原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

西郷隆盛は私塾生のなすがままに逆賊と果てた

www.youtube.com tanba kusaka より引用

 

くるとさんの説明は、前提の内容が省略されているようなので、

ブログだけ見ると実にわかりにくいかと思いますので、上記の動画を持ってきてみました。

ここには、4点のポイントが出てきます。

1,西郷がキリシタン禁教令を解除した

2,敬天愛人は聖書の黄金率

3,川邊牧師の曽祖父の家に西郷が度々訪れ聖書の話をした

4,日本最初の教会である横浜海岸教会で洗礼を受けたと書かれた日記(戦時に消失)

 

当時キリスト教に関心があった武士は漢文の聖書を読んでいたと言われています。

では、西郷はどうだったのでしょうか?

西郷隆盛は聖書を教えた 「敬天愛人」にも影響か : クリスチャントゥデイ より引用

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NHK大河ドラマ篤姫」で再び注目を集めている西郷隆盛(南洲翁)が民衆に聖書を教えていたことが最近、生前の西郷を知る父を持つ地元住民の証言などから明らかになった。これを受け、鹿児島市上竜尾町の西郷南洲顕彰館で昨年末に開催された展示会「敬天愛人と聖書展」では「西郷さんは聖書を教えた」との証言パネルを紹介。また、西郷の思想に影響を与えた書物として、西郷が実際に読んだのと同じとされる天理大学付属天理図書館所蔵の香港英華書院刊「新約聖書」が展示された。西郷といえば「敬天愛人」の思想や、新政府軍を最後まで圧倒した庄内藩に寛大な処置を施したことで有名だが、今回の発見でそれらの言動に聖書の教えが深く関係していた可能性が強まった。

 

 西郷が説いた「敬天愛人」とは、「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」 (西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓より)という教え。これは、マタイの福音書22章37〜39節にあるイエスの教え「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」と酷似している。

また、マタイの福音書5章43〜45節には次のようなイエスの教えがある。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

 死後130年経った今、西郷が聖書信仰をもっていたかどうかの立証は難しいかもしれないが、西郷がその生涯を通して聖書の教えを体現したことは事実である。

南洲翁のひ孫・隆文さんは同紙のインタビューに、「(西郷が)聖書は読んでいたかもしれないが、忙しい身で普及させていたとは思えない」としながらも、「死後百三十年たった今も謎が多く、いろんな切り口で情報が出てくる。まだまだ”生きている”とびっくりする」と話している。

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さて、お父様の西郷の評価については、くるとさんの文章理解にはかなり無理があると思います。

まずはサタンに翻弄されて来た日本民族の愚かさを悔い改める!|聖霊のもとにーメシヤの涙

 

西郷は忠臣であったが、逆賊になってしまったということだと思います。Follow My Heart さんのブログに掲載されている動画をここでも紹介しましょう。

www.youtube.com

 

わたしもこの動画のように西郷は私塾生を見殺しにするのか、忠臣を捨て去るのか悩んだというのが、無理のない理解かと思います。

そして、忠臣であることを捨てて、逆賊の道を行ったということでしょう。

素直に読めば、お父様も同様な意見かと思います。

わたしがブログで言いましたように、西郷が一粒の麦の喩えのように、自分の命と引換えに、子塾生の命を守って欲しい、また蜂起は今後させないとわたしが説得すると言えば、収まる可能性があったと思います。

もしそうなれば西郷に対して、十字架を負ったということもできたかと思います。

ですが、実際は無駄死にさせました。

しかも逆賊として死なせてしまいました。

指導者としてあるまじきことでした。

乃木の203高知とは天地の差があります。

 

実を言えば、わたしはくるとさんが益村公俊さんの成し得なかったことを果たしてくれるのではないかと、密かに期待しておりました。

益村さんには、「歴史の見方 社会の見方」というの本があったのですが、それが参考になると思います。

なかなか手に入りませんが。

次に、「日本の希望」です。

このあたりを相続されてから、くるとさんの持ち味で研究を進めたほうが良いかと思います。

 

気になりますのは、くるとさんは豊富な御言葉をご存知でいらっしゃいますが、

それらは部分的なものですから、原理講論や原理原本、統一思想などの全体観から位置づけて説明されるとさらに説得力が出るかと思います。

また、聖霊という言葉が頻繁に使われるわりには、新約聖書の引用が少ないのには物足りなさを覚えます。

 

確かに日本は聖霊によって導かれてきましたが、聖徳太子が基台を造れずに、藤原氏に権力を握られて以降、歴史的使命者たちが天に対する裏切りに裏切りを重ね、完璧にサタンに主管された国となっていたのです。聖霊に導かれてきたと悟る以上に、まず、サタンに弄ばれ、蝕まれてきた日本民族であったことを自覚し悔い改めなければならないのです。

 

亨進様やヨナ様は神様の聖霊とか真のお父様の聖霊というような意味の使い方をよくされていると思いますが、ここでくるとさんが使っている「聖霊」とはどのような意味なのでしょうか?

 

日本史に潜む神様と聖霊との関係が浮かび上がってこそ、亨進様が日本の祝福家庭を訪問することを通しての聖霊体験を為した真の意味が浮かび上がってくると思っています。それを指示したお父様の計らいの深遠さ・・・。そして聖霊に導かれて、夜の神様と一体となったお父様との出会いを果たされた、二代王様の尊さが浮かび上がってくると思っているのです。

 

神様と聖霊との関係」というと、二神論のように聞こえます。

キリストと聖霊との関係は、キリスト教では語っても、神様と聖霊との関係」はどうでしょうか?厳しいかと思います。

亨進様の体験は、普通キリスト教が言う聖霊体験とは違うと思いますが。

くるとさんにとって、「聖霊」とは父なる神の霊という意味ですか?

一体何なのでしょうか?

エス様の相対としての霊でしょうか?

複数の意味を持つのでしょうか?

 はっきりしませんね。

西郷隆盛西南戦争という十字架に生命を捧げた後、イエス様復活以降に世界伝道に出立した十二弟子のごとくに、西郷が十字架上に結実させた「敬天愛人」の思想を伝えるために、その教えを携え、全国を手分けして行脚した人々がいたのです。その人々が積んだ功績ゆえに、私・諸星くるとは、日本史に潜む聖霊との深い関わりを教えられたと受け止めています。

 

西南戦争は蜂起です。

大橋健二という優れた陽明学の研究者がいるのですが、その方の本に確か中村敬宇

敬天愛人」を西郷が受け継いだのだろうというようなことを書いていました。

佐藤一斎から儒学を学んで、キリスト教徒になった中村正直中村敬宇)が、歴史上初めて使った熟語が敬天愛人です。

詳細は以下にあります。

【歴史余話 [第十二話] 校訓「敬天愛人」と九州学院】九州学院100周年記念歴史資料・情報センター より引用

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開校3年目の1914(大正3)年4月、遠山院長によって西郷隆盛の愛誦語「敬天愛人」が校訓に定められた。「敬天愛人」が校訓となった経緯は、1913(大正2)年に行われた最初の県外修学旅行で、引率者の藤井寅一教頭が、西郷が揮毫(きごう)した書の石刷りを持ち帰ったのがきっかけである。遠山院長が修学旅行団のことを事前に連絡していた、メソジスト鹿児島教会の柳原直人牧師から藤井教頭が貰い受けて来たのである。それを協議のうえ、大正3年4月15日に遠山院長が校訓として定め発表したのである。
 しかし、校訓としたからと言って『西郷南洲遺訓』に表明された西郷の敬天思想及び陽明学的人倫思想を九州学院の人格教育の標語として採り込んだという訳ではない。「敬天愛人」が、九州学院キリスト教主義人格教育の理念を象徴的に表す標語として用いるのにふさわしかったのである。
 そもそも敬天愛人」は西郷隆盛が最初に用いた語ではない。諸橋轍次博士の『大漢和辞典』の「敬天愛人」の項には「西郷南洲の語」と解説があり『西郷南洲遺訓』中の一文を引証しているが、西郷の造語というのは間違いで、西郷が愛誦し揮毫した語(四字成句)と解すべきである。
 「遠山参良先生蔵書遺本」(九州学院所蔵)中に、サミュエル・スマイルズ(SAMUEL SMILES)の著書“SELF-HELP”(『西国立志編』)と“CHARACTER”(『西洋品行論』)の洋書がある。遠山院長が

愛読し、第五高等学校や九州学院などで教材に使ったのかもしれない。実際、泰西自由主義が標榜され民権道徳が教授されていた徳富蘇峰の「大江義塾」(明治15年3月~19年12月)では、修身の教科書として『西国立志編』、『西洋品行論』が採用されていた。
中村正直(敬宇)

中村正直(敬宇)

 “SELF-HELP”(1859年発行)は、中村正直(号・敬宇=敬天)によって1871(明治4)年7月に『西国立志編 原名 自助論』として訳出出版され、福沢諭吉の『学問のすすめ』(明治5年2月~9年11月出版)と共に明治の二大啓蒙書となった。「明治の聖書」と言われ、当時の日本で総計百万部は出たといわれるほどのベストセラーとなった。このイギリスのブルジョア的勤勉立志を説いた『西国立志編』は、近代国家と資本主義の形成期にあって、封建的な儒教に替わりうる西洋のキリスト教的道徳を教示してくれる書として多くの青少年に光明を与えた。
 中村正直は1868(明治元)年6月イギリス留学から帰朝し、10月静岡学問所が開設されると、一等教授に任命され「敬天愛人説」を著した。この著述で、中村正直が日本人として初めて「敬天愛人」を使ったのである。そして、静岡で中村から訓えを受けた薩摩藩士最上五郎から、西郷は「敬天愛人説」を伝え聞き、敬天の思想に目を見はった。
 明治4年『西国立志編』が刊行されると、たちまち全国に流布し、「明治の聖書」といわれる啓蒙書となった。明治6年征韓論に破れ鹿児島に下野していた西郷隆盛も、当然この著書の「敬天愛人」の精神に深く共鳴したに違いない。以後、西郷は「敬天愛人」を愛誦語として書き記し、それが広く世に知れ渡るようになったのである。
 「天はみずから助くるものを助く」(Heaven helps those who help themselves.)で始まる“SELF-HELP”『西国立志編』の「自助の精神」が、九州学院の校訓「敬天愛人」の基底にはある。さらに、聖書の福音(「マタイによる福音書」22:37~39)を原典とすることによって、教訓「自分で自分を監督し、役に立つ善人となれ」とともに、遠山院長が構想したキリスト教主義学校の根幹を支える建学の精神となったのである。
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話がそれてしまいましたが、くるとさんの持ち味がもっと発揮されることを強く願っております。そのためには、言葉をもう少し吟味して用いられる方が良いかと思うのです。
徳川家康が長子と妻を捧げたイサク献祭によって、ようやく歴史の影で神様と聖霊の働きが及び始めるようになったのです。その影の働きが、表舞台に現れた出来事が、西郷隆盛勝海舟による江戸城無血開城による、日本の蕩減復帰摂理上のアベルカイン一体化でした。
 
ここでもまた、イエス様と聖霊の働きではなく、「神様と聖霊の働き」という表現になっています。その後の文章も難解です。
つまり使っている言葉はキリスト教的ですが、実際上の意味や使われ方は同じではないような可能性が感じられます。
ほとんど理解不可能な表現です。どちらがアベルでどちらがカインなのか?それは何によって決まったのか?そもそも復帰摂理はヘブライズムやキリスト教という中心史には用いられうるが、周辺史には適用可能か李相軒先生もわからないというのに何故同じ法則が働いているといえるのか?
検証が必要です。
ということは少なくともキリスト教を中心に辿っていかなければなりません。徳川家康キリスト教を迫害した人物なのに、何故イサク献祭がでてくるのか?単なる犠牲ではないのか?どうして中心人物のように扱おうとされるのか?不思議です。
例えば、日本史をキリスト教伝搬以前と以後に分けて考えてみる。以前の歴史ではキリスト教を迎えるための準備時代という位置づけで把握する。それ以降はキリスト教を信じる中心人物とその時代での役割とその成果などの整理をするといったように、何らかの方針を立てられたほうが良いのではないでしょうか?
何か重要なことを掴んでいるように思えますが、このままだと、ファンタジーになってしまうのではないかと、残念でなりません。
テーマが大きいので、目次などを作ってから、構造化してから説明されてはいかがでしょうか?また、最初に説明すべきことは、どのような原理的な方法ないしアプローチで分析しようとしているのか明らかにすると、なるほどそういうことで具体的な話が出てくるのかと合点がいくと思います。
「和をもたらす母性の心情の土台を残そうとした天の勢力
どこか女性連合の言う「男性は戦争を起こして来たが、女性は平和をつくる」という言葉に似ていますね。日本教の気配がするのは気のせいでしょうか?
 
わたしの説明も不十分で不親切ですので、また後ほど益村氏のどこを私たちが学ぶべきか少しばかり引用してみたいと思います。いくらか具体性が見えるのではないかと思うからです。
 
それから、お父様の御言葉ですが、何故日本をボロクソに言っているのか、読まれた方はおわかりになられましたでしょうか?
 
日本のものは韓国から渡って行きました。仏教も韓国から渡って行ったのです。文化も全部...。明治以前までは名前もなかった野蛮民族です。姓(苗字)もありません、

 

最初の仏教ですが、聖徳太子の先生が韓国のお坊さんでした。
そこから日本仏教が始まると言って良いでしょう。
六角堂で親鸞に受け継がれます。
浄土真宗の信者数が日本では最大だったと思います。
 
あとの方は、現代では韓国に何があるでしょうか?日本には世界中から学びたいものが溢れています。それにもかかわらず、何故蛮族なのでしょうか?
姓がない、すなわち血統を重んじないからです。
神が最重要視することが、血統を重んじるということです。
他のすべてが欠落していても、これが復帰摂理には欠くことができません。
復帰摂理は血統転換の歴史でした。
世界一血統を重んじる民族が朝鮮民族でした。
神はそれゆえこの民を選びました。
日本は血統が途切れても家は途切れないようにします。
家を重視するのが日本でした。
 
 
最後に西郷ですが、わたしも西郷が嫌いなのではありません。
わたしが好きな勝海舟が西郷を追悼する歌で筆を置きたいと思います。
 
ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが
なすがまにまに 果てし君かな
 
 
 
 


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