宋総会長は家庭連合の名称変更の好機に乗って 信徒自身による家庭教会中心に大きく舵取りか?
秀のブログではジム・ステファンの退会に関する証がアップされた。
今回は絶対「性」の観点から書かれている部分である。
秀のブログ 何故、サンクチュアリ教会を選ぶのか。3 ジム・ステファン氏はいかに決断したのか
3.絶対性
私の妻と私は、5年間一緒に、祝福家庭部の共同ディレクター(部長)を務めました。私達は、原理に沿った理想家庭を築くことにつとめ、そしてアメリカの結婚教育の分野における専門家からすべてを学ぶことに完全投入しました。人間関係を築くための研究と体系的な知識は、今や広範囲におよびます。
しかしながら、堕落の本質が性的関係であったので、復帰の本質もそこから見つかります。
真のお父様は、性的関係を「天宙の中心(核)」、「天の王国の基盤」、「神の愛が完成する場所」そして平等で深い関係であると言われました。
お父様の天聖経P1287~P1288参照
最近、私は、絶対性について私自身の見解のいくつかを発表しました。
絶対性のメッセージは、世界の救済、そして、地上天国、理想家庭、及び神と人類の究極的幸福の創造にとって重要です。私はそれを確信しています。
絶対性のメッセージを得た亨進様は、それを真のお父様から受け継ぎ、各世代に受け継がれるべき第一原理とされました。
真のお母様と統一教会は、絶対性のメッセージについて語らないように亨進様にはっきりと言いました。
実際、原理本体論の中心的思想と思われる絶対「性」の話しが教会では聞かれなくなっているように思います。
私はこの方の証を見て、やはり宋総会長はこの方のように絶対「性」が見えていないのではとさらに思うようになりました。
我々には詳細な内容を知ることも、知る必要さえなかったのかも知れませんが、6マリアと呼ばれているものが指し示す事を「恥ずかしい」と思って後ろ向きに近寄って、毛布をお父様の絶対「性」にかけて、隠してしまう行為をしているに等しいと言うことのようです。
仏教徒は悟りを開いた者には、別の人が悟っているのかそうでないかがはっきり判るそうです。
禅のことですが・・・。
盤珪禅師なんかは高名な黄檗が上陸する姿を遥かに見ただけで、あれはだめだとばかりに見抜いたとさえ伝えられています。
我々一般の食口は、亨進様を信頼して、亨進様がおっしゃられ確信されているのならそうなのだろう、私も信じると言うことでも良いのでしょう。
また、悲しいことにそれさえもできず、教会に異端視されているがゆえに、聞かなかったことにしよう、あれはとんでもない間違いだと思う人も出るかも知れません。
だが、ノアの家庭の失敗を主と共に蕩減復帰された方には、残念ながら言い逃れる道がありません。
いやそんなことがないと言ってはみても、その行動が父に繋がり永遠の命を得るべき信徒の道を塞いでしまっているからです。
まことに、まことに残念なことです。
:38)一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
:39)この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
:40)ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
:41)主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
:42)しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
ルカによる福音書10章
日本統一教会には歴代の責任者たちが残した残骸があり、この残骸の整理を、縦からなるなんとかを横的に一代を以て精算しているのが宋総会長でしょう。
1/10で何とかやっていけないか?
家庭教会に名称変更を好機と捉えて、お父様のホームチャーチ・家庭教会理想をもって、中央集権体制から自発的な信仰を信徒が持てるようにしよう。
そうすれば組織をスリム化できるはずだというわけでしょうか?
ですが、それが本質的な問題であり解決に至る道なのでしょうか?
マリアという女性は「中心が何か」を知っていました。
兄弟のラザロが死んだ時もそうでした。ラザロの復活。
:21)マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。
:22)しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。
その前に
:3)姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。
:4)イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。
それでもなおそう言われたのです。
イエス様が十字架に行かれる前に香油を御足に注がれ、髪で拭かれました。
頭に注ぐ価値なき者ゆえ、僕のように御足に注いだのでしょう。
:7)イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
さらに決定的なのが、復活の主に初めに会ったのは、ペテロではなく、マリアであったことです。
聖和されたお父様にお会いできる人もかくの如しで
やれ大陸会長だ、36双だなんだといったって
そうなるとは限らないから注意せよと聖書は言っています。
:1)さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
:2)そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
:3)そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
:4)ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
:5)そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
:6)シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
:7)イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
:8)すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
:9)しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
:10)それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
:11)しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
:12)白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
:13)すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
:14)そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
:15)イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
:16)イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
:17)イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
:18)マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
グレゴリウス一世は香油のベタニアのマリアとマグダラのマリアが同一人物としたが、
受け継がれることはなかったという。
中心は何か?中心人物は何か?
これを常にアンテナを高くしてキャッチしていないといけないことを
マリアは私たちに教えている。
宋総会長は歴代の中で最も忙しい立場におられるだろう。
あれもこれもしなければならない。
骨折した人の手でさえお借りしたいくらいでしょう。
だが イエス様はそうではないと言われるのです。
大切なことはひとつだと。
では、現在の摂理で、「無くてはならないもの」とは?
それが、絶対「性」の理解なのです。
ところが、ずっとこれを完全に理解する、
絶対「性」の信仰で、聖化された信徒の群が
真の御家庭を雲のように取り囲んで、
護ることができませんでした。
再臨主が雲に乗ってやって来るとはその事でした。
お父様は雲を失って、地上に真っ逆さまに突き落とされてしまいました。
その結果、サタンの試練は子女様に
さらにはお母様に降り注ぐようになってしまったのです。
そこから、お母様は離れだして行かれます。
ですから、遅まきではありますが、我々信徒がお父様の絶対「性」に対する
信仰告白をして、雲のように群を無し、お父様の権能の下で指揮される亨進様を護らなければならないのです。
777クラスの方々は、真の御父母様と時を過ごされ愛されたがゆえに、かえって
子女様には、なおいっそう関心を持つことができにくいようです。
立派な人々が立ち上がれないのは不思議ではないですか?
:16)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
:17)神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
:18)彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
:19)そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
:20)悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
:21)しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
聖和された父が愛するのは、その心情を知るひとり子たる亨進様です。
父の心は常に子と共にあります。
では 亨進様は何故宋総会長と徳野会長を解任されたのでしょう。
その心をヨハネによる黙示録は次のように語っているのです。
「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」
パウロの如き見事な成約の回心よ起きよ!
:19)すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
:20)見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
:21)勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
:22)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。
ヨハネによる黙示録3章