原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

地上生活と霊界 上 肉身をもって体恤可能な霊界 自動書記でイエス様を名乗る霊が推薦した御言葉

少し前にブログでイエス様を名乗る霊の自動書記が紹介されていました。

その中でイエス様が推薦していた御言葉は私自身も注目していた、信仰生活の向上に欠かすことのできない、いわば核心に迫るお父様の御言葉でした。

そこで、自動書記の文章と推薦された御言葉を併記して、食口の皆さんの便宜を図りました。

太字赤い字は私が手を加えたものです。

また、当ブログの内容で関連性があると思われる記事のリンクも二つ施しましたので、ご理解の補助になれば幸いです。

この自動書記ではお父様の承認を受けたと説明されてご自分の見解を述べています。

さらに、承認を受け(お父様の直接主管の下)ている証拠のひとつとして、お父様の御言葉に帰るよう助言されています。

有名な人物の霊が降りてきた際には、その人物の名前をいったん横に置いて、

その方が語る言葉の内容と、実際の歴史的資料からわかる人物像を照らし合わせて、

同様の霊的基準にあるかを確認・点検しなければなりません。

また、地上が主体であり、霊界が対象であるというスタンスをとっていなければなりません。いわゆる協助なのか操作や支配なのか見分けなければなりません。

はじめに善霊を装って来て、次第にわからぬように悪なる欲望をもって地上人を主管しようとすることが多いものです。

有名人ではないが本人が喜んで発奮するから、本人が尊敬する人の名を借りて出てきて、摂理的方向に協助する場合もあります。

善神の業と悪神の業の違いをよく確認されるとよろしいでしょう。

 

前書きが長くなるので、ここまでにいたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

三代王権・真のお父様に帰ろう!サンクチュアリ教会: 2016年1月11日 自動書記によるイエス様のメッセージ

 

 

エス様のメッセージ
2016年1月11日

全ての人に聖霊が必要です


親愛なる兄弟姉妹の皆さま、
私はナザレのイエスです。私の未完の使命を完成した文鮮明師の承認のもとに、このメッセージを伝えています。
私は十字架によって私の人生を終えたくはありませんでした。
私がこのメッセージを文鮮明師の承認のもとに書いているということに対して、気分を悪くしないでください。これは、霊的な秩序を意識することによって、述べていることです。文師は今、私と同じくメシアです。クリスチャンの兄弟姉妹の皆さん、どうかこのことで気分を悪くされないでください。これは、霊界での事実であると同時に、天のお父様である神様の目から見た事実なのです。
文鮮明師は、地上でメシアの使命を成し遂げました。このことがあなたの信じていることと違ったとしても、どうか気分を悪くなさらないでください。2000年前、パリサイ人などは私をメシアと信じたでしょうか。私は彼らにとって、メシアに見えたでしょうか。彼らは大工をメシアと思ったでしょうか。メシアは王子様や王様のようであるべきでした。どのようにしたら、大工がメシアになれるでしょうか。
ですから、韓国語のような言葉を話す男が、どのようにしたらメシアになれるでしょうか。最近までほとんどの人が存在することさえ知らなかった、戦争で破壊された国から来た男ではないですか。それは、世界の歴史の中に埋没していた隠れた王国であり、そんな国からどのようにして、メシアが出てくることができるでしょうか。
血統が鍵です。韓国人は純潔に重きを置いてきました。彼らは何千年も純潔を重要視することによって、彼らの心と体と魂を清めてきました。このことによって彼らは選ばれました。
韓国人が西洋人に対する時の文化の壁はとても大きいです。文鮮明師に従う韓国人指導者たちの「隠れた王国」のような精神はとても強いです。彼らは自分たちが特別で選ばれた人たちだと思っています。しかし、彼らはこのような思いを、メシアとの関係において、強く持ちすぎました。
彼らは、最初から国際祝福をより多く認めるべきでした。文師の妻は、彼女の子供たちが国際祝福を受けるのを嫌がりました。これは神様の摂理にとって重大は間違いでした。しかし今では、もう遅すぎます。
神様の摂理は進まなければなりません。私たちは真のペンテコステを起こさなければなりません。私は2000年前ペンテコステを起こしました。今、文鮮明師が霊界で私と共に働きながら、最終的なペンテコステをもたらそうとしています。
私たちは個人的なペンテコステが必要です。なぜなら、私たちは神様との関係が切れてしまっているからです。
1960年に真の父母の位置が確立した時、韓鶴子という女性は聖霊への導水路のようなものでした。その時から、彼女の祈祷はとても重要でした。しかし、韓国人の指導者たちのような「隠れた王国」の人達と同様に、彼女は聖霊を自分だけのものにしてしまいました。これは彼女の個人的な失敗だけではなくて、韓国の文化に根差した失敗と言うことができます。
全ての人に聖霊が必要です。なぜ文師(訳注:イエス様はお父様のことを文師、お母様のことを韓鶴子さんと呼んでいますが、これから文師、韓鶴子さんのことを「お父様、お母様」と訳します)はお母様に聖霊を世界にもっと拡大するようにさせなかったのでしょうか。お父様はそうしたのですが、彼女には彼女の責任分担がありました。大きな問題は、彼女が聖書に全く関心がなかったことです。もしあなたが聖霊が何かを知らなかったら、どうしてそれを働かせることができるでしょうか。2000年代になってから、統一教会のメンバーは聖霊の働きに飢えるようになりました。清平摂理でさえも、それを助けることはできませんでした。むしろそれは聖霊がより働きにくい方向へ向かわせました。
どうしてこのように聖霊の働きが鈍くなってしまったのでしょうか。聖霊キリスト教会に継続的に働いているのに、統一教会は砂漠のように霊的に乾いた状態になってしまいました。それはなぜでしょうか。
それは、お母様の心の中にある恨みと頑なな思いに関係があります。お母様はお父様を独裁者として憎み始めました。私たちはそれを霊界から見ていてわかりました。しかし、そのことを直接知っているのは、お父様ご自身です。
2008年4月18日に、お父様は摂理的にお母様の使命をヨナ様に相続させる儀式を行いました。しかしながら、お父様とお母様が共に地上におられ、世界の人々の前に真の父母の位置に立っていたので、地上のヨナ様が真の母の責任を完全に相続するのは、お父様が聖和された後になりました。
お父様の聖和式の後、お母様はお父様の相続者である亨進様と、真のお母様の使命と責任を相続したヨナ様を追い出しました。お母様は、真の父母様の相続者としての、亨進様とヨナに様がその責任を果たすことを認めませんでした。
これは、天宙的レベルでの壊滅的な犯罪でした。
今、私たちは審判の時を迎えています。この天宙的裏切りによって、多くの痛みと苦しみがもたらせられるでしょう。水と食料を備蓄することをお勧めします。これは冗談ではありません。この裏切りの結果として、不安定な時がもたらせられます。(年末ブログ主もこの夢を見ました。私が知っている狭い範囲でも同じころ同じ夢を数名見ています。)
このことが、再臨主であるお父様の教えている個人的なペンテコステとどう関係があるのでしょうか。
もし聖霊があなたと共にいれば、あなたは全ての事において生き残ることができます。
親愛なる兄弟姉妹の皆さま、どうかこのメッセージに注意を払ってください。私は皆さんに、お父様の次のみ言を読むことをお勧めします。それは、「地上生活と霊界 上」のなかの「肉身をもって体恤可能な霊界」という部分です。この部分は短いですが、とても重要なところです。これについてよく考え、よく祈ってください。
兄弟姉妹の皆さま、私は大工でありメシアであるナザレのイエスです。私は十字架にかけられました。歴史的な記録によれば、私の体は誰も発見することができませんでした。私は復活して、弟子たちの前に現れ、家の壁を通り抜けたりしました。私はその時ペンテコステを起こしました。
今は新しいペンテコステを起こす時です
最後にこの言葉を皆様に送ります。
神様は霊です。

アーメンそしてアジュ

 

これ以下がイエス様と名乗る霊が需要だと推薦している文章です。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

地上生活と霊界 上 P188~


第三章 霊 界

第一節 肉身をもって体恤可能な霊界

一 霊界と時

 今我々が、どの段階まで来たかというと、霊界と肉界を世界的舞台でつなげ得る段階に来たのです。
 霊界と肉界が世界的に一つになり得る場は、静かな場ではなく、世界が揺れ動く場、天地が揺れ動く場です。世の中はできないようにし、天はしようとし、二つが粘り強く戦いをして、天が勝つことによってできるのです。それがいつかというと、ワシントン大会の時なのです。
 1976年を起点に、サタン世界が神様に対して讒訴できなくなったのです。サタンは直接神様を讒訴できないのです。霊界に行った先祖たちを讒訴することはあっても、神様を讒訴することはできません。
 そして、霊界のすべての霊人たちを動員して、地上にいるサタン勢力を追い出すのです。それで今まで、サタンがやった以上の善なることをできる基盤が形成されるのです。
 「統一教会を信じろ」と教えてくれるのです。エス様が現れて、孔子が現れて、釈迦牟尼が現れて、マホメットが現れて、自分の先祖が現れて、統一教会を信じなければ全部霊的に制裁をし、霊的に罰を与えながら追い込むのです
 霊界が今まで分かれていたのを全部収拾して、今日世界が分かれたのを全部心情的に結んでいくのです。超民族的基準を中心として、ここに世界的代表を集めて、心情的に一つになるこのような運動をするために、霊界も一つになって接触するようになれば、ここから光を発して世界的な運動が大々的に繰り広げられます。
 今までは、西洋の霊界と東洋の霊界は互いに異なっていました。それを、どのようにして一つに結ぶことができたのでしょうか。一つの愛で結ぶことができました。神様の愛を中心として、東洋、西洋の人々を統一教会合同結婚式を通じて、民族として結んできました。それで、個人的基準、家庭的基準、氏族的基準、民族的基準、国家的基準、世界的基準をみな築いておきました。天国、霊界は、永遠に我々にかかっているのです。

(91-162)


二 これからの時代

 最近、統一教会に新しく入ってきた食口たちを見ると、霊的に先生と出会い、教えを受けて来た人たちが多いのです。そのような人たちは遠くない将来に、一国の王になることもでき、一国の大統領になることもできるのです。いつ、どのようになるか分からないのです。全世界的にそのような人たちがたくさんいるのです。
 これから、アメリカのような国には、一人で歩きながらぶつぶつ話す人が絶えず増えることでしょう。
 これから全霊界が、地球上に襲撃して入ってくるでしょう。そのようになれば、これを誰が総指揮しますか。これは先生の責任です。

(67-77)

 皆さんはこれからいい加減にしては、先生の前に絶対に現れることができないない時が来ます。その時になって、先生が霊界の門をすっかり開くでしょう。門の前に来ていて、そのような者が現れれば「こいつ、何しに来た」と言いながら、門前から追い出してしまうのです。これからは専門的な面を中心として、世界を収拾する時に入るでしょう。
 今世界には、どんな人たちがいるのでしょうか。イエス様の時と同様の人たちが、世界にいるのです。復帰時代であるからには、そうなのです。先生がまだ、そのようなことを言ってはいけないために、言わないのです。
 神様はさせませんが、先生の代わりに、ありとあらゆることをする人たちが世界にはいます。空中を飛ぶ人もいるし、水の上を歩き回る人たちもいるし、千里、万里を瞬く間に行く人が、今いくらでもいるのです。間もなく先生がそのような人たちを、あのヒマラヤ山脈から、修行の世界から呼んでくる時が来るでしょう。
 そのようになるのに、世界が統一されますか、されませんか。神様の全権が平面化して、再創造歴史に、理想的な愛にこたえられない一切の与件は全部破綻して、新しい世界に入るでしょう。
 これが先生の見る、今後における超感覚時代の世界観です。愛だけが超感覚時代の世界観をなすことができるのです。超感覚時代で愛するようになれば、ただしがみついて離すまいとします。神経線を越えようと、それゆえ、神様の愛だけが、それを平面的に歓迎し得る世界時代に入るのです。
 先生は祈る中で、そのようなことを知っています。皆さんの知らない、そのような何かがあるのです。皆さんに話をしないから、先生は何も知らない人のようですが、みな知っているのです。今がどんな時かというと、実体の体で霊界を完全に支配する時です。
 先生が霊界の内容をもって、真理と体をもったために、サタンも屈服しなければならず、天使世界も完全に屈服しなければなりません。それゆえ、仏教に精通した人とか、キリスト教に精通した人たちは、全部先生の前に屈服しなければなりません。
 霊通する人たちが、先生が「死ね」と言えば死ぬことができてこそ、実体完成圏をなして、地上天国を開門するのです。
 「そのような世界になった」と思ったとき、仕事をする時がありますか。その時、先生の考えを知ったなら、皆さんはあきれかえるでしょう。「どうして、あのようになったか。どうして私があのようにしたか」と、そういう時が来るのです。冗談ではありません。恐喝、脅迫ではないのです。そうか、そうでないか見ていなさい。どうして自分がこんなにまぬけでおろかだったのかと。「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう(マタイ24・40)と言ったでしょう。そのような時が来るのです。統一教会の信徒の中で、そのようなことが起こるでしょう。

(60-194)


三 霊的体験も必要

 皆さんは涙を流しながら、「私はこの顔では、そのまま帰れません。死ぬことがあっても、帰れません。死ぬよりもっと悲惨です」と、そのような祈祷をして回らなければなりません。皆さんが祈祷しながら霊的体験をたくさんすれば、復活するのです。
 そう思いながら、「ああ! 自分はアメリカ人として生まれなくて、本当に幸いだ」と思うのです。今、アメリカに来て仕事をしながら感謝するのです。人間の習慣は実に恐ろしいのです。ですから、皆さんもその場に行くには、苦労をしなければならないのです。苦労を通じなければ、行くべき道がないという結論を下すことができるのです。
 皆さんが考えに先立って、いつもそのような心情で立ち上がるようになれば、神様が役事するのです。皆さんが言葉を話して教えるすべての言葉の前に、神様の心情を感じるべきです。言葉のあとに立つのではなく、言葉の前に神様の心情が先立たなければなりません。それゆえ、いつも謙遜でなければならないのです。
 ですから、自分は言うことができずに、後ろに行かなければなりません。しかし、見れば神様の心情が前にあるのを感じるのです。それは何ですか。自分を絶えず引いていくのです。そのような場に行けば、多くの群衆が集まっても、みな教育することができるのです。
 そこでは何だか分からずに、全部教えてくれます。それでも自分が言う声だから、自分の耳にも聞こえます。自分が話す声を聞けば、不思議なのです。その境地に至れば、言いながらジェスチャーをしても実に自然なのです。どんな表情をしても、それがみな自然なのです。ぎこちなくないのです。そのようなことを感じながら働いてこそ、生命の運動が繰り広げられるのです。

(96-168)

 霊的世界を体験するということは、四次元の世界に通じるということです。また、そうするときに、何千年前に生きて死んだ先知先烈たちも、今日の自分と因縁を結んで対話することもでき、相談もするというのです。すなわち、今日、実際生活的な時間圏内で、自分が経験することができ、また肌で感じることができるのです。

(4-225)


四 霊的体恤の過程

 我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。
 主体は確定していますが、自分は感じることができないのです。我々が五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければなりません。
 自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。
 今日、堕落した我々人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。
 全部が同じではないのです。それは、なぜそうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平行線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないというのです。
 そうするには、どのようにすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に自分が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。必ずあるということです。
 我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。
 では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」とかという言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる自分にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。
 それゆえ、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。
 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前一時に祈祷するのと、三時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。
 そのように、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間にうまくいくかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。うまくいくというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。
 皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきでしょうか。心を磨かなければなりません。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意を中心として広がった宗教もあります。これらが全部混ざっているために、それをより分けて行くということは、限りなく難しいのです。
 このような結果と同様に、我々の心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ7 私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。
 それゆえ、信仰生活で一番重要なこととは何でしょうか。心の門をどのように合わせるかということが、最も重要な問題です。それゆえ、皆さんが信仰生活でいつも注意すべきことは、心の門が開く時を知って、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければならなりません。随時、探して合わせる生活態度が必要です。
 それゆえ、いつも深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
 だんだん、この相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。
 昔には、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。それゆえ、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、我々の心の世界も、回りながらそのように変化する感じを感じるようになっています。
 それが一年について見れば、春夏秋冬があり、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。
 このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じることができます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。
 我々の心もそれと同様です。それゆえ、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「ああ! 今、時がこのような時にさしかかっているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。
 そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるのでしょうか。我々の言葉に暗示という言葉あります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀にとどまっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれることが繰り広げられるようになるのです。
 実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのですある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるようになります。このような事実が、だんだん多くなるのです。
 この段階を過ぎるようになれば、どんな形態が起こるでしょうか。夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も深い眠りの中での夢ではありません。パウロも、夢うつつの間に第三の天を体験しました。
 そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出せというのです。必ずその結果が現れます。それゆえ、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、100パーセント的中するようになります。そんな体験があるでしょう。
 夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。これはどういうことを言うのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることを言います。音叉というものがあります。共鳴することができる圏内に入ることを言います。このようなことを、限りなく貴く思わなければなりません。
 そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。皆さんが、そんなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できなかっためであり、体に引きずり回される人になったからです。その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。
 祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞くのです。そのような境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。
 それゆえ、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように探す心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。
 それゆえ、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。そんなことがあるのではないですか。皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そんな形態が繰り広げられるのです。
 我々の体には、触覚のようなものがあって、全部接触します。それで、見えない電波のようなものを発射して、対象を探しています。
 それゆえ、信仰する人の態度は、全部自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、全部切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、我々が再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。
 皆さん全部が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」というのが分からなければなりません。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それゆえ、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。
 その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、我々は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。それゆえ、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな幻想が繰り広げられるのです。
 そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。我々の心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。でこぼこしているのです。形は水平のような面をもちましたが、それ自体はでこぼこなのです。でこぼこしたここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。それで、全部が違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。
 啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達することができます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、我々の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。それゆえ、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤的な信仰が高貴なために、啓発していかなければなりません。
 我々食口たちは、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、我々の意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪ねて入るようになれば、我々の体が、堕落性をもっているために、必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになります。
 それゆえ、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。
 このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に100パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けながら、寸分も違わないのです。このような現象の過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。
 皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければなりません。
 このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことをもって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは我々の信仰生活に最も必要なことです。
 そのような境地に入るには、どのようにすべきでしょうか。大概、我々人間は二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは、思いで把握する人です。それを我々統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。
 そのような立場にあるために、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様!」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。
 大抵霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。
 世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に伯仲する、そのようなことが起こるのです。これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのですパウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、全部否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。
 それゆえ、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界では指導者になれません。
 我々人間には、二種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では大きくありません。初めは太いのですが、細くとがれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ我々は、これを調整する生活をしなければなりません。
 祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入れというのです。我々人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立つことはできないのです

(76-125)


五 霊的感覚の発展方法

 ある人を恋しがる心情をもっていれば、その人に接することができないように塀で妨げておいても、その塀を乗り越えるということが起こります。
 先生が口をつぐんでいても、そのようなことが起こります。霊界からその間隔を埋めてくれます。私が興南の監獄にいる時も、言葉では伝道しませんでした。無言で伝道したのです。霊界が動員されて、協助してくれました。してくれなければ大変なことになるためです。
 同様です。それゆえ、皆さんが地方に出ていっても、このようにしなければなりません。先生は1960年代に、名が知られた所へはみな行ってみました。
 きょう、道を歩いていて、「どんな人に会うだろうか」と考えなければなりません。最初に会う人はどんな人か、二番目に会う人はどんな人か、三番目に会う人はどんな人かを考えて、「お父様、どんな人ですか、私はこのような人に会うのを願いますが、どんな人ですか」と祈らなければなりません。自分が考えて、祈ったその基準とぴったりと合うなら気分がいいのです。このような体験をすることによって、皆さんの霊的触覚が発達するのです
 そのようになれば、道に出ると「きょうはある人に会うだろう」という感じがするのです。人の霊は、無限的に通じるのです。「きょうはある人に会うだろう」と思うのに、実際そのような人に対するようになれば「ああっ!」と言ってびっくりするようになります。このように、自分の思いと霊界から教えてくれた霊感が、実際の事実と一致するときが多いのです。このような体験を積んで、上がらなければなりません。(30-150)



六 君臨(実体役事)

 霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようになっていません。それゆえ、真の愛の起源を探さずには、これが一つにならないのです。その立場を皆さんが越え、天の祝福を願って行かなければなりません。
 寂しい立場に行くほど、なぜ天が近くにいらっしゃるのでしょうか。世の中の愛を忘れ、天の愛の圏内に入るから、天が近くに来るのです。
 天が直接的に現れて、関係するのです。神様の直接主管圏内ということです。神様が現れても、皆さんは分からないために、先生が現れて代身になるのです。そのように直接主管を受ける圏内で生きなければなりません。

(91-184)

 皆さんは、先生とどんな因縁がありますか。祈祷の中で、あるいは夢の中で、先生を毎日見なければなりません。
 世界の統一教会の信者は、そのような体験をみなしなければなりません。霊界に対して知らなければならないのです。また、目を開けても、先生をみな見なければなりません。そのような人もいるでしょう。それで、これは歴史始まって以来、世界に初めて起こることです。それは、前にもなく、あとにもないことだというのです。
 そのことがだんだん強くならなければなりません。アダム・エバが堕落する以前に、神様に干渉を受けたのと同様に、皆さんの生活圏を先生が干渉しながら、全部指導してあげるのです。
 先生が「せよ」と言うことを、うれしい心で、浮かれて動けば、その世界に入るのです。先生は、一番難しいこと、できないようなことをさせましたが、「先生よりもっと楽しんでしよう」と言えば、その世界に一遍に入るのです。自分の生命を捧げてその場に立ち上がれば、一遍に先生が指導してあげるのです

(91-174)

 我々統一教会の信者たちは、祈祷や夢のお告げの中で先生から指導を直接受けなければなりません。我々食口たちの中には、どこへ行っても、その立場で先生の指示を直接受ける人たちがたくさんいます
 イエス様の時以上に実感のわくことがたくさん起こります。我々統一教会の信者たちは、先生に直接侍って暮らすのです。それで統一教会では、イエス様の時にあったこと以上のことが時々あるというのです。そのようなことがあるために、世界が統一教会と一つになることができるのです。
 今日、この死亡圏を通り過ぎようとすれば、決死的な祈祷をしなければなりません。祈祷は、一瞬だけするのではなく、二十四時間しなければなりません。このような自由な時代に、そのような体験をできずに直接侍りながら暮らせない人は、かわいそうな人です。
 祝福を受けた人は、本来そのような基準と経験があって、そのような内容に全部結びつかなければなりません。本来は、先生と霊的に接ぎ木して、一つになってこそ祝福対象者として祝福を受けることができるのです

(31-331)

 我々は、「神様の心情」を言います。神様の心情は、どこにあるのでしょうか。祈祷の中で声を聞いてみれば、「先生の言葉をよく聞け。先生を悲しくしてはいけない。先生を喜ばせてさしあげなさい」と言うのです。それしかありません。そのように教えてくれるのです。そして、先生に会いたくて眠らずにいると、霊界が開いたというのです。それゆえ、体恤がなくてはいけないのです。

(76-152)

 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

以前に当ブログでも、上記の御言葉の重要性を指摘してきました。

これほど核心的な内容に迫る御言葉であるのも関わらず、あまりにも注目されてこなかった御言葉です。

要所要所、解説することを試みても良いでしょうが、明解であり、また、イエス様と名乗る自動書記の文章もあり長文になるので避けることにしました。

 

補助的に役に立つかもしれない記事があります。

直接的啓示と間接的啓示 - 原理講論を読む

 

また、「善徳女王」についえ書いた所も参考になれば幸いです。

善徳女王 継続的意識 と 直感的解釈 見えないものから見えるものへ と 見えるものから見えないものへ - 原理講論を読む

 

 

 
魔法をかけれれた栄光のお母様を救う為の教科書 ⅠーⅤ、及び総合版
三部構成
 
一部 
Ⅰ は概要
ⅡはⅠの概要+主体対象の正統な理解について
ⅢはⅠ+Ⅱ+主体対象の一体化の摂理的意義について
 
二部 Ⅳ
三代王権について
1、亨進様の正統性
2,ヨナ様の正統性
3 ,信俊様の正統性
4,江利川会長の正統性
 
三部 Ⅴ
6マリアの理解の基礎
 

 


にほんブログ村

 応援して下さる方は上のロゴをクリックして下さい。