原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

生涯一書生 我以外皆師なりの心境 

中村天風の「真理のひびき」という本の中に山岡鉄舟の面白い行動の証が語られている。

詐欺師にあったときに、それも自分を語る詐欺師の行いを目の当たりにした時に、

われわれ凡人であれば「この野郎、詐欺師め!」と大声を張り上げて怒鳴り散らすろころだが、剣の腕もこの域に至れば実に面白い人格の味わいが出てくるものだと感嘆する。

 

 明治維新の直後、王政復古となったとき、ある宵、山岡鉄舟が仲よしの高橋泥舟と銀座を散歩していた。今日とは違って当時の銀座は夜店といってさまざまな品物を売る露店が今の京橋から新橋までの両側に、今の名古屋の目抜き通りよりもにぎやかにずらりとばかりに宵の口から夜更けまでも店を張っていたものである。(この風習は大東亜戦争終戦時から取り止めになったから、今日の青年は知らないと思う。)

そのとき泥舟が一軒の古道具屋に掛けてあった軸物を指して、

「おい山岡、貴様の筆だという掛軸が売りものに出ているぞ」

 というので、「そうか」といって鉄舟がよく見ると全然自分の書いた覚えのない字なので、「おい、そのかけものは誰が書いたものかね」と古道具屋の主人に訊ねると、ニヤニヤしながら、「ここに添え書きしてあるとおり山岡大先生の書かれたものです」とさもさも得意げに言うので、「本ものかね?」というと「真筆に間違いありません」という。そこで鉄舟が「お前は山岡という人を知っているのか」というと、「ええ、よく存じ上げていますとも」と当の本人の鉄舟を本人とも知らずに平然としていうので、実はオレが山岡だといおうと思ったが、あまりにもそのかけものの字が美事なので、「ずいぶんうまく書けているね」というと、店の主人がこういった。

「これは山岡大先生の傑作なのです。実は故あって私の手に入りましたものですが、いかがです、お求めになっては」。試みに「いくらだね?」と訊ねると、「ほんとは十両と申し上げたいのですが、今夜の初めてのお客さんですから思い切って五両にしておきます」という。山岡は笑いながら、よし求めてつかわそうと即座にそれを買い取ったので、傍らにいた泥舟が、「よせよ、全然覚えのないにせものなんか買うなよ」というと、「にせものということは一目で分かる。が、とても美事な筆蹟だ。それに書いてある文章がとてもよい言葉だから、オレはこれを手本にしてみるつもりだ」といって常に床の間にかけて生涯大事にしていたというエピソードがある。また、これに似た話が頭山恩師にもある。

 それは翁の居室に西郷隆盛の書という額が掲げられてあったのを、あるとき野田大塊が見て、「こりゃにせものたい」というとニコニコしながら、「にせものでも文句が善かけん、おいどんはほんものだと思うて朝夕有りがたく心の鏡としてみとるよ」とこともなげにいわれた。

 それを傍らで耳にした私は、なるほど模倣に対する結局は、その心の思い方、その人の考え方で、よくもわるくもなるんだと、つくづくその言葉から量り知れない尊いものを直感したものである。

 

本物が偽物の書いた美しい筆蹟と、選び抜かれた言葉に感心して、床の間にかけて生涯手本にしようと、お金まで払って掛軸を買ったという山岡鉄舟のエピソードを天風が語っている。

普通の人は誰が書いたかで掛軸を求めるが、どのように何が書かれているかを鉄舟は見た。もったいないと思ったのだろう。

頂上に立ったときに詐欺師からも何かを学ぶことができる心境とは何なのだろう。

 

妖邪な詐欺師のわれわれが、文先生に拾われて、

「いいじゃないか、偽物のくせに本物のようじゃないか。どこでわたしを真似てきたのか?」と言われればしめたものだろう。

 

普段より、生涯一書生 我以外皆師なりの心境があればそれは可也か。

味わい深い人間になりたいものだ。

 

山岡鉄舟 - Wikipedia より引用

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江戸無血開城[編集]

 
西郷・山岡会見の史跡碑
静岡市葵区

慶応4年(1868年)、新たに設立された精鋭隊[8]歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会する。

2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。

このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[9]

3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、

  • 一、江戸城を明け渡す。
  • 一、城中の兵を向島に移す。
  • 一、兵器をすべて差し出す。
  • 一、軍艦をすべて引き渡す。
  • 一、将軍慶喜備前藩にあずける。

というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなった。

3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。

 

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