原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

内に一物もなく 外に求めるものもない

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窪田慈雲先生の講話をたまたま見つけました。趙州録(じょうしゅうろく)の内容についてお話されています。

 

善なる天使長が人間のために起こしてきた宗教、

あるいは個人の救いを求めてきた宗教は、

長成期の完成級に向かって人間の霊性が復帰されていくことに貢献してきました。

キリスト教においては神やイエス様と合一することに、その道を求めてきたのですが、

仏教においても同様に仏と一体化する道、あるいは本来的自己である仏性がもとより人間には備わっており、仏性が生まれてくる必要もないばかりか、無くなることもないという境涯というのでしょうか、われわれで言えば霊界に至るようです。

そのような心は創造本然の人間にはたいへん当たり前な姿であったはずです。

ちょうど息を吸ったり吐いたりを四六時中しているようなもので

本人が何らかの事情で呼吸していることに意識を向けなければ

何もことさら取り上げる必要もないことのように思われることと似ています。

人間が堕落してしまったから、また堕落した人類始祖から生み繋がれてきたから、

原罪という柵を持っているがゆえに、あたりまえのことだという感覚が失われてしまいました。いやなしがらみです。

そこで、禅では大悟を果たした後で、ようやく俺もこのように大悟を果たしたという、へんちくりんな垢のような思いをもかなぐり捨てて、悟後の精進を果たして行かれるというのです。

創造本然の本心や良心を持ったならば、堕落世界と比較すれば大したものだ俺様は、というような気持ちに人間は試練を受けるというのです。

それは、相対の世界です。

だが、絶対の世界では人々がそのような心を持っているのは、極めて珍しい事でも、誇らしいことでもない。そこで復帰の道をゆく仏教徒は一旦大悟を遂げたなら、その垢のようなものを落としさって、すっかり空っぽになろうとします。

この空っぽ感が連体感だと思います。

あらゆるものが連体として存在している。

一体一如です。

相互関連性とは有機連体性。

 

すると、人からつばを吐きかけられても、一向に動じなくなるといいます。

何か現象として我々の前に起こってくる出来事がぶつかってきた時に

ああ、神様がぶつかってきたのだと、お父様がぶつかってきたのだと

こう思えばいいのですが、なかなかそうは行かないものですね、

神様が通りすがりに私にぶつかってきたら

「なにしやがるんだ、てめえ」

とは言わないでしょう。

お父様がぶつかって来たら

「いやあ、お父様にぶつかっちゃったよ」

と得意に語る人も出ることでしょう。

怒るのではなく、嬉しそうに。

 

そういうような普段の日常感覚、

 

ですから、禅僧の趙州は自分にあったことのない者から

趙州という偉い人がいると聞いた時に

「そんな奴がいるなら、呼んで来い。俺の足を洗わせてやる」

と言って度肝を抜かせます。

 

若い頃からこの方には類まれな宗教性があったようで、南泉に出会った時弟子になることを許されます。南泉は馬祖の弟子の一人で大変厳しい方でした。

その方のもとで40年指導を受けます。

そして数百人の門弟の中で誰が見たって筆頭になります。

師が亡くなられたのが57.8とかの時です。

3年喪に服していよいよこの方が後継者になるだろうと皆が思ったことでしょう。

ところが、これを捨てて趙州はさらに20年間の修業に出て行ってしまいます。

そして、あちらこちらで道を求めている方が山篭りしています。

その方々に会って問答を繰り返しながら自身の悟りの確認作業をされたのでしょうか。

悟ったという観念のひとかけらもない世界に入って行きます。

 

80歳にして、120歳まで人々を教え導きます。

それは厳しくて常に20人を超えませんでした。

お父様も良い先生は厳しい先生だと言っておられました。

本当は120年生きるべきお方でした。

 

享楽や金と地位と名誉を捨てきれないと、悟りには至れないといいます。

文鮮明恵父の尊いお言葉を想い出しましょう。

わたしが吸収したもの以上の存在価値を現してこそ

我々は被造世界の主管者として価値連鎖の階層の頂上に立つことが許されます。

吸収し投入したエネルギー以上の価値を現す存在として神の子は認められます。

勿論、お父様は本気で私たちに語ってくださっています。

「エンドレスなんとか」とか訳の分からない言葉は、サタン世界の言葉です。

我々宗教者には無縁の言葉です。

堕落した天使長に使っても、その毒気に自分がやられぬように心せねばなりません。

お父様は我々のような凡人が、いつまでたってもうだつがあがらないので

この世の享楽も、財産や地位も、名誉も捨てきるように追い込んでくださいました。

どうしてかくも我々を本質的に愛してくださることでしょうか!

驚くべき奇跡の恵みを下さる方でした。

アージュ

 

我々はダンベリーのお父様に学びましょう。

 

人が嫌がることをどんどんやり続ける。

自分がやる必要のないことをどんどんやり続ける。

報われることとは関係のない世界で続ける。

そのためにだけ生まれてきたのだというように淡々とやり続ける。

息を吸ったり吐くのと同じように無意識にできたら

きっとダンベリーのお父様が宿るでしょう。

 

 

『皆さん自身の生涯の道を知らなければなりません。一生の間に食べたご飯の量、次に仕事をした量、その次に消費した量、その次に愛した量…、これらを比較するとき、そのすべての中で、愛した量が他のなによりも多くなければなりません。

 皆さん、本当に神様を愛して、本当に人類を愛する立場に立ったと言いますが、言葉で言うのは簡単です。本物の涙を流したことがありますか? 本物の汗を流しましたか? 国のため、世界のために血の汗を流し、涙を流せば、それはなくなりません。それは必ず自分の利益となって、自分の子孫万代に返ってくるのです。まちがいなく返ってくるのです。こういう内容を知ったゆえに、愛のみ旨のために、このような人生行路において、力強い勝利者として歩むということを、皆さんは心に決めなければなりません。不平は不平を生みます。ですから、不平を言ってはなりません。

 その次には何かといえば驕慢です。自己驕慢は禁物です。なぜでしょうか? 生畜の祭物であるからです。生畜の祭物、そうです、私たちがご飯を食べるときも、祭物の立場で食べるのです。そうなれば、私がご飯を食べることを神様が好むのです。仕事をすることであれ、話すことであれ、感じることであれ、すべてを祭物の立場でなさなければなりません。

 祭物が不平を言うことができますか? 不平を言うことはできません。モリヤの山上で、アブラハムが息子のイサクを祭物として捧げるとき、イサクが「お父さん、私はお父さんの息子なのに、なぜ殺そうとするのですか? 羊を捕まえて祭物にしないのですか?」と言いましたか? 不平を言いましたか?

 その次には自分を犠牲にしなければなりません。イサクは「わたしはお父さんの息子です。アブラハムの息子です。そんなあなたの祝福を受けた息子なのに、代を継ぐ息子の立場を考えないのですか?」とは言わなかったのです。そのように考えなかったのです。

 最初は何でしたか? 不平を言ってはなりません。二番目は驕慢になってはなりません。自分を考えるなというのです。それゆえ、私が不平を言われる立場に立つのは幸せなことです。全体のための立場、不平を言われる立場に立とうというのです。不平というのは外部に出ていくときに不平となるのです。私たちは不平を言わず、天のために生き、人類のためにみ旨をするときにも、外部の人に不平を言われるようにしようというのです。

 その次に、人を低くすれば、その人の前に自分が低くなるのです。人を高めてあげるとは、その人のために祈祷してあげることです。祈祷してあげることなのです。その立場はどのような立場かというと、自動的な生畜の祭物の立場なのです。「あなた方のすべての罪を全部私が被ります。恨んだり、不平に思ったり、讒訴したりすることを、全部私が被りますから、あなた方は解放されますように」と言うことが、どれほどすばらしいことかというのです。

 祭物は、死んだ後、血を流した後には、すべてが頭を下げます。それゆえ、私が祭物になって死んだ後に、町に碑石が立てられてみなが称賛するのです。国が称賛するのです。先生が死んだ後に米国が悔い改めをし、韓国と日本がひざまずいて悔い改めをするでしょう。韓国は反対していても、先生が死んだ後に悔い改めをして振り返るでしょう。これが祭物の行く道です。これが生畜の祭物です。先生は生涯の間、そのような原則を定めて歩んでいるのです。

 家庭が反対しても、宗族が理解するようであれば家庭は屈服します。国が理解するようになれば宗族は屈服するし、世界が理解するようになれば国は屈服します。後には全部屈服してきます。本当に不思議なのです。そのような祭物の道を行くのですが、祭物は恐ろしいのです。祭物を冒涜すれば、冒涜した罪を受けます。それゆえ、讒訴したりすることを、全部私が被りますから、あなた方は解放されますように」と言うことが、どれほどすばらしいことかというのです。
「祖国光復と入籍」 1980年1月20日

 

 


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