特別巡回師は何故男性でなければならなかったか
連体とアベル・カインについて書き始めていたのだが、我が教会のことが頭に浮かんできた。
私の教会は小さな教会である。
前任者の時は例外的に教育部長がいて、教会の負担が大きくて大変だった。
通常、このような状況を把握した教会長は教育部長の仕事も兼務して歩むことが多い。就任後原理講義を続けられる方があったりする。
人事があって教育部長は教会長として栄転となった。
これで負担が軽くなる。大変良いことだとほっとしていたら、どうやら教育部長を別途用意するらしい。
私自身は教会の事情に疎い方だが、ざっと見てこれだけ疲弊している情況からすれば、あらゆる経費削減を考えなければならないだろう。
このサイトを訪れている祝福二世の方に知って頂きたいのは、
今後「経費」という言葉を使わないようにすると言うことである。
「経費」という言葉を安易に使う人の中には丼勘定の方が多いものである。
経費は固定費と変動費に分けて考える習慣を築くべきである。
西順一郎という方が戦略会計というものを発案されて久しい。
詳しくはそれによって頂きたいが、難しいことは抜きに平たくいうと、
固定費というのは売り上げの変化に関係なく生じてくる経費のことである。
教会の建物を借りているならば、賃貸料であり、スタッフの人件費であり、水道光熱費などである。商いを維持させて行くための経費のことである。
一方売り上げの変動に連動して変わっていく経費がある。仕入れ価格や材料費のことである。
これを変動費という。
採算を考える時に経費から変動費を除いた固定費を利益で回収していくという感覚が大切である。
すると力のない教会においては固定費を下げる努力が必要であり、主な固定費のひとつである人件費を下げることが求められる。
しかし、簡単には首を切れない。
ところが我が教会のように神の導きで、教育部長が人事になることはチャンスなのである。ベテランの教会長なら借りている施設も減らすかもしれない。
固定費の主なものには人件費がある。
これを減らせるならそれに越したことはないからである。
次に入ってきたうわさだと本業として何かをされている方が、片手間に教育部長をされるという。しかも他のスタッフの給料より良いようだ。
統一教会は韓国人にとっても日本人にとってもおいしいところのようである。
まあそれなりに活躍して元を取ればよいのかもしれないと思っていたら、
前任者の牧会者が教育部長に要請して、教区長から却下された人だった。
ということは中心性を無視して内密にことを進めるおつもりなのだろうか?
ところで今回来られた教会長夫妻は信仰のある方達である。
来た早々疲弊した教会のために40万円献金されたのである。
お子さんが進学され大変資金が必要な時なのにである。
こうして信仰基台を築かれ天運を得てスタートされた立派な方達である。
ところが、これでプラスマイナスゼロということだろうか?
問題は教区長が前任者の時に却下したした人物を用いると言うことである。
聡明な方達が何故間違われたのだろうか?
わたしなら教育部長の人件費をそのまま使って、講座を受講する施設をもっと開放的なところに移すことだろう。
このような情況の中では、教会機能は縮小し、マンションのようなところでも良いから、事務や会計ができる必要最低限の施設に後退して、変わりに営業部門である伝道に関係するところに資金を投入することがよい。
伝道が進まない今は先ず最前線の拠点を充実させることである。
礼拝はどこかの施設を借りてやればよい。
問題解決は四位基台から導かれる。
先ず中心は何かを見極める。
中心目的は何か。
そのための中心人物は誰か。
そのための中心施設は何か?
伝道の流れが軌道に乗っていれば教育部長は必要になる。
流れの末端から人が上がってこない時は別である。
すると注目すべき中心人物は受講施設の和動要員の方である。
話したことがないが時々耳にするご婦人が6,000双でおられる。
人ははじめは御言葉ではなく人につながるものである。
この人に会いたい。この人に話したい。
そう受講者が思う人の採用が第一である。
こういう優秀な方はだいたい教会が酷い待遇をして教会に来れなくなることがしばしばあるものだ。
後任者は人材には三顧の礼をもって迎えるべきであろう。
この婦人はすぐに伝道のラインに復帰することが難しくとも、
家庭部長になられると祝福希望者が集まることであろう。
ところがなんと前任者の教会長の夫人が家庭部長を留任している。
ほとんど全く活動もせず、意識すらない。しかし。しっかり給料は金額を要望して受理されこのざまである。
しかも上司の、おそらく1800双の婦人はこの方に同情的だという。
四位基台で中心の次は挌位である。
主体の立場と対象の立場がある。
一方の立場から見れば片手落ちになることを教えている。
主客双方の立場で物事は見るべきである。
気の毒なのは信徒の方だと私は思うのだが・・・
だいぶ前の前任者が教会長だった時に教会に車で来たら、教会の入り口にたくさん信徒が並んでいた。
車の中から私はひとりの少女を見つけた。
周りの人は楽しく談笑していたが、この少女は心霊がずたずたになってほとんど瀕死の状態のように私には見えた。
車のガラスを降ろしてこう言おうか迷った。
「そこのあなた。あなたのことを神様が心配しているよ。何のことかわかるだろう。大丈夫かな。」
あとで聞いて驚いた。教会長のお子さんだった。
家庭部長どころか子供の永遠の命に集中すべきだろう。
自分の子供の状態に気づかないようで、はたして家庭部長が務まるだろうか?
誰も相談したくない人に人は集まらないだろう。
必要のない固定費であり、人件費の無駄である。
さらに驚いたことはこの方の留任は教区長の願いだという話しである。
狸と狐の化かし合いということに結果としてはなってしまっているようだ。
お二人とも大変立派な方なのにである。
さて本題である。
何故、神は女性ではなく男性の特別巡回師を任命されたのであろうか?
それは女性にはできない分野にも踏み込んで教会を建て直させる為である。
百戦錬磨の方々が単に心霊復興のお話をする為に訪問するのではなく、
もっと各教会の事情や運営に踏み込んで、実務的に問題解決して行くためであろう。
何故信徒の中に憤慨するものが現れ続けてしまうかというと、それは決して高度なことを要求しているとは限らない。
極めて初歩的なことすら満足にこなせていない教会運営に疑問を持つからである。
組織図を広げ各人員が何を担当しどのような状態でということから、何をどうして伝道実績を上げるという戦術的な話しも含めて、支社に本社から社長が来たような立場でどんどん案件をさばいて決裁していく。分権前のモーセのようなものだ。
そこまでしないときびしいのが特に弱小地域であろう。
教会長が教育部長まで兼任して苦労をして行けば、教区長というより公的な立場で活躍できる日を持つ可能性が開けることだろう。
わたしなら正式ではなく、若い、それこそ十代の青年でよいから、やる気のある元気の良いものを原理講師にすべく力を貸すことだろう。
どんどん若い人を育てるべきである。
次回は連体とアベル・カイン について語りたい。
カルヴァンの説教にも触れたい。
その前に堕落論でルターのキリスト者の自由がまだ書いていなかった。
志を持った若者がひとりでも多く現れることを
聖和されたお父様と共に待ち続けたい。