原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

恨みと葛藤からは天運を相続できない!

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日本で、韓国で、聖殿の責任者を決めました。江利川会長も今回家庭連合を止めましたが、日本には他のグループもあります。そのグループが江利川会長と一緒に活動しないといい、別に活動しています。ですが、その2グループは同じ目的を持っています。なので、私はそれを許可しました。


 これは、天地の差です。今の堕落した教会とは。堕落した教会は全てを中央に集め、共産主義のように運営しています。ですが、神様の摂理は真逆に進むのです。より多くの自由と責任を与えるのです


 違うグループがあっても、互いに敵ではないと、なぜなら、一つの目的のために。私たちは万王の王を高めるのです。神様の権限。これら全てのグループがお父様の権限と代身者相続者の権限の下に来ますが、それは神学的な問題です。


 私がそれらグループの組織をコントロールせず、したくありません!正反対です。責任と自由。全ての責任者たちは、自分たちのグループを自分たちが運営するように、責任を与えるのです。なので、何か問題が起きても、中央のせいにはできません。自由と責任です

 

2015年8月18日韓国語礼拝 及び説教 “恐れを廃される主”  より

 

正確な言葉は忘れましたが、亨進様は「私は罪人です。」という悔い改めによって出発されたと記憶しております。

私は亨進様が罪人であるとは思いませんので、びっくりしました。

この沈黙の2年間は、本当に悔しい日々をおくられたことでしょう。

亨進様のように、口先だけではなく、自分こそ罪人だ、罪人の頭だと懺悔する者を、普通の人は打ってやろうとは思いません。

亨進様は見事なスタートを切りました。

 

遅まきに思うことは、江利川姉もこれにもっと倣って出発されればよかったなあと思います。

 

ある信徒は言います。

江利川さんには行動力がある

行動力、突破力がこの方の持ち味であり、神様が用いる一つの理由ではないでしょうか。日本人信徒にはこれがありません。

亨進様は上記の説教でこんな箇所があります。

 

『神様が私たちに下さったのは、臆する霊ではなく、』 神様はわたしたちに恐れる心を贈り物としてくださる方ではありません。神様は私たちにどんな贈り物を下さいますか?恩恵、恩赦、恩寵、真の愛、善悪を分離することのできる知恵、それから、信じる心が信仰という贈り物を受けることによって、信仰へと発展していくこと。そうでしょう?

 そのような贈り物を下さいます。もし、私たちに恐れる心、緊張する心、行ったり来たり、「亨進様のみ言葉もあっている気がするし、家庭連合の言葉もあっている気がするし」と、恐れ、緊張、そこにとどまっているようならば、皆さんは神様の贈り物を受ける者ではありません。

 

まさに日本人信徒そのものです。

公職に就いていながら、牧会者が不正をしているのを見たら、何故改革しようと思わなかったのでしょう。永きに渡ってです。

それが多くの善良な信徒に不信を植え付けてしまいました。

大変残念なことです。

 

さて、日本のグループが2つになったようです

日本サンクチュアリの晴れの門出の日は分裂してスタートしました。

どんなに正当な理由があっても、これが事実です。

サタンは賢いですよ。

顕進様を尊敬する方の中にも、恨みがあると思われる方たちがいます。

「恨み」、別の言葉で言うと「葛藤」ですが、

これがあるとうまくいきません。

神がすっかり祝福して導くことができません。

神が祝福し、天が導く道は簡単です。

「神様これだけは受け取ることができません。譲れません。」

というものや道を、

機転を利かせて膝をぽんと叩いて、最も望むこと以上に感謝して行く道です

サタンはそういう者には手も足も出ません。

サタンが最も嫌うタイプの信徒がそういう人です。

神にとっては、門出の日の最高の捧げ物です。

 

西郷は信仰を知らなかったが、「天を相手にする」と言いました。

我々も人を相手にするのではなく、「神を相手にする」

お父様がおっしゃられた言葉、

「神様を感動で胸締め付けるようにしなさい。」

これを胸にお父様の御後を付き従っていく。

 

「嫌いであればあるほどチャンス

この憎き江利川を裁くのでも

首を取るのではなく

かえって祝福する!」

 

その心を神が知らないと思うだろうか?

けっしてそのようなことはない。

神のために霊も肉もずたずたに引き裂かれても

誰が私と神を引き裂くことができよう。

「汝 何処なりや」と求めた子女に出会えたら

天の宝座から神は降りてこられ

その者の前で跪くことだろう。

実に、お父様の道は常にそうであった。

我らは常にはさはあらねど

ここ一番の肝腎なときには超えていかなければならない。

 

江利川姉も兄弟の心を受けとめて

神の前に何を捧げるときであるか、

奪われてはならない。

 

私がお父様から学んだことの中に

「どうすればサタンをがっかりさせることができるか。どのように捉え、どのように行動すればサタンは挫折するのか?」

というものがあります。

 

原研から献身した際に、教会に所属となりましたが、そこでは原研の評判は最低でした。原研出身者の責任者までぼろくそに言います。生きた心地のしない日々が続きました。みんな良い兄弟です。しかし、原研に誇りをもっていた私は大変傷つきました。

また主管の仕方も違います。

当時の教会では本当にお父様の情報が少なかったです。

原研の時の太田洪量会長は「お父様の御言葉を途中で止めるな」と指示していました。

お陰で、お父様が今何をお考えで何をしておられるのかはっきりわかり、それゆえ自分たちがどう取り組まなければならないかがよく分かりました

大変感謝しております。

当時の教会は違いました。

「中心のため」「中心のため」と

私にとっては偶像崇拝のようにさえ感じられました。

 

そのようなときに、「僕の僕」とはどのようなことだろうかという課題に取り組んでおりました。

そこで、30日間、身の毛もよだつほど汚い、お釣りの来るあの便所の便器を、素手で掃除しました。便器には兄弟の腹の具合が悪いのか、来る日も来る日も飛び散ったものが一杯、どの便器にもこびりついています。便器はぶつぶつの砂みたいな便が付着していて、なかなかとれません。爪で落とせば爪の中に入ってきてしまいます。

作業より兄弟に知られずにするのが大変でした。

お父様は血と汗と涙の道。

私は兄弟の糞尿にまみれ復活の道。

とにかく落ちようが落ちまいが、一人一人の兄弟が目標を勝利できるように、祝福しながら磨き続けました。

30日が終わったとき、心の中をチェックしました。

私の中に恩讐感情がちょっとでも見当たらないか?

見当たりませんでした。

しかし、ほっとする気持ちをもたないため、

永遠と続くとしても感謝であるか

そういう基準を求めて10日延長しました。

 

勿論その後大変な恵を天より頂きました。

別に恵があろうがなかろうがどうでも良いことですが。

 

では、私の人格は変わったのでしょうか?

一向に変わりがありません。

堕落性丸出しの堕落人間です。

では何の意味もないことでしょうか?

けっしてそんなことはございません。

ですから、心配することはありません。

 

これは重要なことですから

仏教学者で熱心な仏教徒の玉城康四郎先生の証を用いて

いつかお話ししたいと思います。

 

現在も私は課題が山積した状態です。

お父様がダンバリーで

囚人たちのために

ナイフやフォークを整然と並べておられたことを日々胸に

半年になるでしょうか、生活と職場で試行錯誤の日々を重ねております。

罪人に僕の僕として、奴隷としてお父様は侍り仕えられました。

罪人の奴隷であることを堂々と自ら引き受けて行かれました

一瞬の迷いもなく、不徹底なことは微塵もありません

本当に本当に有り難い見本です。

私にはこの覚悟がまだございません。

この世では

「仕事のできる人」と

「都合のいい人」に仕事が集中して増えていきます。

 

誰から言われるでもなく、自分を自ら都合のいい奴隷に身を置くことを

お父様は我々に示してくださいました。

再臨主としてこられたお方にどうしてそのようなことが必要でしょうか?

 

私にとって譲れないものが親であろうとも

私にとって譲れないものが兄弟であろうとも

私にとって譲れないものが親友であろうとも

私にとって譲れないものが相対者であるも、子女であるも、孫であるも、

財産・地位・名誉・権力・命・・・

神よ、全てあなたにお捧げいたします。

だが、真の家庭、真の御家庭だけは、お守りください!

アージュ