日本の天職は何か。日本は特に何を以て神に仕えるべきか。 内村の言葉と亨進様の説教に思う
内村鑑三は「日本の天職」について「神に対する職分」として以下の如く言う。
「日本の天職は何乎(なにか)。日本は特に何を以て神に事(つか)ふでき乎。世界は日本より何を期待する乎。日本は人類の進歩に何を貢献すべき乎」
以下引用はこの本によるものとする。
この内村の精神を継承してきたのが、我々日本統一教会の信徒である。
アメリカに渡って真正なるキリスト教精神とキリスト教社会を見、日本の行くべき道を尋ねんと胸躍らせていた内村であったが、すぐさまアメリカがキリスト教精神に裏付けされた社会ではなく、むしろ物質文明に毒された堕落した姿を現していることを目の当たりに見たのであった。
「富籤(くじ)、闘鶏と競馬と蹴球試合の場面で目撃されるような広汎な賭博的傾向、・・・・私刑(リンチ)、規模の大きいことは全世界の貿易に比を見ないラム酒取引、政治における煽動運動(デマゴーグ)、宗教における教派的嫉妬、資本家の圧政と労働者の傲慢、百万長者の愚行、夫の妻に対する偽善的愛情、・・・・これが我々が宣教師によって基督教の他宗教に対する優越性の証拠として受け取るように教えられた文明であるか。」
余は如何にして基督教徒となりし乎 鈴木俊郎訳
さてこの現状に対して内村が薦めたことは「日本人たる者は米国並びに米国人に対し、左の態度に出るの必要がある」として以下の五箇条をあげているという。
第一 成るべく米国には行かない事
第二 成るべく米国品を使わない事
第三 成るべく米国人の援助を受けない事
第四 成るべく米国人の書いたものを読まない事
第五 成るべく米国人の教会に出入しない事
「米国人の排斥に会いて」より
凄まじい反応である。
内村はインドにおいて滅んだ仏教を保存した日本、また中国において衰えた儒教を明らかにした、「日本は神国であり、日本人は精神的民族である」として、「神の賜物を看(み)過ごしてはならない。日本人が信義に鋭敏なるは、是れ精神界に於いて神と人とに尽くさん為ではあるまい乎」と結論づけている。
また内村は日本人に「イスラエルの血」が混じっていることと、その価値を深く信じていたようだと言い、神道とユダヤ教の類似点や当時のアメリカにおける日本人排斥に対してあるアメリカ人キリスト教徒が「日本人イスラエル説」をもって弁護したことに感銘を受けたようである。
つまり再臨の時には日本人が選ばれるということであり、日本にこそ再臨主は降臨するといよいよ確信するようになっていくわけである。
さて、亨進様が今日の韓国の統一教会の腐敗堕落を赤裸々に暴露された。
その不義に対する怒りは、真のお父様を彷彿させる程凄まじい迫力があった。
また、一続きのお話をされた毎ににっこりと微笑まれる姿は普段の亨進様そのものであった。
まるで神殿で店を広げ商売をしていたユダヤ人の商品をひっくり返して怒り怒鳴るイエス様を見るようであった。
第一イスラエルとしてのユダヤ人の信仰が形骸化し、キリストが十字架上で息絶えてより、西洋物質世界に逆回りにイエス様の精神が第二イスラエルであるキリスト教徒によって伝播され、流来たってピルグリム・ファーザーズの信仰によって新天新地のアメリカは約束の地カナンとなるべく祝福されていたはずであった。
ピルグリムたちが最初に祝ったイースターでは先住民族のインディアンたちと共に祝ったことが知られている。
内村はそこにキリスト教の本郷の地としての性稟を見、また相続することを夢見た。
そこには無残にも、神の思想ではなくサタンの思想によって浸食された、堕落した基督教文明があるだけで、その心たるキリスト教精神は見る影もなかったのであった。
この辺の事情を内村が「日本の天職」に説明しているとして、前田氏は以下のように纏めている。
内村は言う。「世界今日の状態」で、純然たるキリスト教は、もはや欧米諸国のどこにもない。ルターの信仰はドイツになく、カルヴィンの宗教はすでにスイスにはない。イギリスはキリスト教の本拠地というが、イギリス人たちが大事にするのは教会組織であって、信仰そのものでは決してない。彼らは制度化されていない信仰には何の価値も認めないし、それを説く者は神秘家として排除される。源信、法然が今のイギリスに現れたら、二人は間違いなく神秘家として相手にされない。アメリカはどうか。この国のキリスト教は、イギリスの現世主義を手本として、その先にまで行っている。アメリカ人が信用するのは社会運動としての事業教であり、それは信仰とは何の関わりもないものだ。
韓国は神の御手によって、第二イスラエルのキリスト教信仰を完熟させて腹中教や聖主教のような超絶信仰を生んで主を証した。
その伝統は統一教会に大母様やお母様などによって継承されてきた、草創期の韓国には世界中が挙って見るべきものがあった。
ところがいつの間にかこの伝統は韓国には定着せず、かえって海を渡った日本に旅立ち花咲かせる事になった。
今や新生復活を遂げた北朝鮮がその望みを叶える日を待つばかりの有様である。
教会はその純粋な信仰に於いて内的に絶えず刷新されなければならない。止まれば腐っていく水になるのではなく、絶えず神の息を取り入れるために自ら動いて、御心のままに流れて本流を形成しなければならない。
一世の信仰は失敗したのである。
そこで、ボードメンバーである一世は一掃されなければならないのである。
「あなながたは何故お父様に似ていないのですか?」
とは、我々一世に向けられた言葉である。
お母様が二世に世代交代を急ぐ理由がここにある。
我々一世はその後押しをしてヨシュアと共にカナンに至るのである。
そのお母様が囲われの身であるとして、解放し救い出さねばならないと亨進世界会長はおっしゃられる。
そのためには一世の幹部の一掃である。
表現こそ違うが、
実に真のお母様と亨進様は同じ方向を目指しているのである。
あるものは言うであろう。
子供じみていると。
もっと熟慮して慎重にじっくり事を進めるべきだと。
現実的な策を以て押し進めるべきであると。
しかし私はそのようには微塵も思わない。
先ず、絶対的信仰が確立されずに、永遠の決着など獲得できるものではない。
手練手管の類は、一時的には確かに良い方向に行っているように見えるかも知れない。
しかしそれも束の間で終わることであろう。
ノアが方舟を造り始めたとき、
誰もが嘲笑して見くびった。
その精誠は神を動かさなかったであろうか?
亨進様が創り初めておられる方舟が見えないのであろうか?
イエス様は天界で言っていることであろう。
「信仰のない者よ」
40年間、主の国韓国を神の国として立てるべく支えてきた日本は、この間ずっと悲しみに打ちひしがれていた。
この国は何時になったらお父様の愛に報いる神の国の威光を現すのであろうかと。
尽くせば尽くす程、韓国教会は髪結いの亭主のように、本来表すべき主体性を喪失して、心情を失い、拝金主義に陥り、御言葉さえも葬り去ろうとしているではないか?
むしろ在日同胞の立派な信仰を見習うべきである。
まるで内村が語った没落していくアメリカのようだ。
亨進様を侮ってはならない。
内村は言う。
信仰は信仰である。其の結果如何(いかん)に拘(かか)わらず神を動かし世に勝つの力である。信仰其物を信ずるの信仰、其れが本当の信仰である。
また我々にこう語りかけている。
キリストは日本人の奉仕を受くる特権を有し給ふ。彼の栄光は我らの名誉である。
我らは感謝して彼の召命に応ずべきである。
アメリカのキリスト教社会に挫折した内村は神の御手に導かれ、精神薄弱児の養護施設で彼らの身の世話をすることになり、糞尿垂れ流しの子供に仕え、自己否定され、次第に彼らから大切なものを学んでいく。
恐らく内村はここでイエス様がおっしゃられたマタイによる福音書20章25~28節などにあるイエス様の「仕える主人の精神」を掴んだのであろう。
25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
23章11節には
11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
マルコによる福音書9章33~37節には
33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
祝福二世は我々一世が失敗したようなこの世の権力者になるのではなく、
イエス様や文鮮明 恵父の生き方にあるように
サーバント・リーダーシップの体得に集中することをお願いしたい。
それは、神を証すためである。
母の国としてこの精神の種をもって世界中の国に実りをもたらす。
これによりて、我々は今も昔も将来も未来永劫、神に仕えていこうではないか。
それが我々第三イスラエルとしての矜持である。