して悔い改めている人々への許しである。

 

この世の子 不正を働いて隣人の負債を削減し友をつくる。

光の子   律法的には減ずることができない罪人の罪をとりなし許す

     (罪を許せるのは神のみという観点からは不正と捉えられていた)

 

<この世の子の抜け目のなさ>

主人の財産の不正から職を解かれる前に不正な借金の軽減をして負債者を救うことで、

職を失った時の保険をかけて彼らに職を失った時には助けてもらおうとした。

動機は自己中心であったし、方法も不正であったが、その結果困窮する人々は恵みを受けたことは悪くはない。

 

<光の子のあるべき抜け目のなさ>

弟子から解かれる前に、人々の罪の負債をとりなし、軽減されるよう働きかけて天の帳簿を書き換えなさい。

 

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」

 

周りで聞いていたパリサイ人はこのような小事に忠実ではなかった。

そこで大事に仕えることはできない。

彼らは罪人の罪を告発することはできた。そして取税人や娼婦や忌み嫌われる人々を避けて交わらないようにした。

自分の身の潔白を証明するために。

 

そこでイエス様は彼らにむかって言われた、

「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。」

 

神の愛を受けているアベル的存在は、神の愛から遠くはなれているカイン的存在に、

神の愛を箸渡す責任がある。

カインをアベルをとりなして神様のもとに導く責任がある。

アベルは神とカインの仲保者である。

 

 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

 

言うなれば「神」とは神の愛のこと。

 

「神は良い人にも悪い人にも恵みの雨を降らせる」とイエス様は語られた。

百匹の羊は、飼い主と同じところにいようが、道に迷っていようが

その注がれる愛には変わりがなかった。

「わが愛は1デナリの愛である」と神は語られた。

先に来てわたしと苦労した者にも、

後に来てわたしと苦労した者にも、

同じ1デナリの私の愛を与えよう。

エス様も神様もそう言われた。

 

人は分けることができず、

神の愛もまた分けることができないからである。

 

迷い失われた羊が、失われる以前の羊の価値に等しいとしても、

見出された羊は、もはやそれ以上の価値がある。

もはやその羊は、もはやその銀貨は、もはやその息子は

以前のものとは全く違う。

 

失われた銀貨も、失われる以前の銀貨の価値に等しいとしても、
探し出された銀貨は、当人にとっては、もはやそれ以上の価値がある。

そして父の御愛は絶対である。

父が激しく胸を痛められた代価によって、我らは永遠の喜びを受く。

 

さて、イエス様が語られた「大事」とは何なのだろう?

「真の富」とは?

そして真の富の管理とは何か?

 

「だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。」

 

前述の3つの喩え話は「罪」や「罪人」をテーマにしている。

エス様は、創造本然の真の富、すなわち神の嗣業をどのように任せたいというのであろうか?

 

神は人に三大祝福を与えられた。(創世記1章28節)

God blessed them. God said to them, "Be fruitful, multiply, fill the earth, and subdue it. Have dominion over the fish of the sea, over the birds of the sky, and over every living thing that moves on the earth."

 

1,Be fruitful 生育せよ(個性完成)

2,multiply 繁殖せよ(家庭完成)

3, subdue it 万ずのものを治めよ(万物主管)

 

これらの三大祝福の成就こそは、神の嗣業の相続であった。

小事とは贖罪であり、大事とは祝福である。

 

「真の富」とは、「ぶどう園の労働者の喩え」で明らかになる。

ぶどう園とは天国を象徴している。

したがってぶどう園での労働は、外的には農園の仕事だが、

内的には天国の建設を指すと思われる。

ここでは特に後者に注目しよう。

 

その仕事ぶりが良ければたくさんのぶどうの実を房に持つように、

善の繁殖をするところが天国である。

  

:1)天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。

:2)彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。

:3)それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。

:4)そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。

:5)そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。

:6)五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。

:7)彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。

:8)さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。

:9)そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 :

10)ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。

:11)もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして

:12)言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。

:13)そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。

:14)自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。

:15)自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。

:16)このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

マタイによる福音書 20章

 

神の愛は比較できるだろうか?

比較できる愛、それは堕落した天使長の愛である。

どちらがより多く愛されているとか、

どちらが先に愛されたとか、

そのような比較可能な世界には真の愛はない。

比較できる愛は相対的な愛。

人の愛は小出しだが、神の愛は十全である。

絶対愛である。

 

早朝から一番早く仕事を始め、日照りの中を苦労した労働者にも1デナリ。

最後の1時間ほどであろうか、そのような短時間働いた労働者にも1デナリ。

同一労働で同一時間に働いて同一賃金にはならない。

 

神の愛の立場ではなければ、

人が神と一体ではなく、

したがって他の人々とも一体にはなり得ず、

自分の愛の立場で不平不満を言うだろう。

 

神の契約は、まるごとの愛の契約。至善の契約。絶対の契約。

人々に序列を作る差別化された契約ではなく、

そのそれぞれが神と親子の一対一の契約。

子に対する親の愛に違いがあろうか?

 

長男は父の心情を思い、

次男も父の心情を思い、

三男も父の心情を思うなら、

仕事が早かろうが遅かろうが、

多かろうが少なかろうが、

難しかろうが易しかろうが、

同じ1デナリを受けて幸せなはずである。

 

神の祝福を最初に受けた夫婦も、

最後に受けた夫婦も、

その受けた祝福の価値に変わりはない。

では先駆けて歩んだ者と後から歩み始めた者に、

どんな違いがあるというのだろうか?

 

それは御父との心情の因縁が違うのである。

その心情の因縁を尊く思って拝して行くならば、

何の不足があるだろう?

 

み旨に精誠を尽くして歩んだ兄弟が、その時作った歌詞に込められた心情。

それはこの道を去って行ったとしても、その心情の因縁は永遠に残る。

だから聖歌は歌い継がれて来た。

心情一つをもって天に昇る。

それで充分ではないのか?

 

さあ、あなたは神の財産、神の嗣業をどのように分配するというのか?

 

「だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。」

 

 

神の存在を否定するマルクス主義は暴力革命を正当化するために労働者の搾取と抑圧を解決するために、商品の分析研究をして、そこに根本的な矛盾を発見したと見た。

マルクスは、商品とは他人のために生産される財貨であって、交換されるものであるとした。

一般に、もの(財貨)の価値とは、人間の欲望を充足させてくれる性質をいう。

商品に内在する性質は、普通物質の効用性といい、効用価値と呼ばれる。

効用性(効用価値)は実際に消費者が商品に接する時に知る主観的な価値である。

一方、有用性は商品自体が持っている客観的価値である。

交換される商品内には必ずこのような使用価値(効用価値)が入っているとした。

 

だが、マルクスはものが商品として交換されるためには、これ以外にもう一つの価値がなければならないとし、それを単に「価値」と呼んだ。

「商品は、使用価値または使用対象および『価値』である。」

マルクス資本論』青木書店 第一部上 153ページ)

 

 マルクスは価値とは労働量で決まると考えた。

その労働量は労働時間で測定できるとした。

 

「労働そのものの量はそれの時間的継続によって度量されるのであって、労働時間はさらに、時間、日などのような一定の時間部分をその度量基準としている」

(同上 119ページ)

 

実際には、一商品の価値は個々人の労働時間によって決定されるのではなく、社会的に必要な平均労働時間によって決まる。

 

「社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と労働の熟練および強度の社会的な平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するために必要とされる労働時間である」

(同上 120ページ)

 

勝共理論による要約では、

 

商品には使用価値と交換価値があって、このうち交換(売買)において重要なのは、価値(交換価値)であり、この価値は労働量によって決定される。労働量は労働時間の大小を意味し、したがって商品が交換価値をもつという言葉は、商品のなかに一定の労働時間(労働量)がはいっているということを意味する。このように、マルクスは「価値としては、すべての商品は一定分量の凝固した労働時間にほかならない」 (『資本論』前掲書75ページ)とした。以上がマルクスの労働価値説の要約である。

 

マルクスの詭弁の批判と代案は控える。

ここでは、ぶどう園の主人の立場が神の愛の思想であり、

マルクス主義とは、早朝から働いてきた労働者の思想であることを

理解願いたい。

マルクス主義とはサタンの思想だからである。

 

キリスト者が、もしぶどう園の喩えを理解するならば、

何故再臨主文鮮明師が勝共運動をされたかを理解できるはずである。

 

労働価値説や剰余価値節の簡単な批判と代案は以下を参照

http://www.utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-gaiyou01-siryou01-marukusu-hihan01-new.pdf

 

 

 天国とは目に見える美しい環境世界であるというよりも、

むしろ天国を創る心と行為なのかもしれない。

その時、御父はわれわれの内にあり、われわれと暮らされるのだから。

 

神の愛は1デナリの愛

 

神と羊たちは一体であった。

神にあって羊たちもまた一体であった。

神は羊を分けて見ることが出来なかった。

神は羊たちと一心であり一体であった。

そこで神は羊たちとともに住んだ。

 

この世では失くしていない銀貨も

一時は失くして探し出された銀貨も

その価値に変わりは生じない。

だが、失くした人にとってその銀貨は、見出されれば

もはや金貨であるかのように愛しい存在となる。

 

神は人それぞれに同一絶対の価値を与え給う。

その対象の価値が絶対であるのなら、

一人一人に注がれる神の愛も

変わりが生じようか?

神のまるごとの愛を誰が分割できよう?!

 

 (1) 霊 的 堕 落
 神は天使世界を創造されてから(創一・26)、ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ一四・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ二〇・1~15)と同じ立場であったということができる。このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。

原理講論 堕落論より

 

 イエス様のみ言も、

真の父母である文鮮明師のみ言も、

ご本人たちは著作権を主張されていない。

 

牧会者も説教者も教会教育者もみ言の翻訳者も私も

み言の著作権を無視している「不正な管理者」である。

だが、われわれの不正には目を閉じて、

み言葉の善なる繁殖を主は願われた。

わたしははっきり言おう。

み言の解釈も解説も翻訳も不正行為に違いないと。

人の褌で相撲を取るとはよく言ったものである。

もし、家庭連合の牧会者たちにそのような懺悔があったなら、

今日のような詐欺師にはならなかったであろう。

サンクチュアリ教会は決して再びこのような間違いを犯してはならない。

われわれは彼らの蕩減を晴らさなければならない。

アージュ

 

神様と真の父母様と三代王権に栄光あれ!

 

 


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