かってチャーチルはガリポリの戦いで大きな挫折を味わうことになった。
ガリポリの戦い - Wikipedia より一部を引用
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1914年に始まった第一次世界大戦はフランス、ベルギー方面の西部戦線で膠着状態に陥り、局面の打開が求められていた。またこの頃、連合国側に参戦していたロシア帝国は、コーカサス方面から同盟国側のオスマン帝国に進軍したがオスマン軍の猛烈な反撃に直面し、連合国に支援を求めてきた。そこで、イギリスは海軍大臣ウィンストン・チャーチルの主唱でダーダネルス海峡西側のガリポリ半島を占領し、オスマン帝国の首都イスタンブールに進撃する計画が立案された。
イスタンブールを占領することができれば連合軍はボスポラス海峡を通じて黒海方面でロシア軍と連絡可能になり、またブルガリア、ギリシャなどバルカン諸国が連合国側になびくことも期待できた。そこでサー・イアン・ハミルトン将軍を司令官とする地中海遠征軍の派遣が決定された。
地中海遠征軍には英自治領オーストラリアとニュージーランドからの志願兵よりなるオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC) と英第29師団、イギリス海軍師団、フランス部隊が参加した。これに対し、オスマン側はドイツ帝国から招いたオットー・リーマン・フォン・ザンデルス中将を軍事顧問とする最精鋭の6個師団よりなる第5軍団が配置されていた。また、ダーダネルス海峡全域に大量の機雷を敷設した他、海峡の両岸に多数の砲台を設置して海峡そのものを要塞化していた
この戦いによる各国軍の戦死・戦傷は次のとおりである。
- オスマン帝国軍 : 戦死86,692人、戦傷164,617人
- イギリス軍 : 戦死21,255人、戦傷52,230人
- フランス共和国軍 : 戦死約10,000人、戦傷約17,000人
- オーストラリア軍 : 戦死8,709人、戦傷19,441人
- ニュージーランド軍 : 戦死2,701人、戦傷4,852人
- イギリス領インド帝国軍 : 戦死1,358人、戦傷3,421人
- カナダ軍 : 戦死49人、戦傷93人
これ以外に、長い塹壕戦のため約140,000人の連合軍兵士が腸チフスや赤痢で病死したと推定されている。
イギリスの物理学者でモーズリーの法則を発見したヘンリー・モーズリーも戦死した。
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海軍大臣辞任どころか、自分が立案した戦略が成功せず、これだけの人々の命が失われたのである。どれだけ挫折を味わったことだろうか。その後も彼は前線に復帰して戦場で功績を重ね、天が再び彼を召命することになるのである。
チャーチルの挫折の数々は以下のサイトに紹介されている。そこに彼の名言が訳とともに載っている。
英元首相ウィンストン・チャーチルのことば | たかが英語されど英語 おとなの英語習得法 より引用
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英元首相ウィンストン・チャーチルのことば
日本語訳:
「悲観的な人は、好機の中にいつも困難を見つける。楽観的な人は、困難の中にいつも好機を見つける。」
チャーチルが経験した挫折の数々
- 第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導したが、アントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し辞任。
- その後、ロイド・ジョージ内閣で戦争大臣と航空大臣に就任したが、主張の反感を買い、植民地大臣への転任を命じられる。
- スタンリー・ボールドウィン内閣では財務大臣を務め、イギリス貿易が弱体化する中、金本位制復帰を行ったが失敗。第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが北欧戦で惨敗。
- チャーチルが首相就任後、1941年12月以降、東方植民地である香港をはじめとするマレー半島一帯のイギリス軍の相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの失態を犯した上に、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招く。
- 1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、総選挙で保守党は惨敗。チャーチルは首相を退任。
- 第二次世界大戦後、イギリスはアメリカとソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、インド等の植民地のほぼ全てを失うこととなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落。
- 1951年に再び首相に復帰。1955年に政界から退く。
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信仰が小さければ試練は大きく感じられ、信仰が大きければ試練が小さく感じられることに通じるチャーチルの言葉である。
アウトサイド イン なのか、
インサイド アウト なのか?
環境に主管されない主体性を我々も確立したいものである。
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