原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

原因と思ったものが実はその先の原因の現象   その繰り返しの果てに本当の原因がある

ここ数日書きたかったことは、創造本性や神性と呼ばれるものについてであり、私が注目している「連体」とそのような状態になっている際の人間の心情を仮に「連体心」と呼んでいくらか話そうと思っていた。

もう少しわかりやすくするために、かって日本の教会を亨進様が巡回されて、我が教会に来た際に差し上げたいと思った本の作者の著書の記述を道案内に、一体どのような心の状態になっていくのか、あるいはなるべきか。あるイメージが思い描けるのではないかと言うことだ。

本当はそちらの方に没頭したいのだが神様がなかなか許してくれない。

ということは二心である。

ここ数日もあっという間に神の手でねじ伏せられて、別のことを書いている。

書いてみて判るのは、「宋総会長について、おまえが書ける範囲でいいから書け!」

ということだ。

神様がおっしゃられるには、

「宋総会長の改革は根っ子ではない。」と語られる。

お父様はメシアとして降臨された。

それは我々信徒が誰でも知っているように、「罪の根」の問題を解決するためである。

つまり、枝葉の問題をいくら解決しても、その幹の問題を御座成りにすれば、やがて元の木阿弥である。

百歩譲っても幹でしかないと言われる。

その先には根っ子がある。

日本統一協会あるいは日本の世界平和家庭連合という幹をどう繕ったところで、

場当たり的な当面対処の処置に過ぎないとお考えなのである。

家庭教会中心で行こうが

1/10で行こうが

身の丈にあった持続可能な教会にしようが

聖職者を減らそうが

適任でないものを替えようが

根っ子を見なければ何らの解決もないとおっしゃられるのである。

 

神の評価は本質的根本解決に対する評価

人間の評価は現象的中途解決に対する評価

 

 問題解決のアプローチが違う。

神は根本問題に関心を持たれる

 

ミリンゴ大司教は根本問題をバチカンと戦ったので

メシアに出会うことになった。

 

我々も根本問題を見なければならない。

統一原理はそう教えてきたのだから。

 

特に宗教の問題は相対的解決ではなく

絶対的解決を求めるものである。

 

歴代の総会長と比べたら今の宋総会長は雲泥の差だと相対評価したところで

問題の根本解決にはならないのである。

だから人間的に惑わされてはならないと神は言われる。

人間的にいい人いい行為と神の御心は根本においては違ってくる。

だから我々は先輩から「本心基準」が重要だと教えられてきた。

根本を解決しなければ、結局のところ

「白く塗りたる墓」でしかないのである

 

:27)偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。   

マタイによる福音書23章27節

 

根本とは清平である。

お母様を取り巻く堕落天使長である。

 

:37)ああ、エルサレムエルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。    

:38)見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。

:39)わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。

マタイによる福音書23章37~39節

 

神は思考停止空間に閉じこめられた前線の信徒を救いたいと言われる。

神と御旨の為に自ら献身的な僕となった者たちを。

 

だが 指導者が離さず、誤った道に、神ではない神に姦淫をさせようとしている

 

世界平和家庭連合とサンクチュアリ教会の戦いは

教義的には絶対「性」に関わる戦いであり

心情的にはお父様とお母様を

世界平和家庭連合とサンクチュアリ教会の

どちらが真に愛しているかという信仰の戦いである。