原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

エルサレム問題はイスラエルのアフリカ外交を踏まえて見たい この記事

イスラエルのアフリカ外交 より引用

===

パレスチナ問題が阻む国交正常化

イスラエルのアフリカ外交

 

アルハッジ・ブバ・ヌフ(Alhadji Bouba Nouhou)

モンテスキュー政治研究センター準研究員及びボルドーモンテーニュ大学教員

 

訳:生野雄一

 


 

 イスラエルは、パレスチナ問題を巡ってアラブ世界と対立するたびに、パレスチナを支持するアフリカ諸国との関係がぎくしゃくしてきた。それでも、自国にテロ組織などを抱える国々に武器セールス、諜報活動支援を含む軍事協力などを行うほか、農業、鉱業、灌漑、水の浄化など幅広い分野にわたってノウハウの提供を行い、徐々にアフリカ諸国との外交関係を回復している。[日本語版編集部]


©Cécile Marin

 


 トーゴのフォール・ニャシンベ大統領との熱烈な握手、ルワンダのポール・カガメ国家元首との寛いだ笑顔。イスラエルベンヤミン・ネタニヤフ首相はアフリカ大陸へのアピール作戦の最中だ。2016年末のサハラ南部歴訪での合言葉は、「イスラエルはアフリカに戻り、アフリカはイスラエルに戻る」というものだ。当時、イスラエルの外交戦略目標は2017年10月末のロメ(トーゴ)でのイスラエル・アフリカ首脳会議の開催のはずだった。マグレブリビアチュニジアアルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国の総称]を除く全アフリカ国家元首が出席するこの首脳会議は、エンジニアリング、農学、灌漑、セキュリティ等の分野で支援を前面に押し出すつもりだった。

 しかし、2017年を通じて、さまざまな緊張関係が積み重なっていく。6月初めには、モンロビアリベリア)での第51回西アフリカ諸国経済共同体(CEDEAO)の首脳会議にネタニヤフ氏が出席したことが、セネガルニジェール、ナイジェリアの非難を呼んだ。また、同首脳会議に華々しく復帰するはずだったモロッコは、土壇場になって出席を取り止めた。モロッコイスラエルは2000年に外交関係を断絶していたのだが、今回この会議に出席することでイスラエルとの関係を正常化したとみられることを怖れたからだ。こうしたためらいは10月のイスラエル・アフリカ首脳会議の行方に暗雲をもたらすものだった。案の定、夏には、西アフリカ諸国が次々とロメにはいかないと表明し出した。9月の初めには、南アフリカがネタニヤフ氏のイニシアティヴにとどめの一撃を放つ。こうして、ロメの首脳会議は中止を余儀なくされた。ホスト国のトーゴでは反大統領デモが展開されて国政が麻痺しただけに、なおのことだ。

 当初から、イスラエルとアフリカの関係はためらいと接近の間を揺れ動いてきた。1947年11月29日の国連でのパレスチナ分割決議[イギリス委任統治下のパレスチナを分割してアラブ国家とユダヤ国家を創設する議案]のときには、アフリカ大陸はまだ植民地支配下にあった。南アフリカ連邦[1910-1961に存在した英連邦国家。現在の南アフリカナミビアからなる]のほかには、当時のアフリカではリベリアエチオピアだけが独立国だったが、両国の立場は異なっていた。リベリアは決議に「賛成」票を投じ、エチオピアは棄権する。イスラエルとその隣国(エジプト、レバノン、トランスヨルダン[ヨルダンの前身]、シリア)の間での1948-1949年の第一次中東戦争の後、1949年2月から7月にかけて調印された停戦協定の不遵守により、イスラエルの国境線のあちこち、とりわけエジプトとの国境で衝突が繰り返される。イスラエルは、1955年のインドネシアのバンドンでの非同盟諸国会議[第1回アジア・アフリカ会議、通称バンドン会議]からは除外された。そこには、エジプトから英国軍を撤退させた栄誉に輝くガマール・アブドゥル=ナセル大統領が出席したのだ。1956年のスエズ危機[第二次中東戦争イスラエル・英仏対エジプトの紛争]でエジプトとイスラエルの緊張関係が高まる。英仏の協力を得て一時シナイ半島を占領したイスラエルは、「苦難の共同体」を前面に押し立てて、サハラ以南のアフリカに関心を寄せる。1960年代初めには、アフリカの指導者たちがキブツイスラエルの農業共同体](1)を視察訪問する。

 イスラエルは自らの戦略的利益を決して見失わない。たとえば、1956年の最初のエチオピア領事館の開設は、バブ・アル・マンデブ海峡[アラビア半島南西部のイエメンと東アフリカのエリトリアジブチ国境付近の海峡。紅海とアデン湾を分ける海峡]の重要性を認識している証左だ。紅海とアカバ湾[紅海の北奥、シナイ半島の東側を南北に細長く伸びる湾。両岸はエジプトとサウジアラビアで、最奥部にはイスラエルのエイライトとヨルダンのアカバがある]を経てインド洋に通じることで、イスラエルは先進諸国との橋渡し役になるつもりで、教育、健康、軍事、情報機関などの分野で模範を示そうとした。建国後間もないイスラエルは、とりわけナイジェリアで農業開発団体の創設を支援している。また、いくつかの国(セネガルマダガスカルケニア、オート・ボルタ[後のブルキナファソ]、マリ、ダホメ[後のベナン]、カメルーンコートジボワール、ガーナ、ナイジェリア、タンザニアギニア)で、イスラエルの青年戦士開拓者の例に倣って、農業開発の青年組織の立ち上げを支援している。

 1958年には、当時外務大臣だったゴルダ・メイヤがアフリカ諸国を歴訪したが、これは後にイスラエル外交の基準となった。「我々がアフリカを訪れたのは、国連での票稼ぎをしたいからではないか、ですって? もちろん、そうです。それも一つの理由ですし、とても大切なことです(2)」と1969年に首相になる彼女は言う。また、アフリカ諸国との関係には経済的側面も色濃くある。エチオピアウガンダ、ザイール(後のコンゴ民主共和国)、ケニアルワンダ、チャド、中央アフリカと経済協力協定を結んでいる。

 しかしながら、1967年6月の6日間戦争[第三次中東戦争]の後、エジプトの忠実な同盟国ギニアイスラエルとの国交断絶を決定する。緊張関係は、1973年10月の紛争[第四次中東戦争]とともにさらに高まっていく。この戦争では、マラウイボツワナスワジランドレソト南アフリカを除くほとんど全てのアフリカ諸国がギニアと足並みをそろえることになる。アラブ連盟は、イスラーム教諸国のイスラームの力学と石油という武器を同時に使ってイスラエルの孤立化を図る。西側寄りで反共産主義の最前線とされるイスラエル南アフリカの友好関係は、アフリカ大陸諸国の敵意を増幅させた。アパルトヘイト政策を採る南アフリカ政権に対する国際的な禁輸措置にもかかわらず、イスラエル南アフリカのダイヤモンドを輸入している。両国の緊密な軍事協力によってイスラエルは、[南アフリカの反アパルトヘイト政党である]アフリカ民族会議(ANC)に対抗する勢力を支援し、アンゴラモザンビークナミビアの革命運動に反対する勢力を支援する。

 1978年にイスラエルがエジプトと調印したキャンプ・デービッド合意[第四次中東戦争以来の緊張関係の解消を目指す両国間の和平協定]にもかかわらず、イスラエルは状況を立て直すことができなかった。1982年のシナイ半島からの撤退は敵国がイスラエルを非難する論拠をなくしはしたが、民族解放の要と考えられていたパレスチナ問題が引き続きアフリカ各国の外交当局の優先事項だった。1974年にパレスチナ解放機構PLO)をオブザーバーとして認めた国連総会では、アフリカ各国はほぼ一貫してパレスチナを支持してきた。すなわち、パレスチナ民族自決権の承認、シオニズムを人種差別だとして非難する1975年11月10日の国連総会決議3379号の採択(1991年に撤回)などだ。

 この後に起きた2つの対立する出来事がアフリカとイスラエルの関係を特徴づけることになる。ひとつは1993年のオスロ合意の締結。これによって次第にサハラ以南の約40カ国がイスラエルを承認するに至り、イスラエルは今日アフリカ大陸の11カ国と外交関係がある(3)。もうひとつは、南アフリカアパルトヘイトの終焉後、1994年にANCが選挙で勝利を収めたことで、南アフリカパレスチナの主張を支持する前衛に転換する。

 こうして、2001年に南アフリカのダーバンで人種差別に反対する国連の会議が開催された際に、アフリカとアラブ諸国イスラエルによる占領地域での同国の政策を非難する。2009年には、南アフリカのリチャード・ゴールドストーン判事率いる国連調査団がイスラエルによるガザ地区での「キャストレッド」[Cast Lead.ユダヤの祭日ハヌカで子供たちが遊ぶ独楽のこと]と命名された作戦での犯罪を非難した。このとき、アフリカ諸国はこの調査報告を支持した。2011年には、ほとんどすべてのアフリカ諸国(ブルンディ、カメルーンカーボベルデコートジボワールルワンダトーゴウガンダザンビアは棄権)がパレスチナユネスコ加盟に賛成票を投じた。

 2014年7-8月にイスラエル軍ガザ地区に侵攻すると、ダカールセネガル)、ザリア(ナイジェリア)、ラバト(モロッコ)、またはケープタウン南アフリカ)で、パレスチナ人民との連帯を訴える広範なデモが行われた。2016年には、セネガルが(マレーシア、ニュージーランドベネズエラとともに)パレスチナ領土でのイスラエルの入植を非難する国連決議案2334号を提出したため、イスラエルダカール駐在大使を召還する(2017年にはCEDEAO首脳会議の舞台裏で外交関係を修復)。

 しかし、パレスチナ占領地域を巡るこれらの緊張関係にもかかわらず、イスラエルは徐々にアフリカ諸国との外交関係を正常化していく。パレスチナ政権がしだいにありふれた政治勢力とみなされるようになり、もはや領土問題が民族解放の視点から扱われなくなるとなおさらのことだ。2011年のリビアの強硬派指導者ムアンマル・カッザーフィー[通称カダフィ大佐]の死亡と経済競争の激化により、アフリカ諸国の統一歩調に綻びが生じることになる。アフリカ中東センター(AMEC)のナエーム・ジェナ専務理事によると「アフリカ大陸のいくつかの国にとって、各国の利害意識が連帯意識にとって代わろうとしている(4)

 時間の経過とともに、イスラエルは、セキュリティ分野での拠りどころにもなった。サヘル[サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域]や“アフリカの角(つの)”[アフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部を占める半島]でテロリズムが激化すると、イスラエルは武器のセールスや諜報活動支援の競争で有利な立場になった。数年来の一連のテロ攻撃に手を焼いたケニアは、1976年のウガンダエンテベ空港での派手な人質事件を契機にイスラエルとの協力関係を強めた。2013年のナイロビのウエストゲート・ショッピングモールでの[武装集団の襲撃による]大量殺戮事件のときに、ケニアイスラエルのセキュリティ・サービスの支援を受けた。東アフリカでは、ケニアウガンダは、ジハディスト[イスラーム国家建設のためには暴力もいとわない政治・宗教集団]の勢力拡大に対抗する闘いにおいてイスラエルの主要な協力者となり、イスラエルは両国に対して特別顧問団や、小戦闘部隊、ドローン、監視装置、小型高速哨戒艇などを提供した。2011年に独立した南スーダンもこの地域でのイスラエルの新たな同盟国となった。この国もイスラエルと同じように、パレスチナハマスを支持するオマール・アル=バシル氏のスーダンイスラーム教政権に敵対していたのだ。

  アフリカの角は、アデン湾、バブ・アル・マンデブ海峡及び紅海における海上交通戦略上の要衝であるのはもちろんだが、サヘルや西アフリカ(ブルキナファソ、マリ、ニジェールコートジボワール)でのジハディストによる数々の攻撃は、潜在的イスラエルが関与する余地を与えている。たとえば、2013年4月14日、[イスラエルの退役軍人である]マイヤール・エレス将軍はカメルーン国軍緊急介入部隊(BIR)の組成を任じられ、極北州の州都マルアに陣取ってボコ・ハラム[反西洋文明、反現代科学を主張するイスラーム武装集団]を巡る危機管理に当たった。イスラエル国防省によれば、アフリカ諸国との軍事協定は2009年以来コンスタントに増えており、年間1億ドルを超えるとしている(5)

 イスラエルとアフリカ諸国の経済的な関係は、武器セールスや宝石売買にとどまらず、鉱業から環境保護技術、農業関連事業に至る幅広い分野に広がっている。イスラエル企業のベニー・スタインメッツ・グループ・リソーシーズ(BSGR)は、ナミビアアンゴラ南アフリカシエラレオネボツワナで、銅、コバルト、石油、ガスの採掘を行っている。ケニアでは、イスラエル企業がホテル業のインフラに投資しており、コートジボワールではテレマニアグループがソンゴン=ダグベ(アビジャンの郊外)に天然ガスの火力発電所を建設している。ダイヤモンド産業はイスラエルの資金を南アフリカボツワナに惹きつけている。イスラエルは、乾燥地帯での自国の経験を強調して、太陽エネルギーや水の浄化、農業でノウハウを提案している。イスラエル国際協力センター(Mashav)はとりわけ農産物加工業や農産業で毎年約100人のアフリカ人専門家を育成している。イスラエル輸出国際協力機構(IEICI)によると、南アフリカアンゴラボツワナ、エジプト、ケニア、ナイジェリア、トーゴイスラエルの恒常的な交易パートナーであり、モロッコですら密かにイスラエルとしっかりと外交・経済関係を保っている(6)

 2015年以降、イスラエルのアフリカ大陸向け輸出総額は10億ドルを超えている。アフリカがイスラエルの対外貿易の2%しか占めていないとしても、潜在的にはかなりの成長の余地があるとみられている(7)

 アフリカ連合のオブザーバーであるパレスチナは、イスラエルとの和平プロセスが行き詰っている現在、イスラエルのアフリカ取り込みの外交政策に脅威を感じている。2017年10月に、ファタハパレスチナの独立を目指す政治・軍事組織]の代表団がアフリカ諸国を歴訪した。アフリカ連合にとって好ましくない前兆というべきか、2018年1月にはアフリカ連合の議長国(任期1年)になる予定のルワンダの元首ポール・カガメは、2017年3月の米国訪問の際に、「ルワンダは紛れもなくイスラエルの友邦であり、イスラエルは国際社会の正式メンバーとして存在し発展する権利がある」と述べた。ロメの首脳会議が取り止めになったにもかかわらず、イスラエルのアフリカ大陸への大いなる復帰はおそらく時間の問題でしかない。

 


 

ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年12月号より)

 

===

 

フランスの視点は英米のメディアとは一味違う情報がえられることもあるようだ。

世界はつながっているものだ。