堕落論 神が人間の堕落行為に干渉できない理由 同様に真の父も自分と顕進様に干渉させない理由
双子が生まれると骨肉の争いを権力を巡って展開するので、これを避けるために古来から双子が王室に誕生すれば一方を殺さなければならない風習があった。聖書でいうとエサウとヤコブがこれにあたるが、父の嗣業の相続である長子権継承問題を思い出す。
善徳女王は父に捨てられ殺される道を行かねばならなかったが、宮廷女官のソファが死んだことにして密かに宮廷を離れ王女の命だけは助け育てる任務を任され旅だった。しかし、刺客に追われ散々苦労して二人は生き別れになり善徳女王であるトンマンは一人自分探しの道を求め男装して郎徒を経てファラン(花郎)というサムライになっていた。
自分が双子の王女のの片割れであり、一方は悪の勢力によって殺され、天神の女王としてミシルは神官として暦を悪用し民心を支配し国王さえ封じ込めていた。
そこに、日食が起こるや否やで民衆が不安になる事態がトンマンによって引き起こされ、王は神官であるミシルにこの問題を解決するように命じる。
ミシルとトンマンの権謀術数の鬩ぎ合いのなかで、トンマンの読みどおりミシルは罠に掛かり誤断する。
すなわち日食は起こらないと。
しかし日食は起こり、預言のもう一人の女王が壇上に立った。
トンマンすなわち善徳女王である。
ミシルに代わる新たな天神の王女の誕生である。
王妃も王も一連の事実を認め謝罪された。
宮中の王の部屋で王は語りかけた。(善徳女王39話)
「そなたには・・・何と言うべきか。言葉が浮かばない。」
「すまぬ。恨んでいるか?」
善徳女王は
「はい 陛下。」
王
「そうだろう。当然だ。しかし、分かってほしい。」
善徳女王
「ええ 今なら分かります。国王ですから。君主とはそういうものですから。君主は国のために・・・我が子さえも 捨てねばならないことがあります。」
万軍の王である真のお父様においても、あたかも我が子を捨てるような道を行かなければならないとしたら、たとえばどのようなことを指すのであろうか?
その前に、善徳女王によって妨害された悪の勢力は、間髪を空けないですぐさま攻勢に転じた。それは何か?
貴族の基盤が王側に切り崩され持っていかれないようにするため、善徳女王の即位を認める代わりに、祝いの恩赦として貴族が治める租税を軽減する勅書を下してほしいというのである。
サタンが行動するには人的支持者の基盤が必要である。
さらなる人を得るための作戦にとりかかったのであった。
我々は統一教会外部への伝道には意識があったが
よもや統一教会内部で、神とサタンが伝道の陣取り合戦をしているとは思いもよらなかった。
しかし、人を得る戦いが今日まで続いてきたのである。
ミシルは人間世界は、縦に見れば韓国人・日本人・アメリカ人というように区分ができるが、横に見ると「支配する者と支配される者」という区分しかないという。
このサタンの思想が宗教組織にも必ず浸透してくるのである。
神の愛する宗教者の道は祭物になることを選ぶ。
ユシン郎が語るに
イチャドンは自分の命と引き替えに仏教を導入した。
その殉教によって法興王(ポップン)は貴族の力を封じた。
しかし人々の信仰はそう簡単に変わらなかった。
そこで神殿勢力が権勢を振るって王宮を蹂躙したという。
原理講論の堕落論には
未完成期にいる人間を神が直接主管し、干渉されるとすれば、これは人間の責任分担を無視する結果となり、神の創造性をもつこともできなくなるために、万物を主管する資格も失うということになるのである。したがって、このような人間をして万物を主管せしめることは、不可能であるばかりでなく、未完成な人間を完成した人間と同一に取り扱うという矛盾を招来することにもなるのである。そしてまた、この人間に、その創造性を与えることによって、万物を主管せしめるように設けられた創造原理を、自ら無視するという結果となってしまうのである。それゆえに、原理によって被造世界を創造され、その原則に従って摂理を行い給う神は、人間を万物の主管位に立たしめるために、いまだ間接主管圏内にいた未完成な人間の堕落行為を、干渉することができなかったのである。
お父様が直接主管圏に入られると、神と同じ立場になる。
それ以後は次第に堕落行為には干渉できない情況になって行かれる。
顕進様もお父様の後継者になるためには同様の道を歩まざるを得なくなる。
神の立場で、父の心で、心情の境を行かれる。
そのため、虚偽の報告をする幹部らを前にして、顕進様が「嘘をつくな!」と叱責する時に、正しい顕進様をむしろお父様は諫められた。
神の直接主管圏に立たなければならないからである。
この原理をサタンは逆手にとって応用してサタンの働くことができる基盤を構築してきたのである。
そこで我々信徒が、父と孝行息子に代わって問題を処理しなければならない。
したがって、お父様や御子女様ではなく三足足や善の信徒たちが奸臣たちと直接闘わなければならないのである。責任は信徒にある。
「商道」というドラマで鼎が王を表すという話しがあった。
鼎も三足を持っている。
それらによって定立するのが王なのである。
王心を知りの手となり足となる信徒が神によって求められているのである。
聖和記念日まで3ヶ月である。
韓国の時代劇はほとんどこの宮中善悪闘争史のパターンなのではないか?
清平も韓国の堕落文化に汚染され同様の善悪党争劇が繰り広げられている。
一時のお母様に対する忠誠に生きるか?
永遠にお母様に対して忠誠を現すか?
我々信徒ひとりひとりが問われている。
あなたが霊界に行った時に、あなたの大切な人が地獄にいたのを知った時
あなたは大切な人を見過ごし、ひとり天国で生活できるだろうか?
あなたが見捨てて天国に行く時に、その人がどうしてもっと強くいってくれなかったのですか?と言われたらどうするというのだろうか?
私はお母様も暗に認められた清平の公金横領問題が、一部の信徒の問題だと考えてきた。しかし、教会では、公職者は給料以外に食事を教会経費から用意されて当たり前だという伝統が今も続いている。食事会の名の下に度々公金を使う。ジュースもただである。このようなことはキリスト教会ではあり得ないことである。
キリスト教統一の力があるとは言えまい。
環故郷以前の献身者がたくさんいた時代は、ボランティアで成り立っていた。
家庭を持った教会長も僅かな待遇であった。
そこで食事は兄弟と共にして料金は免除された形であった。
今日では教会長が一番のお金持ちである。
聖職者は誰でも1デナリが与えられるべきである。
総務であれ、会計であれ、教育部長・伝道部長みんな1デナリである。
その他彼らの責務が遂行しやすいように、経費枠を与えるべきである。
収入は皆一律。
扶養家族が考慮された賃金体系になっているかも知れない。
教会長の子供が何人、また子供たちの内容に応じて・・・
教会長の子供は大学に進学して、信徒の子供はそうでない者が多いとしたら大変悲しいことである。
祝福二世は教会の宝であり、教会長は信徒の親であるにもかかわらず、自分の子供だけが大学に行っているとしたら恥だと考えなければならない。
頭である教会長にも手足である信徒にも同様に血液が巡っていて然るべきである。
人間の体がそうなっているのに、ミシルのいう支配者と被支配者になっているとしたら問題なのだ。
宋総会長や徳野会長が改革しようとしても、この世の風習に汚染されている。
例えば牧会者のお金の使い方やお金の受けとり方に問題があることを会計が知って、上に報告しても、さらに上の責任在る会計が牧会者夫人であったら、見逃してしまうのである。
移動が決まって10万が信徒から集まり差し上げた。ところが違うポジションで留まることになった。ところが10万を返さない。さて1年ぐらいで今度は本当に移動になるとまた貰って牧会者となる。
どうやって公金の指導ができるだろうか?
泥棒というのは他人が精誠を尽くして得たものを勝手に使う者のことである。
信徒のお土産代として清平に行く際は3万ぐらい出るとか、東京出張時にいくらだとか。
人を採用するにも裏でやる、しかも正規の相場よりずっと多く与える。
こうゆうように一時的によかれとやっていると、大事な心霊をずたずたにされてしまう。
牧会者がするのでルールより「上手くやる」ことが大切なのだとこの世の悪い風習を身につけてしまう。
アベルに内緒でやっているのだから、私たち信徒も内緒で上手くやればいいんだという新しい原理が堕落行為によって生まれるのである。
ちょっと脱線した終わり方だが、カープにいる副学長レベルの人材に、原理講義と説教・牧会に特化したプログラムの30日から40日の修練会を与えて牧会者に育てられないものだろうか?
カープの献身者は大変な待遇である。
御旨に貢献したい若者を内的にも資金的にも協助する仕組みが求められることだろう。牧会者をほぼ総入れ替えすべきである。
さもなくば、亨進様が新しい革袋たる人材を見つけ育てて下さることを期待したいところである。
チャングムの行く道は茨の道である。
罪がないにもかかわらず悪人にされ、殺されかけ、追放される。
母の命や師の命を奪った輩に対して復讐心ではない、正しい方法での精算を求め、苦悩の日々をおくる。
顕進様の今後の身の振り方に期待したい。